「スパイダーマン:ファー・フロム・ホーム」

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マーベル・シネマティック・ユニバースのフェイズ3のラストを飾るのはエンドゲーム…じゃなくて本作です!監督はホームカミングに引き続きジョン・ワッツ

最初のトレイラーが出た時はピーター・パーカーの夏休みがニック・フューリーに乗っ取られる、ってことと、ミステリオって新しいキャラクターが出るよって情報ぐらいで、しかもタイミング的にインフィニティウォーでいいだけサラサラしたあと(ピーターもサラサラしたあと)なので、これは…時系列的にIWよりも前の話をやるってことなの??とか思ってましたが、エンドゲームのフタを開けてみたらがっつりEG後だし、むしろEGのネタを明かさないと作品のキモとなるトレイラーが作れないしっていう、いや大変だったでしょうね宣伝部。

とはいえですよ。MCUを熱心に追いかけてきた人であればあるほど、この春からのキャプテンマーベルそしてエンドゲームの連打で、とくにエンドゲームの「集大成とはッ!!!こうッ!!!」といわんばかりの打撃に、燃え尽きたぜ…まっ白な灰に…みたいな心境になってた人少なからずいたんじゃないですかね?正直私はそういう部分ありました。そもそもEGの時にあれだけ水も漏らさぬ鉄壁のネタバレ防衛線を組んでいたのに、今作はちょっとガード下がっちゃってたものね(具体的なバレを踏むとこまではいかなかったけど)。しかも、今作の新キャラであるジェイク・ギレンホールが演じるミステリオはトレイラーではヒーローっぽい登場だけど、原作ではヴィランだというし、しかも演じているのがあのジェイク・ギレンホール…読めた!みたいな気持ちになったりするじゃないですか。

駄菓子菓子!いやはやMCU底知れないですね。底知れない。ここまで「たぶんこういう展開だろうなあ~」と大勢が想像した展開は確かに当たっているのに、ヴィランの正体もその見せ方も、ここまで「驚異<ワンダー>」を積み上げてくるとはマジのマジで恐れ入りました。映画館に足を運んだ観客に絶対に何か手渡すという意思、そして絶対に現実の社会にコミットしたものを作り続けるんだという強い意思に私はめちゃくちゃ打たれてしまいましたよ。

最初の、MJといい感じになりたいピーターとそれに対するいろんな障害、みたいなのは「楽しいしかわいいけどこれこのままで大丈夫かな?」みたいな気持ちになりましたが、やっぱりジェイク・ギレンホールはやってくれる男ですよね。彼が出てきてから一気に物語がドライヴしだすし、ピーターの前に味方として立っているときにも、その正体が明かされてからも、何とも言えない説得力がある。あれ、最初にピーターがミステリオって、イタリアで謎の男って意味だよって話をして、次に会ったときには自らミステリオだって名乗っちゃうのとか、言ってみれば尻尾がチラチラ見えてるんですよね、ベックって。その匙加減がほんとうまいんだ。だからピーターがあのトニーの遺産を渡してしまったときも気持ちとしては「だ、だめだよ…」と思ってはいるものの、ベックが誰で何を目的としてるかまで読んでるわけじゃないんですよねこっちは。そこからの、まさかのチーム戦でした!そしておまえも!おまえも!おまえも!トニー・スタークに遺恨のあるやつやったんかーい!っていうさ…!

でもってミステリオがドローンとプロジェクションマッピングを駆使してるっていうその種明し、この今日的なヴィランのキャラの立て方がすごい。しかも映画の中で戦闘中にベックが着てるのがまんまモーションキャプチャースーツなんですよね。あの撮影現場の写真が流出しても、みんな「あっモーキャプだ」としか思わない。そこに映ってないものしか想像しない。その構図を映画の中で逆手にとってくるっていう…MCU!お前がほんとにおそろしいよ!しかもですよ、ベックの今際の際に「今はみんななんでも信じる」って言わせて、さらにポストクレジットでは「実際の映像で組み立てたフェイクニュース」でトドメを刺す容赦のなさ!

何しろ「実際にはない映像」で相手を翻弄することができるヴィランだから、「何が本当なの?」ってハラハラが最後の最後まで続くし、ヴィジュアル的にも文字通り虚虚実実の映像がピーターを取り囲むわけで、いやもう最後のほう「もうピーターを休ませてあげてよお!」って半泣きになりそうになりましたよ。ほんと見ごたえあったし、だからこそそれに打ち克つのがスパイダーセンス(ムズムズ!)っていうのがむちゃくちゃ胸がすく思いがするんですよね。

今回はニック・フューリーが事件をもたらすわけだけど、途中でピーターに覚悟がないって言い募るところ、いやちょっとさすがに待たんかいってなったし、まだ高校生なんだぞ!ってなったし、そういうお前がまずなんとかせえよ!ともなったし、最終的にこんなに騙されるなんて、フューリー…おまえキャプマ以降人が変わったように見えるよ…とか思ってたらホントに人変わってるし!でお前が夏休み取ってんのかーい!っていう、本当に最後の最後まで気が抜けなかったです。

MJがピーターのこと気になってるけど素直にそれを口に出せないタイプなのめっちゃよかったな。ネッドとベティのカップルもかわいかったしネッドがスパイディの正体を知ってるってMJに対して先輩風びゅーびゅーなのも好きでした。でもって今作はアイアンマンシリーズ以上にハッピーがすごく大きな役割を果たしてて、保護者的でありながら、何よりもトニーを喪った同志っていう立ち位置ですごく頼もしかった。迎えに来てくれた時ホッとした…。そしてあのロンドン塔での対ドローン戦、シールド投げてみて届かず「キャップはすごい」って言ってくれたの、全キャップファンが心で嬉し涙を流したと思いますよ。そういえばあのエンダ~♪をバックにキャップの写真も出てきたってことは世間的には死亡(又は行方不明)って感じなのかな。そうそう、オープニングの処理もすごいと思ったんだ、サラサラからの復活によるゴタゴタ、センスゼロのアベンジャーズメモリアル映像でEG後の我々の心情をいったんきっちり対象化してくれてるよねっていう。

トニー・スタークという偉大なメンターを喪ったあとのピーター・パーカーの物語ではあるんだけど、喪失を浪花節で嘆くようなしょっぱさがなくて、託されたものをもってトニーのいない世界とどう向き合うのかってことに焦点が合ってたのがすごく好きでした。トム・ホランドくん相変わらずかわいいが過ぎるし、世界の孫って感じだけど、でもなんか、今作でまさに「大いなる力には大いなる責任が伴う」ってことを背中で見せてくれるヒーローになった感がありました。もう孫だなんておそれおおくて言えない。ピーター、あんたはかっこいいよ。

そういえば!今作が私のドルビーシネマ初体験になりました。めっちゃよかった~~~!エキスポレーザーIMAXのあの画面がのしかかるような迫力はないけど、何しろ画面が鮮明で没入感がすごい!あの上映前のドルビーシネマの紹介もめっちゃエッジィで楽しいのでぜひ一度経験してみていただきたい。あなたが今見ている黒は黒ではありません!とか言われちゃって、でもって「ホントだー!」ってなるのちょう楽しいっすよ!

EGじゃなくてFFHがフェーズ3の最後っていうのも見れば納得というか、ちゃんと次への橋渡しをしてったよね。物語はまだ続くという。ほんとどこまで想定してこのユニバースを描いてるんでしょう。ケヴィン・ファイギ恐ろしい子

その姿勢は気持ちだけ、気持ちだけでお願いします

昨日の夜中に鴻上尚史さんの件のツイートをリアルタイムで拝見して(フォローしてるからね)、うーむこれは燃えそうだぞと思いました。いくつか発言のツリーがつながり、それに対して「いや、そんなことないですよ」という反論のリプライが二つ三つついたところで就寝したが、朝起きたら案の定延焼していた。延焼、するわね、そりゃ。

で、仕事から帰ってきたら該当のツイートは削除されていて、全部読んだわけではないけど観劇クラスタからの反論もおそらく出るとこまで出たんじゃないかと思うんで、もうワシが何にも言うことはない!って感じなんだけど、しかしなんとなくモヤモヤが収まらないので自分なりの整理を書いておくことにします。

最初に言っておくけど、これは収まりかけた火事に油を注ぎたいわけでは断じてないってことです。すでに該当のツイートを削除され、(多少釈然としない部分はあるにせよ)反論の意図はわかったとされているわけだから、勿論この件はこれで手打ちでいい。あくまでも自分のために書いているだけです。

まず鴻上さんのそもそもの発言についてポイントは3つあると思う。

  • ほとんどの劇場は「前のめりになったほうが視界が開ける」
  • 創り手としては、芝居に対して集中するあまり観客が思わず「前のめりになる」ことをめざしている
  • 「前のめりになるな」というアナウンスは観客を積極姿勢にさせたいという制作側の意図を削ぐものである

でもって「前のめり」をネットの辞書で引くと(デジタル大辞泉からの引用)、

1 前方に倒れそうに傾くこと。「急停車で前のめりになる」
2 積極的に物事に取り組むこと。前向き。「前のめりの生き方を評価する」
3 準備不足で、性急に物事を行うこと。せっかちすぎるようす。「新政権の施政方針は前のめりに過ぎる」
[補説]2・3は従来にない用法。

と出てきます。

で、鴻上さんはこの2の用法を意図して「前のめり」という言葉にポジティブな感情をお持ちだってことなんですよね。だから「前のめりになるな」を「積極姿勢になるな」という語感ととらえてる、またはとらえることができるので、そういうアナウンスまでしなければならないのか?という。

これに類すると言っていいかわかんないけど、例えばライヴハウスを想像していただきたいのだが、アーティストは「今日はフロアを揺らすぜ!」という意気込みで来ている、しかし開演前のアナウンスでは「フロアが揺れるので飛び跳ねないでください」と言っている。そういう「削ぎ」が同じように「前のめりになるな」にもあるんじゃないかってことですよね(実際にこれに類するアナウンスをするライヴハウスもあるが、それは安全上の理由なので削ぐとか削がないとかの問題ではない、念のため)。

しかし、観客として思う「前のめり」は…いや、主語が大きいの良くないですね。私が思う「前のめり」はまさにデジタル大辞泉の1の用法、「前方に倒れそうに傾くこと」であり、そうなっている観客のことを言っているわけです。

長年観客席に居続けてきたので、もちろんいろんな客に遭遇してきました。前のめりにあたったことも一度や二度ではないですし、実際それによって迷惑をこうむったこともあります。ここからは私の経験上の話になりますが、あまり観劇慣れしていない観客は、いざ自分の席に座った時、「この目の前の舞台に今から役者が立つ」という事実に興奮する人が多い。そしてその興奮から、「もっと舞台に寄ろう」として自分の身体を物理的に近づける。浅く腰かけ、身を乗り出さんばかりにするわけです。もちろん、観劇慣れしていても、そういった習性が抜けないという人もいるでしょう。

はっきり言いますが、この「前のめり」は作品の劇的興奮とは一切関係がないんです。中身に関係なく前にのめっているだけです。もし、その「観客が物理的に身体を近づける」行為を見て作品の出来を判断している制作者がいたとしたら、観客の立場からそれは大きな誤解ですと申し上げたい。

さらに、件の発言に対する反論として、「前にのめっていなければ、つまり深く腰掛けて背もたれに背中をつけている客は、作品に対して積極姿勢でない、興奮していないととらえられるのか?」という意見はもっともですし、観客がいかに世界に没頭しているかをはかる物差しが、そんな簡単に目に見えるものであってたまるかとも思います。ひとりひとりの観客は、その観客の文法でしか作品を見ない、だから個々の客の声を聞く必要はない、けれど、その日の客席の「観客」としての声なき声というものは絶対にある。絶対にあります。それを聴くことができる人がこの世界で生き残っているのではないのか、とも思います。

もうひとつ言いたいのは、きちんと腰かけて背もたれに背中をつけて観劇していたとしても、思わぬ興奮で一瞬背中が浮いたり、大笑いして前かがみになったり、そういった反射的な反応は誰しもあるということです。そして「前のめりになるな」と言っている人は、そういう反応を問題視しているわけじゃないだろうってことです。「ハイ!いまそこ背中が3秒離れた!」みたいなことを言う人はいないでしょう。そうではなく、「物理的に自分の身体を舞台に近づけようとして」「その姿勢を観劇中死守しようとする人のこと」を言っているんです。

ほとんどの劇場は前のめりになった方が視界がひらける、という点については、そうですか、あなたがそうならそうなんですね、としか申し上げられないけれど(だって個人の体験ですからね)、女性の座高の問題なのか、座る座席の問題なのか、ともかく、それこそ1000回を超える回数いろんな劇場の椅子に座ってきたものとして、「私は前のめりになられて視界が開けたことは一度もないです」としか言えないし、実際問題、視界が開けているのに改善を求める客なんていないと思うんですよ。あのアナウンスは劇場が勝手に慮ってやっているわけではなくて、そういう客側からのニーズがあって行われているわけでしょう。劇場によっては「2階席のお客様」と限定するところもあるから、1階席では大して問題とならない、つまり視界を大きく左右しないってこともあるかもしれない。でもだからって「前のめりという用語が積極姿勢での関与を否定されている気持ちになって制作者がへこむからアナウンスしなくてもいいのでは」というご意見にはとうてい首肯できません。

ブロードウェイやウェストエンドではそういったアナウンスがないというのはいいことかもしれない、そんなことまでアナウンスする日本の社会が未熟というならそうかもしれない、だとしたら成熟の方向にこれから向かえばいいのではないですか。今行われているアナウンスはその成熟のためのステップだと思えばいいのではないですか。ゆくゆくは、そんなアナウンスがなくても、「前のめり」な客に対して周囲が声をかけ、すんなり理解される日が来るかもしれない。来ないかもしれない。でも、少なくとも「制作側の意思を削がれる気持ちになる」ことと、その日劇場に足を運んだ観客が少しでも快適に、皆が舞台を楽しめる環境をできるだけ確保することを天秤にかけたら、どちらに傾くかは自明の理なのではないでしょうか。

こんな話で3000字も書いてしまった。こんなに書いてしまったのはもちろん私が鴻上さんと第三舞台で産湯を使った人間だからです。べつに幻滅した!みたいな話じゃないヨ!こんなことで幻滅するほど私が鴻上さんと第三舞台に対して負ってる借金は安くないし、これで幻滅するならとっくの昔にしてるような気がする(なんだって?)。繰り返しますけど油をそそぎたいわけではないですし、逆に反論している方にみんなもうやめてあげてよお!みたいな気持ちも全然ないです。私が鴻上さんに学んだことのひとつが、なんかあったら対話だろおお!!!って姿勢なので、対話じゃないけどこうして書き残してみました。長文ですまないし、最後まで読んで下さったかたには感謝しかない、でも長いからこそ書けることもあるんじゃないかと思うのよ。これが私のやり方です。

「神と共に 第二章:因と縁」

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待ってました第二章~~~~!!!監督は第一章と同じくキム・ヨンファ!第一章見たのが6月初旬だったので間を空けずに第二章見られるのは嬉しい!

以下遠慮なくネタバレしているのでこれからご覧になる予定の方はお気をつけください!

第一章でめでたく転生を果たしたジャホン、しかし亡者の弁護を担当するカンニムは一度怨霊と化したジャホンの弟スホンを連れ、彼の裁判を行ってほしいと閻魔大王に直談判する。判官の首と使者の肩書を賭け、裁判を行う赦しを得るが、しかしそれには条件があると告げられる。それは下界ですでに寿命が尽きているにもかかわらず、屋敷を守護するソンジュ神に邪魔され冥界に連れてくることのできない亡者を48日以内に連れてくること、そしてソンジュ神を消滅させることだった。

冥界7つの裁判渡り歩くぜヤッホー!だった第一章(いやそんな話じゃない)は舞台設定の面白さと亡者の過去を明かしていく構図が物語をぐいぐい引っ張っていましたが、第二章は観客がすでに愛着を抱いた三人の使者(いやあれで愛着を抱くなと言う方が難しい)の過去の因縁を紐解くことで物語を牽引していくという、同じ作品でありながら見事に違うテイストの作品になっているんですよね。そしてこれ、第二章で明かされた過去の因縁(まさに因と縁!)を見た後、もう一回第一章を見返したくなるという罠が!ううう~~、踊らされてる~~、でも踊らされるの気持ちいい~~!

ソンジュ神のところへ行き、説得or調伏(って言っていいのかな)するはずだったヘウォンメクとドクチュンは、ソンジュ神がなぜ「姿現し」をしたのかの過去を知り、残される子供の行く末の手立てを講じるとともに、かつて自分たちが死んだときに使者だったというソンジュ神に、一千年前に「何があったのか?」を聞いていくことになる。片やカンニムはスホンとともに、「無念の死」の立証のために冥界の障害を越え、焦点となる二つの裁判を受けることになる。

ヘウォンメク&ドクチュン&ソンジュ側は過去の因縁も相当にドラマティカルで、かつ下界の出来事がマ・ドンソクとチェ・ジフンのオフビートなやりとり(ファンドはダメだ!笑った)で彩られるのに比べて、カンニム&スホン側はカンニムが何しろ自分の意図を明かさない(明かせない)のもあって、若干単調になりがちな部分はあるにせよ(突然のジュラワ笑いましたよ…)、とはいえそれを補ってあまりある最後の怒涛のカンニムの告白!私、忘れるってことは人間に等しく与えられた恩寵だと思っているんだけど、まさにカンニムはその恩寵を奪われて、己の罪と向き合い、赦しを乞うこともできないまま、あのふたりを1000年見つめてきたわけですよ。自分が自分の至らなさから死に至らしめた血のつながらない弟と、そしてまったく奪われる必要のなかった命を奪われた少女とをさ!!!しかもその二人には記憶がなくて自分をテジャン、使者様と慕ってくれる。そんでもってそのふたりとやることは下界から死者をつれてきて、その罪と向き合わせる弁護士って…地獄かー!ってなりませんか。

スホンが生き埋めにされたと知った時、これが49人目になる、それを果たせば記憶は消える、そして記憶が消えれば、二度と自分に告解するチャンスはない。そう思ったんだろうねあの時。自分が生き埋めにされたんじゃなかった。いやむしろその方がどんなにかよかったとカンニムは何度も考えたんじゃないですかね。

でまたさ、ヘウォンメクですよ。いやマジで、高麗最強の武将、通称「白い山猫」って出てきてもっふもふの首巻きして大立ち回りしてる過去のヘウォンメク見て、設定!濃い!つかネーミング!!と思ってたら現在のヘウォンメクがむちゃくちゃ悦に入ってたので大笑いしました。ここだけでなく何度も過去の設定の濃さを今のヘウォンメクが茶化すことによって対象化してくれるのがまたいちいちよかった。だって天涯孤独の身の上で敵の将軍に拾われて養子になって血のつながらない兄とうまくいかなくて挙句の果ての追放ってだけでも「も、盛りすぎ!」ってなるのに、さらにドクチュンとのエピ畳みかけてくるやん。ドクチュン完全に天使やん。もう、もう無理です!ってぐらいこっちのキャパいっぱいいっぱいですよ。何のキャパかって性癖のキャパですよ。しかも現世では途中で急に前髪おろす!かわいい!全方位隙なしかい!あの1000年前のドクチュンとの別れのシーン、白い毛皮を出して…ううう…へウォンメーク!!!(無駄に呼びたい)。

いやマジでこれを踏まえて第一章を見たい、第一章のカンニムを舐めるように見たい。しかもこれ、最後の最後まで「え?あ?そうなの!?」がポストクレジットシーンでどかどかくるので全然気が抜けなかった。そうか…カンニムは知らないままに父に告解を果たしていたのだね…でもって地獄の勧誘制度なに!?でもわかる、私もスホンは冥界でいい仕事すると思うヨ!彼が繰り返し「生まれ変わりたくない、あんな苦労二度としたくない」っていうの、なにげに重いし、でもスホンのすごいところはさー、あの二人をゆるしてるじゃん。ゆるしてるっていうか、あの二人がゆるされることを願ってるじゃん。関係ないけど私閻魔大王さまは御髪をおろしているときのスタイルが好みです(聞いてない)。

今回召還されるはずだった亡者は第一章でもちょくちょく出てて、しかもカンニムたちが見えてたっていうのもなるほどなー!ってなったし、ソンジュ神がヒョンドンの前では完全に「気は優しくて力持ち」なんだけど、ちゃーんとふてぶてしさがあるのもよかったなー。いやーほんとに面白かったです。使者トリオが好きすぎて、これスピンオフとかないの?見たいよー見たいよーって私の中の駄々っ子がおとなしくなる気配がありません!

「X-MEN:ダーク・フェニックス」

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ファーストジェネレーション、フューチャー&パスト、アポカリプスと続いた現行X-MENシリーズが本作をもっていったんのピリオド。監督・脚本はサイモン・キンバーグ。

シリーズの最終作にしてはコンパクトな作品で、コンパクトだけど濃密かっていうとそうとも言えない…みたいなところがちと残念でした。ファーストジェネレーションから続投しているキャストの豪華さ、その彼らの場を持たせる力があれだけ集結しても、やっぱり土台となる脚本に強度がないとつらみがある。

今までのシリーズでは見られなかった組み合わせやコンビネーション、それぞれの能力の見せ方とかも新しさのあるシーンもあって、そこは楽しかったです。特にエリックは何しろ能力がチートすぎてスタジアムを浮かせるとか地軸をどうにかするとか大振りな方向での絵が多かったけど(そっちの方が劇画的に映えるといえば確かにそうだよね)、今回は近接戦闘というか、目の前の敵ひとりひとりを倒す、に集約された動きでかつ演じてるマイケル・ファスベンダーのスタイリッシュさも相俟ってカッコよさが天元突破してた。

しかし、登場人物がとるそれぞれの行動、アクションが連鎖していかないというか、ぶつ切り感がすごくて、そうなると物語が有機的な流れを維持できず、なんとなく最後「お、おう…そこに着地するか…」という感じで終幕になってしまったんだよなー。チャールズは中でもワリを食った感が強い。救出作戦の強行もそうだし、ジーンの説得を巡るやりとりもそうだし、レイヴンを喪ったあとのハンクとのやりとりもそうだし、そのハンクも「非を認めろ」と迫って、認めないから出てってエリックの所へ行って(しかしエリックがどれだけ情報網を持ってても、その情報網にチャールズならアクセスできるんでは)、探し出して殺すっていうエリックの言に首肯してるのに、そこからの共闘へ至る心理もよくわかんないし。というかそもそもレイヴンの死はあれしかなかったのかっていう。いやジェニファー・ローレンスのスケジュールおさえるの難しかったのかなとかメタなことも思いますけど、もっとやりようが…あったのでは…となりますよね。

エリックは前回のアポカリプスも、言ったらその前のフューチャー&パストも、隠居(幽閉)から引っ張り出されるってパターンが続いてて、しかも前回も今回もその翻意に至る流れがよくわからない。いったんは敵対させよう!でも最後は共闘させよう!っていう構図にするために便利に使われすぎな気がしてしまう。エリックとチャールズってやっぱり特別なケミストリーのあるふたりだし、その力学を劇中でまったく使わないのに、最後はチェス持って「今度は俺の番」て、そういうエリック側からの能動的なアクションを本編で見せてからの連携であってほしかったっす。

そして主役はジーンなのに、ジーンのキャラクターのエッジが立ってないつーか、力の強大さに振り回されるのはともかく、それをコントロールできるようになる流れがやっぱり唐突に感じてしまった。そしてピーターくん…マジか…ってなったし、いやクイックシルバーのアクションは撮影にお金がかかる…んだろうけども…いやしかし…っていうモヤモヤが。カートくんは能力フル発揮でむっちゃ活躍してたね。ナイトクローラーかっこいい。

あとやっぱりヴィランの存在がもやあっとしたままだったのも物語の牽引力が低い要因ではあるよな~。いい悪役は物語を輝かせる。

人間とミュータントとの共存または対立というのをシリーズ通して描いてきたけれど、この作品には記号としての人間しかいないつーか、ミュータント役に立つ=応援する!、ミュータントが逆らった=排除しよ!なリアクションが記号的に書かれるだけなのもちと残念な点でした。X-MENは将来的にはMCUに合流するという話がありますが、いやー今はまだ全然想像つかない。怖いような!楽しみなような!

「アラジン」

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往年のアニメーションの実写化とどまるところを知らずのディズニー、ガイ・リッチーを監督に据えて「アラジン」を実写化!ガイリッチー監督個人的に波長が合って好きなんですけど、ここんところボックスオフィスで苦戦が続いてたのでちょっとハラハラドキドキしておりましたが、無事大ヒット!おめでたい!おめでとう!

しかし1992年のアニメーション映画自体にはさほど思い入れがないというか、いや実際見たことあったか?あったかな?ぐらいの薄い記憶しかない私。それよりもA Whole New Worldがその年のアカデミー賞で主題歌賞獲ったなーみたいな周辺情報の記憶のほうがまだ残ってる感じです(なにしろあの「ボディガード」の楽曲を抑えての受賞)。「アラジンと魔法のランプ」の物語自体はそれこそ子供の頃に読んだと思うので、大まかなストーリーは勿論知ってるんですけど、しかしジャファーを何故か王の弟と思い込んでいた私(悪事を働くのは大抵王の弟というシェイクスピア脳どうにかした方がいい)。

ファースト・トレイラーが出た時は、ジーニーが昨今のがっつりCGじゃなくて「まんま青いウィル・スミスじゃん」という声があったりしましたが、結局のところそれが奏功したって感じですよね。ウィル・スミスやっぱすごいや。スクリーンのこっちからでもウィル・スミスのジーニーにぐんぐん物語の中に引っ張り込まれるのを感じるし、むちゃくちゃ高揚感をもたらしてくれる。あれが例えばモーションキャプチャーで作られたキャラクターだったら、この巻き込み力はここまで発揮されなかったのではって気がします。

もともとのアニメーション映画の持つ「名曲」という最大の武器をきっちり使いこなしていて、へたにこねくり回さず真っ当に楽曲の良さを堪能させてくれたのがよかった。アリ王子のお通りよかったなー。あそこ思わず拍手したくなっちゃいますよね。A Whole New Worldも王道の演出で気持ちよく浸れました。一方でちゃんと今へのアップデートもされていて、その最たるものがジャスミン王女の「スピーチレス」だと思うんだけど、抑圧に抵抗するジャスミンっていうのがちゃんと元のキャラクターに沿っているんですよね。とってつけた感がぜんぜんない。楽曲もいいしナオミ・スコットの歌も素晴らしいし、ほんとここは実写版の名場面!アラジン役のメナ・マスードの愛嬌のある佇まいも絶妙で、あのアリ王子になってからの板についてなさ!ジャムのやりとり最高でしたよね(宝石の「ジェム」を噛んじゃう感じなのかな)。

歌、ダンス、派手な魔法、動物たち、そして絨毯!魔法の絨毯私のイチ押しです。可愛すぎんか。地上でのチェイスシーン、空中戦、もちろんロマンス(でもやりすぎない)も揃っていて、盤石かよ~~という楽しさでした。もう一回見たくなる!

「獣の柱」イキウメ

2013年に「まとめ*図書館的人生(下)」として上演された作品を改訂再演。例によって今年はスケジュールがギチギチなので「再演は後回し…」と最初は予定に入れてなかったんですが、これも東京公演観た方がすげーよかったすげーよかったというので結局我慢できなくなり、ギチギチの中大阪公演に駆け込んだという…このパターン今年何回繰り返すんや…。

イキウメの大阪公演といえばお馴染みのABCホールじゃなくてブリーゼというデカめのハコだったので、どんなもんかな?と思いましたが特に違和感もなく。とはいえやっぱりもう少し小さい劇場の方が劇的効果は高いだろうなー。

6年前の上演からかなり変えていて、といっても6年前のディティールをそこまで鮮明に覚えているわけじゃないんですけど(当時の感想はこちら)、それでも「あ、かなり違うな」と認識できるぐらい大幅に展開が変わっている印象を受けました。黙示録的な話の筋立てや、終末観としては今回の方がよりわかりやすくなってますよね。しかしその終末とのキャラクターたちの絡ませ方は前回の方が私の好みだったかも。いや、それはおまえ前回のラッパ屋の造形が好きなだけだろと言われてしまうとぐぅの音も出ませんが。いやだってあのラッパ屋魅力的すぎましたもん。あんなん成志さんにやらせて爪痕残らないわけないでしょって感じです。

安井さんやっぱり抜群の存在感。うまい。前半の絶妙な「軽さ」で物語の展開を主導していくとこが、ほんと他では代えがたい味だよな~と思う。浜田さんは一見「普通のお兄ちゃん」なのに、ヒュッと「人外スイッチ」みたいなのが入るのが毎回すげえなと思う。イキウメの役者陣はそれぞれ手の内に入ったパターンの役がちゃんとあって、でもそれだけじゃないプラスアルファが各公演ごとに楽しめるのがいいし、劇団の強みだなーと思います。しんぺーさんのラッパ屋夫婦、あれはあれできっちり物語をかき回してくれるし、絶妙なノイズ感があってさすがでした。

前田さんの作品で一番好きなところは、この「獣の柱」もそうだけど、演劇で「大いなる虚構」を描こうという意思が一貫しているところで、そこは他になかなかない得難さだなーと作品を拝見するたび思います。今秋のプロデュース公演も何とか都合をつけて観に行きたい!

三谷かぶき「月光露針路日本 風雲児たち」

タイトルの読みは「つきあかりめざすふるさと」。三谷幸喜さんが幸四郎さん、猿之助さん、愛之助さんとタッグを組み、歌舞伎座で!新作!すごい!作品はみなもと太郎さんの「風雲児たち」から大黒屋光太夫の物語を一本の芝居にしたもので、三谷さんは「風雲児たち」からこれでドラマを一本、芝居を一本創り上げたわけですね。最初のドラマがよくなかったらこの話もGOが出なかったかもしれないし、実績って本当大事ですね。

幕府の方針により「一本マスト」の帆船しか許されなかった江戸時代、江戸へ向かう途中で嵐に遭い、帆柱を切って転覆を免れたものの、あてもなく洋上を漂流することになった光太夫たち一行。その彼らがまさに波乱万丈の果てにもういちど「ふるさと」を目指す物語を描いています。

大きな舞台をひとりで背負って立つことが出来る役者をこれだけ揃えて、しかも脚本を書いているのは三谷さんで、そりゃもう最初から最後まで退屈なんかさせるわけない、という感じ。しかし、この中では圧倒的に三幕が面白く、その最後の清涼感が観劇後の体感をかなり占めているのではないかという気がします。なんで三幕がいちばん面白いか考えると、最も大きいドラマである庄蔵、新蔵との別れを歌舞伎の文法で見せているっていうのがやっぱり大きいと思うんですよね。

ちょっと前に三谷さんが新橋演舞場で「江戸は燃えているか」をおやりになりましたが、三谷さんは劇作の腕は疑うべくもないんだけど、演出家という意味では花道のある劇場との相性がそれほどいいとは思わないんですよ。どうしてもあの奥行きを「物理的」なものにしてしまいがちというか(そういう意味ではいのうえさんの花道の使い方のうまさは天性としか言いようがない)。でも歌舞伎における花道ってそういうものじゃないじゃないですか。で、筋書で三谷さんがあの別れの場面は完全に歌舞伎俳優たちに任せた、と書いてらっしゃるのを見て、そうだよなー!と思いましたし、その目論見はまんまと当たっているなと。

そしてラストシーンに至る幸四郎さんの独白、居並ぶ面々、向こうに見える富士の山、というその最後がやはりあまりにも鮮やかで、その鮮やかさは劇中コメディリリーフのようにも見えていた小市のキャラクターからの積み重ねによるものに違いなく、こういうところはまさしく三谷さんの冴えという感じがしました。

とはいえ、個人的には三谷さんが歌舞伎を書くのだとしたら、こうした有為転変を描くよりも、たとえば文楽作品として書いた「其礼成心中」のようなもののほうが三谷さんならではの爪痕が残せるような気がするなーとも思いました。勘三郎さんも以前「世話物を書いてもらいたい」って仰ってたけど、その気持ちわかる。三谷さんの戯曲のよさを「花見の場所取りのうまさ」と野田さんが評したことがありましたが、たとえば歌舞伎の古典作品の、「そこでは描かれなかった人物やものごと」に焦点を当てるようなものをぜひ見てみたいし、そういうものを書かせたら当代一だと思うんですよね~。

幸四郎さんは今回、常に前向きのエネルギーを失わない「陽性」の人物で、幸四郎さんの面白いところは根っから陰性のキャラクターもその逆も普通に「ナチュラルボーンそういう人」みたいに見えてくるところ。あとあの不思議な高揚感をもたらす長台詞がそれぞれの幕切れで冴え渡っておられましたね!猿之助さん、もう手首をひとつキュッと返すだけで客の視線を惹きつける、歌舞伎「味」をみせる、ほんと華がありますわ。エカテリーナの堂々ぶりもさすがだったし、なんだかんだ幸四郎さんとロシア式あいさつを交わす役だし、なんかもう世界は猿之助さんを中心に回ってる気がしてくる。愛之助さんの演じた新蔵、ロシアに残った本当の理由を明かすあたりで「うあ~ここまで厭味っぽさ出してきて最後にそれ!惚れてまうやろ!」ってなりましたし、前半の若干憎々しさのある部分も含めてはまってたなーと思います。あと、鶴松くん、それほど出番があるわけではないけど、やっぱりめちゃくちゃ芝居心があるよね。少しのシーンでもちゃんと心に残る居方ができてるつーか。

八嶋さんは三谷作品における「いつもの八嶋さん」ではあるんだけど、それをやる場所は「いつもの」ではないわけで、客も「いつもの」ではないわけで、それでもこうして「いつもの」八嶋智人で真正面から向かってきてしっかり仕事をしていく、ほんっとハートが強い。私はまあどっちかといえば「三谷さんたちのいる方」から歌舞伎を見に来るようになった客なので、八嶋さんの奮闘ぶりになんかもう、心から声援を送りたくなったし、あの歌舞伎座の舞台で万雷の拍手を浴びてる姿に思わずぐっときちゃいました。