「ブラックパンサー/ワカンダ・フォーエバー」


ブラックパンサー続編、監督は引き続きライアン・クーグラー。続編の制作は「ブラックパンサー」公開直後にすでに出ていて、というか出るまでもなくあそこまで大大大ヒットしてるわけだから当然既定路線だったわけだし、その時点で監督も主演も引き続き続投という所もアナウンスされていたと思う。

チャドウィック・ボーズマンが2020年8月に亡くなり、この続編は彼の死により大きく作品の舵を切らなければならなくなったことは想像に難くない。そういう意味も含め、観る前はなんだかいつもとは違う緊張感が自分にはあった気がします。

観ている間に私の中で浮かんだ感想とも言えない感想は「むずかしいな」ってことでした。映画が難解であるとかそういうことではなく、筋立てが複雑とかそういうことでもなく、どうやっても現実とオーバーラップしてしまうスーパーヒーロー映画としての処理が自分の中でむずかしい、そういう感じ。うまく落とし込みができないというか。でも、それこそがこの作品の製作陣の向かい合った現実ですもんね。人間はそんなに簡単に残酷な現実を自分の中にうまく落とし込んだりできない。

映画の中のティチャラは「今ただそこにいないだけ」って描き方だって、とうぜん可能だったと思うが、この作品の中でもティチャラは病と闘って命を落としてしまう。誰にも言わずに…というところまで、どうやったってチャドウィック・ボーズマンの病への向き合い方を思い浮かべずにいられない。シュリは、最愛の兄を喪った喪失感、なんでもできるのに、いちばん大切な人を助けられなかったという無力感にさいなまれる。一方、ヴィブラニウムを保有するワカンダを狙う者は少なくなく、女王ラモンダは外圧の対応に追われる。そんな中、ヴィブラニウム発見機を発明したアメリカは、海中にヴィブラニウムの痕跡を見つけるが…というあらすじ。

ヴィランとして出てくるのが、マヤ文明をモチーフにした海中に棲む民族で、彼らが海中に自らの都を求めた背景も、またその故郷がコンキスタドールによって侵略の限りを尽くされたこともあり、言ってみれば「虐げられたものの正義」に依っているところがあるので、ワカンダが彼ら(タロカン)とどう戦うのか?というか、なにを戦いの旗印にするのか?というところが脚本の処理としても難しいところだった感はありましたね。ワカンダとタロカンが手を組めばこの世界をひっくり返せる、という野望をネイモアがもし語らなかったら微妙なところだったなと。逆に足掛かりがそれしかないとも言える。

とはいえ、今作の肝はやっぱり劇中のキャラクターも、この作品を創っている画面の向こう側の人たちも、そして客席にいる私たちも、大きすぎる喪失とどう向き合うのか?というところにあった気がしていて、シュリを演じるレティーシャ・ライトのあの薄い肩を見るたびに、どうしてこんな重荷を彼女が背負わなければならないのか、と思わないではいられなかったけど、それをシュリに対して思っているのか、レティーシャに対して思っているのか、自分でもその境界線があいまいになる瞬間が何度もあった。

だからこそ、あのハーブを再生させて、シュリがあの祖先の平原で出会う人物がウンジャダカだって言うのが本当…いろんな意味で胸にささる場面だった、あれは。ウンジャダカがシュリに「似てる」というのも、お前の兄は高潔すぎた、というのも、最後までやり遂げるか、と質すところも…。

シュリは最後にはただ復讐の炎を燃やすだけではなく、すべてを喪っても、その向こうにあるものを掴むのだ、というところまで描いていて、考えてみればスーパーヒーローオリジンというのはいつも、主人公が何かを喪失するところから始まる物語だよな…と改めて思ったりしました。

この作品はとにかく女性陣がすばらしく、シュリはもちろん、ラモンダ、オコエ、リリ、そしてナキア、みんな強く、たくましく、自分の声を持ったキャラクターばかりで、彼女らの活躍を観ているだけでも満たされるものがありました。個人的にナキアを演じているルピタ・ニョンゴがむちゃくちゃ好きなんですけど、今作でも聡明で強さとしたたかさのあるナキアを素晴らしく演じていてもう目がハート。あとオコエも本当にだいすき。オコエとシュリのアメリカキャンパス珍道中もっと見ていたかったなー。

海底のタロカン帝国はマヤ文明オマージュなので、チチェン・イッツァーにも残っている球戯場遺跡と同じもの(高いところにある輪にボールを通す)も出てきたりして、タロカン自体はすごく魅力的に描かれてた印象です。また出てくるのかな。しかし、このあとに続くアバター、来年のアクアマン続編と水ものが続きますね…!

シュリが葬儀の服を燃やし、兄を想うラストシーン。まあ、そりゃもう泣かずにいられなかったけど、それでも彼女の喪失は彼女だけのもので、映画だからできる、映像だからできる小細工は一切使わず、今この手にあるティチャラの思い出だけがぜんぶで、我々はそれを持ってこの先を歩いていかねばならないのだ、ということをシュリの涙を見ながら感じていた気がします。