誰もが(?)知る、着せ替え人形バービーの実写化ですが、監督がグレタ・ガーウィグって時点でぜったい一癖ある作品になるだろうなって予感がぷんぷんしたし、寓話要素つーかメタ的な構造になるんじゃないかとおもって期待していたわたし(オタクはメタ構造が大好き)。公開前に、全米で同日公開になるノーラン監督の「オッペンハイマー」と組み合わせた頂けないネットミームが流行ったりしてオイオイ感はあったものの、だから映画も見ない、という選択肢は取れないダメなエンタメ好きとはおいらのことだよ。
実際期待通りに寓話的というか、バービーが「永遠の都」だったバービーランドから、「現実」という世界にやってくる話なんだけど、こういう物語構造って結構スタンダードではあるよね。ある意味人魚姫とかもそうかもしれないけど、不老不死の世界にいた者が「こちら」の世界にくるっていう構図。ただそのきっかけが往々にして「恋」を介在させていたのに対して、この「バービー」では自我の目覚め、生きるとは、死ぬとは、他者とは、という問いかけから永遠の都を脱してくるというのが面白かった。
冒頭の「2001年宇宙の旅」のパロディで、「赤ちゃん人形の世話」しかなかった女児の遊びに「自分を着飾る」バービーが世界を変えた、って表現するの、インパクトすごかったですね。メタ的な台詞も多くて、「私は美しくない」って嘆くバービーに「マーゴット・ロビーが言っても説得力ない」ってナレがかぶったのには笑いました。
バービーを描くと同時にケンを描く映画でもあって、バービーランドではアイデンティティが極限まで削ぎ落されているケンが、現実社会を見て男性優位思想に感染し、バービーランドをケンダムに変えようとする…っていうのが、男女を鏡合わせにした表現としてパンチが効きすぎててすごかった。バービーたちの反撃で描かれる「とにかく蘊蓄を語りたい男たち」の描写も思わず笑っちゃったし、「mojo dojo casa house」のアホっぽさもほんと容赦ない。ケンがあんなに馬にこだわったのって、やっぱりアメリカ社会におけるカウボーイ幻想みたいなものがあるんだろうか。
この映画のクライマックスというか、肝なのはやっぱりグロリアの演説にあると思うんですけど(あのセリフに共感しないでいるほうが難しい)、私がすきだったのは最後にグロリアがマテル社に「普通の」バービーを作ることを提言することですね。今の社会の「何者かにならなくてはならない」呪いって結構すさまじいものがあると思っていて、それはSNSの発達などで「誰でもが何かになれる」可能性が示されたからこそ、より強力になってしまってると思うんですよね。でもべつにそんなことない。男でも女でも、「何か」にならなくたって、どんな人生も生きていることそのものがクリエイティブなことだろうと私は信じているので、グロリアのあの発言はぐっとくるものがありました。
映画の最後にバービーが向かうところ、私は就職面接でも受けるのかなと思いながら見ていて、「婦人科」の字幕が出てうわっなるほどそう来たかと思ったし、これは女性監督ならではの視点だなと膝を打ちました。そうだよね、バービーが現実で「バーバラ・ハンドラー」になるとき、今までと一番変化するのは「性」との付き合い方だよね、バービーランドにはだって、生理だってなかったわけでしょ?
この映画がアメリカで超特大ヒットしているのはすげえことだなと素直に思う(リカちゃん人形がこういう形で実写化されるのを想像するとその遠さがより実感できる)し、マテル社のCEOではないけど、「売れる」ことで変わる世界って確実にあるので、そういう意味でもエポックな映画であった気がします。