三谷かぶき「月光露針路日本 風雲児たち」

タイトルの読みは「つきあかりめざすふるさと」。三谷幸喜さんが幸四郎さん、猿之助さん、愛之助さんとタッグを組み、歌舞伎座で!新作!すごい!作品はみなもと太郎さんの「風雲児たち」から大黒屋光太夫の物語を一本の芝居にしたもので、三谷さんは「風雲児たち」からこれでドラマを一本、芝居を一本創り上げたわけですね。最初のドラマがよくなかったらこの話もGOが出なかったかもしれないし、実績って本当大事ですね。

幕府の方針により「一本マスト」の帆船しか許されなかった江戸時代、江戸へ向かう途中で嵐に遭い、帆柱を切って転覆を免れたものの、あてもなく洋上を漂流することになった光太夫たち一行。その彼らがまさに波乱万丈の果てにもういちど「ふるさと」を目指す物語を描いています。

大きな舞台をひとりで背負って立つことが出来る役者をこれだけ揃えて、しかも脚本を書いているのは三谷さんで、そりゃもう最初から最後まで退屈なんかさせるわけない、という感じ。しかし、この中では圧倒的に三幕が面白く、その最後の清涼感が観劇後の体感をかなり占めているのではないかという気がします。なんで三幕がいちばん面白いか考えると、最も大きいドラマである庄蔵、新蔵との別れを歌舞伎の文法で見せているっていうのがやっぱり大きいと思うんですよね。

ちょっと前に三谷さんが新橋演舞場で「江戸は燃えているか」をおやりになりましたが、三谷さんは劇作の腕は疑うべくもないんだけど、演出家という意味では花道のある劇場との相性がそれほどいいとは思わないんですよ。どうしてもあの奥行きを「物理的」なものにしてしまいがちというか(そういう意味ではいのうえさんの花道の使い方のうまさは天性としか言いようがない)。でも歌舞伎における花道ってそういうものじゃないじゃないですか。で、筋書で三谷さんがあの別れの場面は完全に歌舞伎俳優たちに任せた、と書いてらっしゃるのを見て、そうだよなー!と思いましたし、その目論見はまんまと当たっているなと。

そしてラストシーンに至る幸四郎さんの独白、居並ぶ面々、向こうに見える富士の山、というその最後がやはりあまりにも鮮やかで、その鮮やかさは劇中コメディリリーフのようにも見えていた小市のキャラクターからの積み重ねによるものに違いなく、こういうところはまさしく三谷さんの冴えという感じがしました。

とはいえ、個人的には三谷さんが歌舞伎を書くのだとしたら、こうした有為転変を描くよりも、たとえば文楽作品として書いた「其礼成心中」のようなもののほうが三谷さんならではの爪痕が残せるような気がするなーとも思いました。勘三郎さんも以前「世話物を書いてもらいたい」って仰ってたけど、その気持ちわかる。三谷さんの戯曲のよさを「花見の場所取りのうまさ」と野田さんが評したことがありましたが、たとえば歌舞伎の古典作品の、「そこでは描かれなかった人物やものごと」に焦点を当てるようなものをぜひ見てみたいし、そういうものを書かせたら当代一だと思うんですよね~。

幸四郎さんは今回、常に前向きのエネルギーを失わない「陽性」の人物で、幸四郎さんの面白いところは根っから陰性のキャラクターもその逆も普通に「ナチュラルボーンそういう人」みたいに見えてくるところ。あとあの不思議な高揚感をもたらす長台詞がそれぞれの幕切れで冴え渡っておられましたね!猿之助さん、もう手首をひとつキュッと返すだけで客の視線を惹きつける、歌舞伎「味」をみせる、ほんと華がありますわ。エカテリーナの堂々ぶりもさすがだったし、なんだかんだ幸四郎さんとロシア式あいさつを交わす役だし、なんかもう世界は猿之助さんを中心に回ってる気がしてくる。愛之助さんの演じた新蔵、ロシアに残った本当の理由を明かすあたりで「うあ~ここまで厭味っぽさ出してきて最後にそれ!惚れてまうやろ!」ってなりましたし、前半の若干憎々しさのある部分も含めてはまってたなーと思います。あと、鶴松くん、それほど出番があるわけではないけど、やっぱりめちゃくちゃ芝居心があるよね。少しのシーンでもちゃんと心に残る居方ができてるつーか。

八嶋さんは三谷作品における「いつもの八嶋さん」ではあるんだけど、それをやる場所は「いつもの」ではないわけで、客も「いつもの」ではないわけで、それでもこうして「いつもの」八嶋智人で真正面から向かってきてしっかり仕事をしていく、ほんっとハートが強い。私はまあどっちかといえば「三谷さんたちのいる方」から歌舞伎を見に来るようになった客なので、八嶋さんの奮闘ぶりになんかもう、心から声援を送りたくなったし、あの歌舞伎座の舞台で万雷の拍手を浴びてる姿に思わずぐっときちゃいました。