「髑髏城の七人 season鳥」


しょっぱなから遠慮会釈なしにネタばれるよ!!!

阿部サダヲを捨之介に据えた「season鳥」。天魔王にはワカドクロでも同役だった森山未來、蘭兵衛も同じく早乙女太一。この三役だけの舞台経験数でいえば、花鳥風の中では鳥がダントツなのではないでしょうか。サダヲは本来の捨のキャラクターのニンではないですが、そこは捨をより「忍び」の世界に近いものとして描くという構想、かつ歌と踊りをばんばん入れます!という趣向が打ち出されてます。

見終わった後の私の心の第一声が「あーー満足した!新感線を見たって感じ!!!」というものでした。なんでしょうね。満たされました。ものすごくツッコミどころも多いんですけど、満たされ感のほうが上回った。なんなんだろう。歌?歌なのかな。個人的に劇中に歌が入るのそれほど歓迎している人間じゃないので不思議なんですけど、でもいっぱつめの歌がはいったときの「こ、これやー!」感がすごかったのも事実。劇中歌がまたすごくいいところでかかるんだ!そうだった…このいろいろ取り交ぜてとりあえず全部鍋の中に入れて煮る!みたいな姿勢!これが新感線!踊りはもっと踊ってもいいと思ったけど。もっと踊ってもいいと思ったけど(2回言った)だってーー未來がいるんだからさーーー!!

構成としては歌と踊りを入れてでも上演時間は3時間半に収めているってことで、わりとばっつんばっつん切ってます。無界屋に沙霧を連れて行くための流れがむちゃくちゃショートカットされてますし、花の時にあった沙霧が目の前で祖父と父を殺されるってのもカットされてるし(ほんとカットになってよかった、あれマジ意味わからんと思っていた)、天魔王が捨に夢見酒飲ませるところもばっさりいっていた。しかしそれ以上に今回の「鳥」は今までの髑髏城と大きく方向転換をした一点がある。それは「天魔王と捨之介を対の存在として描かない」という点です。ご存知の通り、この役はもともと一人二役で演じられていたので、そもそも役柄からしても「天が信長、地が捨、人が天魔王」というトライアングルだったわけです。天が抜ければ残る二角は捨と天魔王。このふたりがフューチャーされてしかるべき、なんですが、蘭兵衛という役が持つポテンシャルというか、設定もりもりなところに、キャストバランス的に蘭の役がどんどん膨らんでいって、結果「えっと誰と誰でトライアングルなんでしたっけ」みたいな感じになっていた。で、じゃあ今回は誰と誰が対なのか?というと、それは蘭と天魔王なんですよ。これ劇中のかなり核心部分のネタバレですが、今まで「光秀をそそのかしたのも実はお前」という設定はずーーっと残っていたんだけど、今回もしかしたら初めてといってもいいぐらい、そこに至る心中が描かれているわけです。なぜ、天魔王は信長を陥れることを考えたのか。これだけ尽くしても、天は自分のことを歯牙にもかけない。寵愛を一心に受けるものへの嫉妬。おれの理想とする信長はこんな人物ではない。理想でないなら滅ぼしてしまわねばならない…

じゃあ捨之介はなんなのか、というと文字通り地を這うものなんですね。その三人よりも、もっと地面に近い、低い所にいる。おそらく天魔王は捨の存在をもはや歯牙にもかけていない。「てめえが雑魚だと思ってる連中」のひとりに、捨も入っているってことです。そして捨は捨で天魔王に因縁がある。ここも大きな転換点のひとつですが、捨はぜんぜん「すべて流して捨之介」じゃないのよ。だって最初っからバリバリ天魔王に意趣返しする気満々なんですもん。あのね、正直捨と本能寺にまつわる書き込みは、ちょっとさすがに安易がすぎるというか、もうちょっとなんかなかったのかよーと思わないでもない。だって忍びのものならそこはもう何をもってしてもお主大事でないとだめなのでは!?ってなりますやん。間に合わなかった事情にはもっとパーソナルな、だからこそ後悔が大きいもの(ダークナイトのレイチェルかデントかみたいな、ああいう葛藤)が欲しい気がしました。

とツッコミどころは結構あるんですが、それでもこの転換点はうまく作用していたような気がします。構図としてもしっくりきましたし、なによりそれに説得力を持たせるサダヲの力量!そして対として描いて絵になる未來と太一のポテンシャル!

でもって、私が一番「満足した」理由はおそらく、笑いです。笑いがちゃんと作用してる。すごいどシリアスなシーンでもくすぐりを入れるその精神。笑って、それが次の興奮へのキックスターターの役割を果たしている。こ、これだよ〜〜〜〜〜!!!!いやーもうヒイヒイ笑いました。サダヲをはじめ、成志さん、転球さん、そして未來が貪欲に笑いを取りに行くの、ほんと感謝しかない。特にサダヲと成志さんのすべり知らず王ぶりったら!

演出としてはね、いちばん言いたいのは「セット…変えてほしい〜〜〜!!」ってことでしょうか…百人斬りをステージ移動しながら見せるのはよかった(っていうか花の百人斬りは間口狭すぎ問題)し、あと「てめえが雑魚だと思ってる連中の力…」の台詞のあとで5人が駆けていくシーン、セット裏にどたどた去るんじゃなくてステージを走るようにしてたのもよい変更。とはいえ、主要なセットがそのままつーかマイナーチェンジしかしてないので、これ4シーズン全部この風景だったらさすがに飽きるよって気がしちゃうんですけども。

いや、しかし、阿部サダヲのうまさよ。おそろしい。もはやおそろしい。知ってたけど観るたび思い知りますね。瞬発力つーか、爆発力つーか、あのタイトルバックどーん!!のところ、なんの脈略もなくうおおー!!!って心が震えますもん。こ、これだよ〜〜〜!(こればっか)ものすごくやることがたくさんあって、しかも殺陣も逆手で納刀も難しいし、まだちょっといっぱいいっぱいかなーと思うものの、それは回数を重ねて全部が体に入ってくればさらに威力を増すだろうということは想像に難くない。あの最終対決のところもね、理屈でいえば「ん?」みたいな部分もあるんだけど、なにしろ「地を這ってからが本番だ!」っていうサダヲがかっこよすぎて、胸熱すぎて、完全に「こまけぇこたぁいいんだよ!」状態。そして笑いという笑いを外さない天性の勘…ほんとうにありがとう…。あの惚けたフリしてるところとか、「これ洋画でよくあるモブがなめてかかったおっさんがめっちゃ強いパターンやーん!」って思って楽しかったです。ほんと、センターに立つために生まれてきたような役者だよね。格が違います。

そして成志さんの贋鉄斎なー!たぶん、すでに舞台をご覧になった方なら頷いていただけるんじゃないかと思うんだけど、チケット代をその分上げてもいいから成志さんをタクシーで帰らせてあげて…っていう(笑)いやもうね、あの雷様見た瞬間に思いましたよ。「これは…回るな」と。回ったよね。そりゃ回るよね。全編にわたって体を張ったお仕事にもうひれ伏します。本当笑いました。っていうかいのうえさんは成志さんを不死身と思っている節がある(笑)今回の贋鉄斎が捨の依頼を素直に聞かないのも新しいよね。より滲み出るマッドサイエンティスト感。

未來くんの天魔王、英単語を混ぜ込んでいくスタイルでこれは笑いに振ってるのかどうなんだろう!?と最初はとまどったんですが、ジパングわからないシーンで爆笑しましたしそのあとは遠慮なく笑わせていただいておりました。だってどんだけオモシロに振っても、一瞬後にはどちゃくそカッコいい芝居に戻っているわけで、とにかく役者から出てくる圧がすごい。カーテンコールのとき、その無言の圧にのまれまくってもう、かゆい!かっこよすぎて首がかゆい!て謎現象にもだもだしたし、なんなら私たぶん髑髏党に入っちゃうんじゃないかと思うもの。むしろ入りたいもの。あんなカーテンみたいな衣装であの動き、あの立ち回り、そしてマント!もう!ずるい!赤い衣装で太一くんと並んだ時の聖と邪な感じもよかったなー。あの二人が対になることで太一くんの中性的な魅力がより際立っていたように思いました。太一くんも「蘭丸」に戻ってからの方がより炸裂していたような気がする。立ち回りの華麗さはもはや並ぶものなしだしね!

兵庫の転球さんの役どころも実はちょっと変更してますよね。これは小路くんとの対比もあるけど、いい転換になってるんじゃないでしょうか。あとやっぱうまい。場数だなーと思わされるのはこういうところですね。個人的に私が髑髏城で一番すきな台詞をぐっと納得のいくトーンで聴けてうれしかったです(またここでかかる滝さんの歌がいい!)。善さんの狸穴もさすが(この役基本的にうまいひとしかもってこないよねえ)、のんしゃらんとした味がすごく活きてました。最後結構大事なところで秀吉と家康を言い間違えておられたので若干私が焦りましたが(なぜお前が)。粟根さんの渡京…算盤コロ助くんふたたび!そしてあの立ち回り復活!ありがとうございます!!!あのあとで起こった拍手は「同志」感すごかったです。またつまらぬものを数えてしまった…が聞けてほんと腰が浮きかけました。あと、松雪さんの極楽も葉月ちゃんの沙霧も文句ないんだけど、やっぱ蘭が立って蘭と極楽を書き込んだことで沙霧が役としてちょっと沈む形になるのはどうにかなんないのかなーと思うところではあります。

主要キャラの関係性を書き換えた中では、なんというか原石として磨いてみたいというか、この線でいったら違う鉱脈がみつかりそう!な気配のする改変で、できればもっとじっくり時間をかけて書いてみてほしかったなーというところはありましたが、とはいえ何度も言うようですが満足度は非常に高かったです。笑えて泣けてカッコいい。トゥーマッチでトゥーファット。新感線を見た!!!という気持ちで満たされまくった夜でした!

普通の人々


ひよっこ」、毎日たのしく拝見しています。今の住所に引っ越してきてから通勤時間が短くなったので、朝ごはん食べて、8時からの放送見て、着替えて、家を出てる。最初の3〜4回見逃しているので初回から全部ではないのだけど、見始めてからは欠かさず見ています。

見ていて、出てくる女の子たちはみんな、かわいいし、男の子は基本、気は優しくて力持ち(そうでもないタイプもあり)だし、よく「悪者がいないよね」なんて感想を目にしたりもします。確かに。でも、それなのに、こんなにおもしろい!それが本当にすごいと思います。個人的には悪者がいない、というよりも、カリカチュアライズされた登場人物がいない、というようにも感じています。彼らはみな、市井の人々、普通の人々、誰でもない誰かで、それはつまりあなたであるしわたしでもある。

ただ、普通であれば面白いかというとそんなことは勿論ないわけで、むしろ私は「等身大」なんて言葉くそくらえ、エンターテイメントこそ過剰であるべき、トゥーマッチなものにこそお金を払いたいよわたしは!と常々思っているのだけど、その点からいくと「ひよっこ」はぜんぜんトゥーマッチじゃない。なのになぜこんなに物語の登場人物に心打たれるのか。それはなんというか、ほんのすこしでも、人間として「そうありたい」と願う姿が時折描かれるからかもしれません。

みね子が、お給料の手取りが減ってしまって、すずふり亭で食べていたメニューがまた一番安いコロッケに戻ってしまって、頼めばそれはなんでも食べさせてくれるのかもしれないけど、それはいやで、父親がいなくなって、東京に働きに来て、家族のためにお金をおくって、「それだけじゃ自分がいないから」、こうして毎月ちょっとずつ高いメニューをオーダーすることを楽しみにしてきたのに、と語る姿。

つっけんどんな物言いしかできなくて、勉強ができるのに進学できなくて、その鬱屈を全身で表していたような豊子が、時子に、もういいじゃん、もうそういうのやめていいんだって言ってもらえて、だからこそ工場が閉鎖するときにどうしても納得できなくて、いやちゃんと納得してるんだけど、ただ、「いやだってしゃべりたい」、この場所が自分にとって、どれだけ失い難いものだったのか、を必死で訴える姿。

宗男さんが、あんなにビートルズが好きで、命と命の挟間のような瞬間に敵兵からかけられた笑顔がわすれられなくて、こうして生きてるっていいたい、笑って生きてるっていいたい、それほどビートルズに思いをかけているのに、島谷くんが差し出したチケットを「どうして黙ってた」って聞いてあげて、そのチケットをみんなの前で出せなかった彼の心情をちゃんと汲み取って、そうしてそのチケットをビートルズに会えなくて泣いてる女の子にあげてしまう姿。

私だったら?私だったら、お給料さがったことを泣きついて甘えるし、あんなに素直に自分の心情をさらけ出すのはこわいし、目の前にビートルズのチケットがあったら、それが自力で当てたものであろうとなかろうと行ってしまう。「行きたい気持ち」は誰にも負けないんだからなんて免罪符をつけて、行ってしまう。

ひとつひとつの描写がていねいで、展開をあせらず、「書きたい何か」のために人物やエピソードが歪められていく感覚がなく、時には「こんなにのんびりした展開でいいのかな?」と不安になったりするのに、でも振り返れば「思えば遠くにきたもんだ」なのだ。たとえば、お正月に里帰りした回なんて、とてもよかった。みね子はほとんど寝ていた。主人公が、ほとんど寝ていて、15分。でも、そうだよね、と思う。実家って、なんか、寝ちゃうよね。きっと安心しきってるからなんだよね。それだけの時間と緊張を、みね子が東京で過ごしてきたってことなんだよね。

主人公であるみね子の周りで、ドラマらしいドラマといえば父親の失踪の一点に尽きるんだけど、そのドラマ(謎)ばかりを追いかけているわけでもない。実際に今日(7月5日)の放送回で、「どうしているかわからないことに慣れてきた」という台詞もある。劇的要素が日常に埋没していく残酷さ。みね子が父に語り掛けるモノローグと、増田明美さんのやけにメタなナレーションの味わいも、とてもいい。

この間実家に帰ったとき、ひよっこ見てる?と父と母に聞いてみた。もちろん見てる!すごくおもしろい、あの時代に東京に上京していくときの感じがよく出てる…と嬉しそうに話していた。父も母も、ひよっこたちとそれほど変わらない時代に、「田舎」から都会に出てきた経験がそういえばあるのだった。

先週から、ずっと1966年6月のビートルズ旋風が描かれており、今週はまさにビートルズを愛してやまない宗男おじさんの熱い思いが語られるすばらしい回が続いています。明日はそんな宗男さんを演じる峯田和伸が「あさイチ」にゲストで登場!これからどんな展開が待っているのか、胸をときめかせつつ明日を、来週を、来月を楽しみに待つことができる、嗚呼、なんと素晴らしき朝ドラ!みなさんもぜひ!

「俺節」

原作未読。関ジャニ安田章大くんが主演ということで、まーこれはチケット取れない案件ですよねーと流していたんですが、東京公演の幕が開いたら相次ぐ絶賛評に、そ、そんなに〜!?と気になってしまうシアターゴアーの習性…。いやでもどうせチケット手に入らないしな〜と思いながらおけぴを眺めていると、大阪公演はキャパの大きさにも助けられて3階席だとわりと譲渡が出ている!マジか!ぽちっとな。←私の人生こればっか

ということで3階席の後ろの方から見てきました。いやーよかったです。物語は青森から歌を志して上京してきた若者の、地べたを這いずるような日々を描いているわけですが、原作よりも構成をすっきりとさせているみたいですね。中心になるのは主役のコージ、その相方のオキナワ、そしてテレサ

音楽を扱う漫画には数々の傑作・名作があると思いますが、それを実写化する、もしくは今回のように舞台化するとなったとき、結局のところ一番のハードルはその「音楽」というものになってしまうと私は思っていて、なぜなら漫画を読んでいるときはその音楽は脳内で鳴っている。「天上の音楽」「天使のような歌声」「自然と踊りだすリズム」…それらは脳内ではいくらでも再生可能だ。だけど、実際に聴かせるとなったなら、それだけの説得力を物理的に備えたものでなくてはならない。

もし、単に歌の上手い、下手でいえば、安田くんよりもうまい人はおそらく沢山いるだろうと思う。しかし私がすごいと思ったのは、安田くんの芝居にはなによりもその「物理的な説得力」があったことでした。「歌でお前らを倒す」と言われて、実際にその「歌」に説得力がなかったら、今回の舞台そのものが成立しない。でも、あるんですよ。歌しかない、歌に賭けている、その歌の中に自分がいると思わせる説得力が。

しかも、劇中ではその「魂の叫びのような歌」ではない「普通にうまい歌」を歌う場面もあり、かつ「ああ今のは普通にうまいだけだよなあ」と観客に思わせるとかどんな手練れだよと思いました。耳がいいんだろうとおもうけれど、終始訛りのある台詞回しもまったく問題なく、芝居が多彩。安田くんはこれから舞台でバンバン声がかかりそう。とはいえ関ジャニのお仕事も忙しいだろうからそうそう機会もないかもしれませんが。

相方のオキナワをやった福士くんがこれまた達者としか言いようのない芝居!西岡徳馬さん演じる演歌の大御所とのやりとりよかったなあ。ケレンというものをわかりきっている徳馬さんがすばらしいのは勿論だが、福士くんもよくそれについていっており、なんというか一瞬つか芝居の手触りを感じるような滾る瞬間があった。あそこで拍手きちゃうの、わかるわかる。ふたりがそういう芝居に持っていっているものね。徳馬さんが歌について語る台詞の説得力ったら!

六角さんがなにをやらせても唸るほどうまいのはもう折り込み済みだし、中村まことさんに高田聖子さん、小劇場界の猛者たちも自分の仕事をきっちり果たしていてさすが。シャーロットさん演じるテレサの役、原作ではフィリピン国籍だそうだけど、ウクライナに変えていて、そのあたりあの搾取される女性たちのディティールがすごくよく取材されてるんだなーと思いました。もちろんファンタジーもあるんだけど、その配分が絶妙。

奥行きのある舞台でしたが小さいセットをうまく展開させていて、福原さんの演出は安心して見られるなーと思いました。そして本水大好きだよね…福原さんね…(笑)

幕切れも絵に描いたようなハッピーエンドというわけではなく、でもすっきりとさわやかで、あのすぱっとした終わり方は非常に好みでした。3時間半の長丁場、二幕に至っては110分の長さですが、それを感じさせない舞台でした。見られてよかったです!

「無休電車」劇団鹿殺し

  • シアターブリーゼ P列23番
  • 作 丸尾丸一郎 演出 菜月チョビ

2013年初演。「電車は血で走る」の5年後を描いています。前作の最後でもう一度夢を、と立ち上がったけど、結局のところ生活に追われ、そして創立メンバーが不慮の事故で亡くなってしまう…

「電車は血で走る」から5年の開きがあるわけですが、物語の構造もよく似ていますし(常ならざるものが物語の主人公の導き手となる)、電車を運命になぞらえる見せ方もほぼ踏襲されているといっていいのですが、しかしこうしてふたつの作品を連続で見ると如実に感じること、それは
う、うまくなっている…!
うまくなってるというか、洗練されているというか、観客にどう見えるかという視点がちゃんとあるというか。何しろ見やすい。無休電車は「銀河鉄道の夜」がひとつの大きなモチーフとなっていますが、単に劇中劇として処理しているように見えたものが、物語の大きな柱となるところなど、ひやーうまいなーとしみじみ感心してしまいます。

劇団で上京してきたときの東久留米での共同生活とか、無休電車もまたエピソードの中にノンフィクションの種が混じっており、中でも作家の「もう書くことがない」という台詞とかよかったなあ。そしてこの世界における運命共同体、電車を劇団に見立てた台詞の数々も印象に残りました。

見せ方もだけど、ギャグも洗練されてたよなー。あと、あの稽古風景はどうしても「半神」と「朝日」のアレを思い出さずにはいられない(でも意識してないわけないと思う!)

作品を較べるというのはほとんど無意味なことというのは重々承知の上なのですが、もし私が芝居をあまり見ない友人にどっちかを勧めるとしたら「無休電車」を勧めます。安心して楽しませてくれるだろうというクオリティがある。でも、たとえば「電車は血で走る」みたいなやつをうっかり見て足をつかまれちゃったら、きっとこの世界から抜け出せないだろうなとも思う。そういう「理屈じゃない」パワーがある。いずれも魅力のある作品で、同じモチーフでありながら、こんな風に手触りを感じさせてくれるというのも面白いですよね。二作品を連続という試みの醍醐味を存分に味わうことができたと思います。

「電車は血で走る」劇団鹿殺し

  • シアターブリーゼ Q列15番
  • 作 丸尾丸一郎 演出 菜月チョビ

鹿殺し初見!もちろん名前はずいぶん前から承知しておりましたが、なかなか最初の一歩を踏み出すきっかけがなくここまで引っ張ってしまいました。今回、劇団の代表作を2本一挙同時上演!ということで、ここをきっかけにするっきゃない!と昼夜2本連続で観てきましたよー

「電車は血で走る」は2008年初演で、実家の工務店を手伝う傍ら、好きな演劇も諦められない「宝塚奇人歌劇団」の面々。当主の急逝でとうとう工務店を継ぐことになり、ここで演劇からもきっぱりすっぱり足を洗う!ということになるはずが…という物語。

大きな設定となる部分にノンフィクションの要素が混ざっているだけあって、時折「聞く人が聞いたらそのまま矢が深々と刺さって失血死に至る」みたいなえぐる台詞があって、ぴゃーーと思いながら見ておりました。「パクリの作家とロックが好きな演出家がなんかやりたいってここまできちゃった」とかさ!実際、劇中劇でまんま蒲田(行進曲)と熱海(殺人事件)を引っ張っているあたり、私も作者・演出家とほぼ同年代ですので、あの頃の関西で何を見て、何に憧れてたかみたいなものが透けて見えるようなところもあり、こ、この気持ち…もしや!みぞみぞするってやつか!?とか思ったり。

構成としても演出としても、幕が開いてからしばらくごちゃごちゃしているというか、落ち着いて見られない、軸足をどこにおいていいのかわからずスタンスを決めかねる、みたいな感じで、これで最後まで引っ張られたらけっこうつらいなと思ったりもしたんですが、中盤以降そういった部分を超えて、ぐんぐん前に出てくるものがある。あの少女をめぐる展開自体は早い段階で想像できるんだけど、あの世界における「電車」は「運命」を表すものであり、そこで一気に世界観がぐっと大きくなる感じ。そこに自らの運命をなぞらえる作家の心情、とくに「これからというときにみんないなくなってしまう、でもそれは未来を描けなかった自分に力がないからだ…」という部分は、まさにこの作品を代表作たらしめている部分で、血を流しながら書いた、だからこそ届く台詞だと思わされました。

少女をめぐる運命についても、彼女がのぞんだことがたったひとつ、自分とつきあって「得した」と言わせたい、自分と出会ってよかったって聞きたいという部分に集約されていくところが、なんともいえず切なくて胸を打たれました。幕切れの暗転も美しい。

オクイシュージさんが客演されており、さすがの存在感。ダンスうまい…キレがある!丸尾さんの作家の役もとてもよかった、というか、あれは丸尾さんだからこそ演じられる役でもありますよね。

ところで、シアターブリーゼの1階後方席はめちゃくちゃ見やすいですね。以前前方に座った時はそこまで思わなかったけど、後方列センターブロックは段差もちょうどよく床面もきれいに見えてノンストレスでした。思わぬ発見!

「マンチェスター・バイ・ザ・シー」


なんというか、しみじみと、しみじみといい作品でした。癒されるとか感動するとかいうような形容詞とは実のところ真逆にあるような作品だけど、人の心に直接ふれる力があるというか。ケイシー・アフレックはこの作品でオスカーを筆頭に各演技賞を総なめ。

ボストンにほど近い海の街、マンチェスター・バイ・ザ・シー。リー・チャンドラーはそこで育った。しかし、彼は今故郷を離れ、ボストンで便利屋の仕事をしている。ある日、故郷で家業を継いでいる兄が心臓発作で倒れたと電話がかかってくる…。

リーの兄がなくなり、その一人息子であるパトリックの後見人を指名されてからの「今」と、リーの家族をめぐる「昔」が交錯する構成ですが、だんだんとその過去と現在が地続きのものになっていく感覚がすごかったです。最初のシーンでは今のリーと過去のリーはまるで別人かと思うようなのに、それが次第に一本の線になり、「今」か「過去」かの境界線が溶けていくような。

リーを襲った悲劇に、リーは立ち向かうことができない。警察での取り調べを終えて「これで終わりか?」と聞いたときの彼の気持ち。誰にも罰されることさえない。だから自分で自分を罰しようとしたし、それがなされなかった今でも、彼は自分を罰しながら生きている。

パトリックとのぎこちないやりとりの数々。でも、もう一度マンチェスターで生きていくことはできなくても(あのシーンのリーの『耐えられない』という台詞…!)、後見人となったことでリーはすくなくとも生きていく理由をひとつ見つけることができたのではないか。それが兄の願いでもあったのではないかと思ったりしました。エンジンを直した船の上でのつかの間のリーの安らいだ表情、そしてラストシーン、新しい家に家具を買う、と話すリー。最初にボストンに引っ越した時、その家になにも家具がないことを兄が嘆いていたシーンを思い出す。ほんのすこし、ほんのすこしだけ、前よりは「ましになっているかもしれない」と思わせてくれる。

エンディングがまたすばらしく、波の音、カモメの鳴く声、遠景でとらえられるマンチェスター・バイ・ザ・シーの港…。生きていくのは簡単じゃない、それでも毎日足を一歩踏み出す。その意味。ほんとうに、しみじみと胸に沁みいる映画でした。

「パトリオット・デイ」


2013年にあったボストンマラソンでの爆破事件を扱っています。いわゆるBASED ON TRUE STORYってやつ。予告編で見た、巨大倉庫に現場を再現して足取りをたどっていくところが面白そうで見たんですが、いやこれ、悪い意味で予想を裏切られました。悪い意味でというか、いやこういうものは求めてなかったというか。以下最後の展開までがっつり書いていますので、これからご覧になる予定の方はお気をつけて。

当該事件に関係する人物の当日の細かいエピソードを繋いでいって、いよいよそれが爆破事件につながり、そしてその犯人をとらえるための捜査機関の奮闘を描く、という意味ではまさしくそうですし、予告編で見て「面白そう」と思ったところはやっぱり面白かったし、何しろ実話を基にしているので、主人公補正というか、FBI悪者!現場の警官いいやつ!みたいな「あえてアホをつくってドラマにする」みたいなところももちろん皆無。全体に緊迫感のある構成で、だから途中まではわりと見たいと思っていたものが見られた感じでした。

じゃあ何が予想外だったかっていうと、犯人が逮捕されて、何しろ実話なので、テロップで「その後」みたいな後日談が差し挟まれる、ところまではまあよくあるし、そこに実際の写真がワンショット入ったりするのも別に珍しくない。しかしこの映画は、ここで一気に「ドキュメンタリ」になるんです。ノンフィクションではなく、ドキュメンタリ。つまり実際に犯人を逮捕した警官や、市長や、捜査官のコメントが流れ、爆破事件によって傷を負った人々の談話が流れ、悲劇を乗り越えた団結が語られる。みてくださいこのうつくしいしゅんかんを…!うわああ。これが、最初からドキュメンタリだったら、それはそういう心構えで見るし、感動もしたかもしれない(いや、しただろう)。しかし私はここに映画を見に来ているんですよ。実話を基にしていても、実話を見に来たわけではないんです。極端な言い方をすれば、ほんとうの話を基にしたうその話を見に来ているわけです。

最近は映画におけるポリティカル・コレクトネスがいろいろ話題になったりしますが、私個人はそういった部分での基準がおそらく、非常にゆるい人間だと思います。私は何しろ物語欲が強いので、ほんとうに、とても強いので、作っている人の思想や、出演している人個人にほとんど興味を抱かないかわりに、物語の面白さに寄与しているか、どうかでほぼすべてをジャッジしているようなところがあります。いいことかわるいことかはともかく、それが私の嗜好であるといえます。しかしそれは、あくまでも「物語」だからです。ノンフィクションであっても、物語は「ものがたり」です。そして、当たり前のことですが、現実と物語は違います。なんというか、クライマックスでいきなりチャンネルを変えられたような居心地の悪さだけが残りました。残念。