「テラヤマキャバレー」

  • 梅田芸術劇場メインホール 1階20列39番
  • 脚本 池田亮 演出 デヴィッド・ルヴォー

香取慎吾さんを主演に迎え、デヴィッド・ルヴォーの演出、「ゆうめい」の池田亮の脚本で寺山修司を描くという作品。顔ぶれがまず異種格闘技もかくやという感じで興味を惹かれたのと、まあ演出が演出だし、そんなへんなものにならんやろ!成河くん出てるし!と思って足を運びました(成河くんへの無限の信頼)。

生涯を終えようとしていた寺山修司のもとへ、「死」と名乗る者が現れる。死ぬのはまだ早いと、自身の戯曲「手紙」のリハーサルを続けようとする寺山だが、死は彼にこれは逃れられない運命だという。そして死が寺山に与えたものは、日が昇るまでの時間と、過去や未来へと自由に飛べるマッチ3本だった。そして「死」は寺山に言う。その代わり、私を感動させてくれ、と。

いやーこれ思った以上によかったです。個人的にアングラ演劇ぜんぜん明るくないし、そりゃもちろん寺山修司の作品も主に蜷川さんを通して何作か拝見してはいるものの、決して得意分野じゃない自覚があるだけに、観る前に不安がなかったといったら嘘になりますし、実際一幕は「なるほどこいつは手強い」と思いながら観ていた部分もありました。ところが二幕、特に終盤のドラマとしての高ぶりがすさまじく、私のツボにドカドカ蹴りを入れられまくりました。

僕に墓はいらない、僕の言葉が墓だと語った寺山が、現在の歌舞伎町で「ことば」が崩壊した世界に触れるところもいいし、リハーサルの中で「手紙」の出演者ひとりひとりに「質問」という「ことば」を返していくところもよかったですが、なんといっても寺山自身が自分の母への思いを語る「身毒丸」オマージュのシーンが白眉すぎた。それまでのクールな佇まいから、完全に激情で飲み込む芝居の熱もすごいし、あのあたりの「死」とのやりとり、「想像」を「おまえが唯一むこうに持っていけないものだよ」というところとか胸に刺さったなあ。その激情のあと、この芝居の中ではぼくも役者だ、と言ってのける表情とかもねえ、もう最高だった。

最後にこの世界に残ることもできると言いかける死に対してそれを拒み、「火曜日に生まれ、水曜日に死んでいく」というところ無性に好きだったな。成河さん期待通りの存在感だったし、「蚊」の伊礼彼方さんもすさまじくよかった!セクシーで猥雑で魅力爆発してたよ。凪七瑠海さんの宝塚の文法を活かしたキャラクターが「死」の役柄によくはまっていたし、いろんな魅力のあるカンパニーだったなと思います。劇中で野田さんがいじられてたのはルヴォーならではで笑っちゃった。

主演の香取くん、そこかしこで見せるスターとしての振る舞いの圧倒的正解ぶりもさることながら、前述した母への思いを語るシーンの良さが物凄く印象的。ああいう激情に観客を巻き込むって、実はめちゃくちゃ難しいことなんですよね。下手を打つとただただ怒鳴ってる、叫んでるって受け止められかねない。でもあのシーンの彼、本当にあの一瞬はあの感情に生きてるなってことが伝わる芝居で、よかった。「劇は出会いだ」って台詞そのままに、いろんな意味でいい出会いになった観劇だったなと思います!

「ネクスト・ゴール・ウィンズ」


アメリカ領サモアのサッカー代表の実話を元に映画化。監督はタイカ・ワイティティ。系譜としてはみんな大好きクール・ランニング系とでもいいましょうか、弱小国が奮起して「ナンバーワンになれなくてもいい、もともと特別なオンリーワン」という着地をみせるスポーツコメディもの。何を隠そう私はこの手の映画が大好き。というかスポーツにおけるジャイアントキリングを好きじゃないなんて人いるだろうか!?いやいるか(弱気)。

2002年のワールドカップ予選でオーストラリアと対戦し、0-31の史上最大の大敗を喫してしまうアメリカ領サモア。ただの1ゴールも挙げられない代表に業を煮やした協会は、短気ですぐに爆発してしまうオランダ人コーチ、トーマス・ロンゲンを監督に招聘する。押し付けられた仕事にうんざりするロンゲン、彼のやり方に全く賛同できないチーム。不協和音しか聞こえない中で果たして彼らは「1ゴール」「1勝」を手にすることができるのか!

サッカーにおける0-31の得点の異常さは、かつて日本ラグビーオールブラックスに145-17で敗れたことを凌ぐといってもいいかもしれない。何しろサッカーは1点を争うスポーツなのだ。Wikiで調べてみるとトーマス・ロンゲンはかの名門アヤックスに所属していたこともあるらしく、彼がこのアメリカ領サモアでの仕事に辟易としているのもむべなるかなと思える。

しかしながらこの映画の面白いところは、選手たちがロンゲンのやり方を信じついていく…というだけではなくて、同時に「変えられないところは変えられない」と泰然としているところ。これはサッカーで、ただのゲーム。勝っても負けても明日は来る。でもできれば勝ってみたい。点を取りたい。ロンゲンが徐々に彼らと目指す未来を見つけていく様子は、ある意味もっとも変化したのはロンゲン自身なんだってことが表れててとてもよかったです。

トンガ代表との対戦で、かつての同僚たちと気まずい再会をし、それゆえに試合の成り行きに苛立ちを隠せないところとか、あるあるな展開なんですが、ハーフタイムにとうとうロンゲンが自分の傷を語り、彼らに「思うように楽しんで来い」というところ、あるある、王道ではありつつも泣いちゃう私だ。スポーツによって得られる興奮、スポーツにおいて物語を見出し、それに肩入れしてしまうことは、ちょっと紙一重なところだと思うんだけど、でもあのスポーツによって得られる熱狂というのはほかのどれともちょっと違うものがあるんですよね。

トランスジェンダーの選手について、「第三の性」を「ファファフィネ」ということ、それが自然なあるべきものとして受け入れられているのを見ると、自分たちが「自然」とか「あるべき」とか言っているものは誰かが作った「自然」に過ぎないんだなあと思わされますね。

これも実話の映画化あるあるですが、エンドロールに実際の映像が流れるの、マイケル・ファスベンダーけっこう本人の風格あるなと思いました。あとね、私は最近よく欧州のサッカーの試合を見ているのですが、この先の、そのまた先の、そのまた先の先の先にあの世界があるんだなあと思うと、サッカーという競技の裾野のすさまじさを思い知らされる気がしました。

「落下の解剖学」


今年度アカデミー賞作品賞をはじめとする主要賞にノミネートされている本作。個人的に作品賞受賞作とは相性が良い時悪い時あるんだけど、脚本賞ってやっぱり一定の面白さが担保されているような気がする(ジャンルの好みは別として)。監督はジュスティーヌ・トリエ。

人里離れたフランスの山荘で暮らす家族。視力を失った息子が介助犬と散歩から帰ってくると、父親が血を流して雪の中で死んでいた。彼の死は自殺か、他殺か、それとも事故か。法廷における供述でつまびらかにされる「家庭の事情」と「真実」の行き着く先はどこなのか。

宣伝にあるような「唯一の目撃者は盲目の息子だけ」という、サスペンス・ミステリーでよくある展開から想像するストーリーとはちと外れていて、どちらかというと法廷劇というか、「法廷で暴かれること」と「真実」の間には実は無限の距離があり、法廷という場所は必ずしも真実を追求しているところではないという部分が浮き彫りになるようなストーリーだったなと思います。この映画が最後まで「本当には何があったのか」を提示しないのも、ミステリーではなく「法廷」「裁判」というもので人間が何を失うのか、ということに焦点を当てているからなのかなと。

この映画はフランス製作で、劇中の設定そのままに、ドイツ人の妻とフランス人の夫がフランスで生活しており、英語とフランス語が飛び交う中で暮らしている…というのをキャスティングにも反映しているわけですが、この言語というのも大きな役割を果たしているんですよね。母語ではない言語でのやりとりに不自由していないサンドラが、裁判で英語で話す許可を得てから語るその言葉の自由さが際立っていて、再現される夫婦げんかのなかで、母国で暮らす夫と、何もかもから切り離されて家族という縁しかこの国にないサンドラでは、それは見えている景色は全然違うだろうなと思わされました。

たまさか録音が残っていた夫婦喧嘩、過去の過ち、軋轢、夫の死の真相というものの着地点(真実とは限らない)を見つけるために日常の一部分がクローズアップされるけれど、夫婦とは、家族とはそういうものじゃない、と訴えるサンドラの言葉が印象的。あと、最後の証言の前に同じ家で過ごすことを息子に拒絶されたあとの車のシーンね…。あそこのサンドラ・ヒュラーの演技圧巻すぎた。「夫を殺してない」と主張するたびに「そこは問題じゃない」という、かつての恋人?恋人未満?な弁護士とサンドラが安易に焼け木杭には火が付くみたいな展開にならないのもよかった。

ところで、いぬがあまりにも名演技過ぎて、パルムドッグ賞そりゃ獲りますわってなったし、だからこそおまえさあ…という気持ちが抜けない。泣いたってゆるしません(いぬは無事です)。

そもそも頭を殴ったのだとしたら凶器は?とか、こんな疑われやすい状況で計画的殺人を起こすか?とか、理詰めというより裁判の進行が感情面に寄りすぎていたような気はするけれど、たとえ無実を勝ち取っても、裁判によって晒された事実の断片、晒されたことにより失われた何かがこの結果で戻ってくることはない、という重さも含めて、見てよかったと思えた映画でした。

「御菓子司 亀屋権太楼」MONO

MONO新作。まず最初にこれを言っておきたいんですけど、東京公演このあとありますので、お時間の合う方はぜひにとおすすめしたい。面白かったし、しみじみと、本当にしみじみと良く、見終わった後に胸の真ん中がぎゅっと温かくなるような気持ちを味わえました。

かくいう私もMONOの公演は3年ほどご無沙汰していましたが、今回扇町に新しくできた劇場での公演というのと、今まで場面や時制の動かない芝居が多かった土田さんが、今回場所や時間の制約を取っ払って書いてみると仰ってたのが気になり(そしてタイトルでますます気になり)足を運んできました。

江戸時代から続く老舗和菓子屋…のはずだったのに、実はその店の経歴は嘘っぱちで、創業者である父親がでっち上げたらしい…ということところから、現在店を継いでいる次男、店の経営には関与していないっぽい長男、店で働く長男の娘、父とともに働いてきた工場の職人たちが、「亀屋権太楼」の浮き沈みとともに描かれます。

経歴詐称、兄弟の確執、炎上騒動、部落問題…と、どれをとってもシリアスにならざるを得ないながらも、そのときどきでぶつかり合って、ダメだとおもったら頭を下げて、どうにもならねえやと匙を投げそうになりながらも、それでもどこかでなんとかやっていく、そういう大人たちのすったもんだを、こんなに愛しく、面白く、切なく書けるのが、やっぱり土田さんは書ける人だよなあ~と感嘆するほかないという感じでした。土田さんはどんなキャラクターでも一方的に悪人、一方的に善人みたいな書き方をされないので、祐吉と吉文の兄弟も、どういう展開が待っているのかなと思ったら…いやーやられたね。「謝るのが得意」と言われて深く傷つく(あれは傷ついたんだよなあ)祐吉を、ホントにいろいろダメだけど、でも一度は完全に、ちゃんと「負け」たことを受け止めた兄が諭すところ、本当にぐっときた。ちゃんと負けて、ちゃんと傷つかなきゃ見えないことってあるんだよなあ。そこからのあの「よしよし」でしょ…いやマジで私の涙腺にドカドカ蹴りを入れられたし、人生のつらさを否定しないし、どうにもならなさも否定しないし、でもね、でも、その先があるよって言ってくれる、そういう脚本が本当に、心の底から沁みました。

考えてみればぜんぜんハッピーエンドじゃないし、めでたしめでたしからは程遠いんだけど、でもあの梅の木がたとえなくなっても、メジロが春を告げなくなっても、季節は回るんだよねって思えて、私は好きなラストでした。

組子文様で彩られたセットが、パズルのように形を変えて社長のオフィスになり、休憩所になり、カフェになりと形を変えていくのと、その転換のさま、ちょっとナイロンぽさもあって、時間と場所を暗転させずに変えていく手法として目に楽しく洗練されていたなあと。時間も、1年、2年じゃなく、6月、1年6月、3月とズラしていくことで、季節(風流)がうつっていくさまが台詞に組み込まれているのもうまいなあと思ったなあ。あと、道庭と青山、そして奈良原の3人の彼らにしかわからない出自ゆえの苦しさもしっかり書き込んでいるのがさすがすぎた。先代に恩があると思いながらも、反面彼らにその出自を忘れさせることはなかった「恩人」。これを他者が悪とか、善とか二色に断罪することで、どれだけのものがこぼれ落ちてるんだろうなと思わされたな。

尾方さん、あまりにも青年として好人物すぎて、それがあまりにも似合っていて、最後は本当に胸が苦しくなったけど、でもああいうお兄ちゃんがいてよかったねと心から思えたなあ。道庭さんと青山さんのコンビも最高だった。ああいう素っ頓狂さを出させて金替さんの右に出るものはいないと思う。そして土田さんの安定の胡散臭さよ!上演時間2時間、劇団としての力に感じ入るきわめてクオリティの高い一本でした。超おすすめです!

「猿若祭二月大歌舞伎 昼の部」

十八世中村勘三郎十三回忌追善公演。演目が発表された時から楽しみにしていた、鶴松くんがお光を演じる「野崎村」。ご自身でも仰っていたけど、追善公演とはいえ鶴松くんがここでお光をやらせてもらえるというのはなかなかすごいことです。座組の中では福助さんも何度もお光をやられているし、そういう意味でも児太郎さんがお染で出て下さっているのはなんというか、懐の深さを感じました。
鶴松くんのお光、ぜったいいいだろうなという予感そのままに、実に丁寧で必死なうえに、天性の芝居心つーのか、こっちの「気持ち」を沸き立たせる台詞の立て方がはまっていて、そのいじらしさに全俺が泣くやつだった。お染と久松を見送ったあとの姿、まるで全身から色が落ちたような空虚さで、最初のシーンの歓喜という色にあふれた姿との対比にますますぐっときちゃいましたね。

「釣女」。縁結びで名高い神社にお参りし、妻が釣れますようにと祈ると世にも美しい上臈が釣れ、それを見て羨ましがる太郎冠者が自分もと釣竿をたらすと、見事醜女が釣れました…という、コンプライアンス真っ青な筋書きですが、個人的に今の物差しで過去の演目ぶった切ってもな派なので、楽しく観ました。獅童さんさすがの愛嬌。

「籠釣瓶花街酔醒」。ようやく勘九郎さんの佐野次郎左衛門!待ちかねた!「浮かれ心中」でパロディっぽいことをやるたびに劇中でご本人も「やりたいね~」と仰っていて、そのたび私も「はよやってくれえ!」と心から待ち望んでおりましたよ。

勘三郎さんの襲名の時に、玉三郎さんの八ツ橋、仁左衛門さんの栄之丞で初見したときの衝撃が私のなかで根強いんですが、改めて今回拝見してやっぱりめちゃくちゃ好きな作品だなと。脚本として面白いし、もちろん演劇としてもむちゃくちゃ面白い。万座の中での八ツ橋の愛想尽かしは、八ツ橋の心情を観客だけが知っている(けれどその場では明かせない)という構図が劇的さを際立たせているし、それぞれの心情の重なりとすれ違い、まるでシェイクスピアを見ているかのようなスリルがある。

その脚本の面白さに、吉原仲之町の花魁道中で見せる圧倒的な華(上手、花道、舞台奥と三方向から出があるのも観客の臨場感を高めてますよね)、間夫をめぐる心理戦、凄惨な殺しにも「美」を求める歌舞伎の業までまるっと堪能できるわけだから、こんなに見ごたえのある演目はそうそうないのでは。

勘九郎さんの佐野次郎左衛門、吉原仲之町のあたりはもちろんお父様の影を感じたりもしましたが、愛想尽かしの場面からこっちいやはやこんなに違うもんか、とちょっと驚きながら見ていました。特に大詰めは人物の立ってる根幹から違うという感じ。勘三郎さんの佐野次郎が沸き上がる執念を抑えて抑えて取り繕っている(足袋を脱ぐときに一瞬その執念が表に出る)ようだったのに対し、勘九郎さんの佐野次郎は完全に異形の者というか、憤怒、怨念の塊のようで、八ツ橋の手をひねり上げ「よくも」と恨み言を言うあの地の底から響くような禍々しさたるや!掛け軸の箱から籠釣瓶を取り出すときの、あの箱から刀が意思をもって飛び出てきたみたいな見せ方、よかったなあ。一刀のもとに切り捨てた八ツ橋をなおも斬ろう、とどめを刺そうとする顔があまりにも空っぽで、本当に魂が籠釣瓶に吸い取られたような「よく切れるなァ…」。いやー満足。御贔屓が大好きな作品でこれぞという仕事をみせてくれたことへのこの上ない満足感でいっぱいです。

七之助さんの八ツ橋、あの七三の笑みのところがあまりにもピュアピュアしくて、ようじょやん…!て震えたし、だからこそ栄之丞の言うがままに次郎左衛門への愛想尽かしを受け入れてしまうのもむべなるかなという。愛想尽かしの場面素晴らしかったね。あちきはつくづくいやになりんした、あの台詞に思わず涙が出たわ。死に際の美しさはもう特筆もの。九重を児太郎さんがつとめてくださっていて、これも情にあふれた佇まいが実によく、橋之助さんの治六の必死さとあわせて私の涙腺にきちゃいました。

権八松緑さん、おきつに時蔵さん、長兵衛に歌六さん、極めつけは栄之丞に仁左衛門さんがおつきあいくださっていて、座組としても充実の一語。仁左衛門さんの栄之丞、もしかしたら拝見できるのはこれが最後なのかもなあとか(玉三郎さんが八ツ橋をおやりになる機会があればと思うけども、じゃあその時の次郎左衛門は誰なんだという…)思いつつ、あの気だるげに柱に寄りかかっている、その佇まいだけで二人の関係性まで匂わせる完成度の高さ、ひどい男だけど観客に「この人が間夫ならしょうがない」と思わせるいい男ぶり、堪能させていただきました。

「猿若祭二月大歌舞伎 夜の部」

十八世中村勘三郎十三回忌追善ということで中村屋ゆかりの演目の並ぶ猿若祭です。十三回忌かあ…時の流れるのは早いですね。

夜の部、まずは勘太郎さんによる「猿若江戸の初櫓」から。過去になんども拝見しておりますが、当たり前ですけど飛びぬけて若い猿若の御登場。勘太郎さん背が伸びて物理的にデッカくなったなあ!と花道横から見上げてしみじみするなど。とはいえ阿国七之助さんなので、親子っぽく見えちゃうところも。福富屋の主人と女房で芝翫さんと福助さんの御兄弟がおつきあいくださっており、十八世ゆかりの役者が一座するめでたさに花を添えてくださっておりました。

続いては芝翫さんのいがみの権太で「義経千本桜 すし屋」。お里を梅枝さん、弥助を時蔵さん、弥左衛門を歌六さんがつとめてくださっており、大歌舞伎…!という充実の座組。オタクのわがままをいえば勘九郎さんの権太をまた見たかった気もしますが、そうなるとさすがに働かせすぎか。私の中では仁左衛門さんがおやりになった権太の印象が深いですが、芝翫さんと勘九郎さんの権太は造形が似ていて、上方との違いでもあるのかな~。歌六さんはどんな役をおやりになられても芝居心に満ち満ちているというか、その役の道理がすっと腹落ちされる芝居で、一座されていると本当に心強い役者さんだなと思います。

「連獅子」。長三郎さんの仔獅子、勘九郎さんの親獅子。勘太郎さんが仔獅子やったの何年前でしたっけ。時の流れるのは早いぜ。視覚的に見てもまだ幼く、必死に親に食らいつくというさまが舞台の上と現実とで合わせ鏡みたいに見えてくる醍醐味もありつつ、毛振りでは最後に勘九郎さんがハイここから好きにやらせてもらいますーとばかりにぶん回していて笑った。

ここから先は完全に私の好みの話ですが、私は舞台を見るときに、何をどう頑張っても一定年齢以下の役者に食指が動かないという嗜好があるんです。で、それは私の御贔屓の御子息でもそうだし、ほかのお家の御子息でもそうなんです(言えば染五郎さんだってまだ射程圏内に入ってない)。すごいな、立派だな、頑張ってるなと心打たれる部分はもちろんあるけれど、「一生懸命はもちろん人の心を打つけど、誰が見ても素晴らしいと思うものは一生懸命を見せることではないと思う」というとある役者さんの名言に己の心情は近いかもしれない。ってこれ前にも言ったな。

中村屋」としてのナラティブを盛り上げるのに、今は成長著しい御子息たちにフォーカスを当てるのが正しいやり方なのかもしれないし、実際これから勘太郎さんと長三郎さんが次の世代を担えるように育てるというのも、歌舞伎の家の大きな仕事のひとつであるということは重々承知のうえで、しかしだとすると、私の嗜好と歌舞伎はもしかして相性が悪いのかもしんないなと思ったりします。

素人考えで恐縮ですが、せっかくこれだけたくさんの、文字通り綺羅星のごとく役者を抱えているのだから、いくらでも斬新で目新しい座組と演目を組めるのじゃないのかと思ってしまいますが、言うは易く行うは難しなんでしょうかね。

「梟」


17世紀、李氏朝鮮の時代を背景にした歴史スリラー。監督はアン・テジン。「仁祖実録」に残されている昭顕世子の不審死を題材にしているんですが、昭顕世子が亡くなったのが1645年だから、日本は江戸時代、将軍徳川家光の時代。そして作品の中でも出てくるように、大陸では明が滅亡し清が権勢をふるっております。だいたいこれぐらいの距離感の過去の出来事だから、どうなんだろう、たとえば日本でいえば織田信長明智光秀の裏切りにあって…とか、そのあたりの感覚なのかなあと。

主人公のギョンスは盲目の鍼医で、卓抜した才能があり、ひょんなきっかけから御医の目に留まり宮殿での内医院につとめるようになります。ギョンスには心臓に疾患のある弟とふたり暮らしで、ギョンスは弟の病を助けるためになんとか内医院で立身出世を果たしたいと考えています。そこに長らく清に人質として捕らわれていた昭顕世子が帰ってくるという知らせがやってきます。昭顕世子の咳の症状を癒したことをきっかけにギョンスは高潔な世子に心酔するようになるが、時の王である仁祖は清への恭順を示す世子を快く思っておらず…。

世子の最期の壮絶さが記録として残されていることから、これが謀殺ではないかというのは証明されてはいないけど有名な歴史上の「if」っぽいですよね。ギョンスはその権力闘争に巻き込まれていくわけだけど、盲人ではあるけれど、光のあるところでは殆どものを見ることができないかわりに、暗闇ではもののありようを見ることができるっていう設定がまずうまい。敵側の「こいつには見えていない」という安心感が揺らぐサスペンスと、文字通り魑魅魍魎跋扈する宮殿の権力争いのサスペンスが交錯し、犯人はわかっていても誰が味方なのか、最後まで緊張感が持続するストーリーで面白かった。

世子や世子嬪があまりにも好人物として描かれているので、どうにかならんかー!とか思いつつも、歴史上の事実は事実、そして汚ねえやつはどこまでも汚ねえ(あの味方面して最終的にギョンスを切り捨てた大臣の顔よ)!ってなりながら、最後の最後で一矢報いるのは映画ならではの観客サービスなんだろうけど、個人的にはスッキリできてよかった。しかし、鍼の効能がむちゃくちゃ凄くて、マジで出来んことないやんレベル…と思ったら、韓国では特に鍼医療が重視されていて、「一鍼二灸三薬」とまで言われていると初めて知りました。映画で知る韓国の歴史がまたひとつ!