「君たちはどう生きるか」


宮崎駿監督10年ぶり?の新作。1枚のポスター以外一切の宣伝をしない(予告編も出さない)という徹底ぶりが話題に。たぶん、この映画が普通に予告編があって、宣伝バンバンされて、というものだったら私は見に行っていないと思うので、鈴木敏夫プロデューサーの戦略にまんまと乗せられてるなという感じはありますね。だって風立ちぬは見てないしハウルも見てないし、ポニョも相当後年になってテレビで見ただけだし、ジブリ作品を映画館で見るの千と千尋以来じゃないかと思う。で、なんで足を運んだかっていうと、映画の製作費の少なくない部分を宣伝費とやらが占める昨今の状況で、何の前情報もなしにいきなり映画館で作品を見る、という「体験」ってなかなかできないぞと思ったからです。

宣伝を打たない、のか、打てない、のか、打たない方がいい、なのかわかんないけど、ともかくそういう判断がなされたということは相当に内省的、観念的な映画になっているのでは、というのが私の予想だったんですが、当たってる部分はありつつも、予想よりもエンタテイメントな部分が強かったなというのが最初の印象。あと本当にしつこいくらい(千と千尋もそうだったように)何かを「くぐって」あちら側に行く、というモチーフが繰り返される。

岩や大叔父をめぐるやりとりは確かに観念的ではあるし、あの大叔父は誰の暗喩なのか、どういう寓話なのか、という考察のし甲斐がありそうな描写だったけど、わたしにはあの積み石をほんの少し触って「これで1日持つ」と語るところ、それを誰かに継がせようとするところ、それが拒否され(ここでの眞人の『ともだちをつくります』という台詞めちゃよかった)ついに岩の世界が解き放たれるところは、大叔父が誰をモチーフにしたものであっても、創作者が語る創作の世界の終わりだと思えてぐっとくるところがあったな。作家が語るからこそ重く感じられるというか。その昔松尾スズキさんが作品のなかに出てくる「作家」にもう書きたいものなんてない、と言わせてたときに感じた寂寥感にも似てる。

向こうの世界の海で眞人を助けてくれるキリコさんやあの童話世界みたいなおばあちゃま方もよかったけど、今作はアオサギがなんつっても魅力的ですね。騙し騙されみたいなところから最後には眞人を助けてくれる。こっちの世界に戻ってから「ペリカンは無事だったんだね」という眞人になんで覚えてるんだ、普通は忘れちまうもんだ、と言い、眞人が手にした積み石と人形を見て、これのせいか、でも大したもんじゃない、すぐに忘れちまう、あばよ、友達っていうあの去り方。岩の世界が想像と物語の世界だったとするなら、物語の世界が現実世界に残していけるものなんてそんなもんだよ、ともとれるし、でも最後の台詞があばよ友達なんて、幼少期に物語の世界の住人とたしかに手を繋いだ記憶がある人間にとっては、これ以上ない胸に残る去り際だったんじゃないでしょうか。

宮崎駿富野由悠季がいて、ふたりがしのぎを削って作品を創って、それに触発された創り手がいて…みたいな時代を経験して今があるから、当たり前のように思ってしまうけど、こういうアニメーション映画があって普通に観客が入る(ジブリブランドありきとはいえ)って、日本のアニメーションの「文化」だなあってしみじみ思いました。作品としてこれ以上ない傑作、頂点、みたいなものとは思わないけど、こういう作品があるのは文化としての強さでもあるよなと。

宣伝をしていないので声優陣も軒並みシークレットでしたが、アオサギ菅田将暉さんだったのすごいよね。いやぜんぜん気がつかなかったわ。

作家が書きたいものだけを書いた、という意味でなかなかない稀有な映画だったなと思いますし、そういう「作家の原液」みたいなものに触れる機会として貴重だったなと思います。この宣伝をしない手法はさすがにそうそう使えるものではないけれど、それでちゃんと客を呼んでいるので、さすが宮崎駿ブランド、ジブリブランドの強さを実感。