原題はLittle Womanと原作そのまま。しかし、これを最初に「若草物語」と翻訳したひとはすごいね。もはや、これ以外のタイトルは日本では考えられない。だから映画の邦題にも「若草物語」を引っ張るのは当然だし、しかしこの映画自体は「若草物語」そのままを実写にするというよりももっと大きな枠組があるし…ということでのこのタイトルなのかな。監督はグレタ・ガーウィグです。
「若草物語」での出来事をジョーが振り返る過去の時系列と、今現在の「続・若草物語」の時系列が交互に描かれるんですが、その現在の時系列がラストでもうひとつ分岐し、ジョーが書いた物語としての展開と、それを書いた「ジョー=ルイーザ・メイ・オルコット」としての今、がさらに交錯するという構成。本を書き上げて、ジョーが映画のこちら側にむかって語り掛けるところが物語との分岐点かな。しかしぜんぜん複雑さを感じさせずすっきり見られるのは監督の手腕だな~と思いました。でもって、監督の見せたいものは、「自由な中年女になりたい」というかつての作者(作中ではジョー)の願いであり、それを若草物語は物語として見せつつも、「今」の映画にするためのこれがフックだったんだろうなと。
4人のキャストもイメージぴったりで、特にジョーのシアーシャ・ローナンとローリーのティモシー・シャラメの2人はぜんぶのカットにケミストリーがあふれとる!!!って感じでした。あのダンスのシーンの!!よさ!!!ほんと魅力爆発してたな…。ジョーじゃなくてローリーが相手のくれたおもちゃの指輪を大事にしているところが象徴的だけど、男女の役割をフラットに描こうとしてたし、だからこそあの終盤のジョーの「秘密の小箱」に忍ばせた手紙とのギャップ、その物語を突き放して見ている作者の目…という展開がすっと胸に落ちた感じがあったなー。エイミー役のフローレンス・ピューもすんばらしかった。彼女の低い声が映えるエイミーだった。女にとって結婚は経済と言い切るエイミーはジョーとは違う方向ではあっても自由な中年女を心に飼っているひとりなんだなあと思った。
原作の「若草物語」、もちろん読んだことがある、読んだことがあるどころではなくて、何度も何度も、繰り返し読んだ本でした。出てくるエピソードは全部覚えてたし、自分のイメージ通りだった部分もそうでない部分も楽しめました。しかし、それはそれとして、見ている間心のどこかでずっと考えていることがあった。私はこの4姉妹のなかで、ベスがいちばんのお気に入りでした。今で言えば「ベス推し」とでもいいましょうか。こうして「今」の映画になったこの物語を見る時、ベスの存在ってなんなのかな、ということを考えちゃったんですよね。若草物語自体は実体験をもとにしているとしても、古今東西の物語に「ベス的なもの」ってすごくたくさんあるじゃないですか。とある劇作家の言葉を借りれば「他人の人生を生き生きとさせるのに必要で、それでいてなんの実体も持たない存在」。子供の頃本を読んでいた時にはまったく感じなかったことだけど、今回の映画を見ているときに、それでベスという人は実際どこにいるんだろう?何を考え、何を嫌い、何を好きだったのか。ほんとうに皆が口をそろえて言う「天使」だったのか。そういったピュアネスを具現化したような存在を、若草物語に限らず長じてもなお贔屓にしてしまう自分のこの性質はどこからきているのか。ジョーはベスによって、もっといえばベスの死によって自分の人生の実体を手に入れる(と本作では描かれている)し、そこにこの映画の力点が置かれているいっぽう、グレタ・ガーウィグの興味はベスの上にはないのだなあということも感じたんですよね。
ジョーやエイミーが100年前に描かれた小説から現代へ飛び出してくるような息遣いを見せた、その輝きに惹かれつつも、「自由な中年女」になれなかったベスのことを考えてしまったあたり、幼少期に刷り込まれた物語の力は容易に消せないな…としみじみ思いました。