「ボヘミアン・ラプソディ」

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クイーンのボーカリストフレディ・マーキュリーにスポットをあてた映画。クレジットはブライアン・シンガー監督ですが、この映画も製作段階でいろいろあってシンガー監督は途中で交代したんだけど映画がほぼ完成していたので監督としてはシングルクレジットになってるみたいです。後を引き継いだのはデクスター・フレッチャー。製作にブライアン・メイロジャー・テイラーの名前があります。

むちゃくちゃよかった、むちゃくちゃよかったんですが、その「よさ」はなんというか映画そのものというよりも、この映画が掬い取ることに成功しているクイーンの、ひいてはロックバンドの持つきらめきとせつなさにあって、どうにも見ているひとを巻き込んでしまうところにある気がします。クイーンを知っていても、知らなくても、今までいちどでもロックバンドというものに深く思い入れ、そしてそれを喪ったことがあるひとには、これを知ってる、この風景を知っている、と思わせるし、その風景の先にある「たくさんの希望と絶望と興奮」を思い出させるし、だからこそこの映画がたどり着く最高の瞬間に巻き込まれずにはいられない。

ロックバンドにどんな物語を見るか、というのは100人いれば100通り、1億人いれば1億通りあると私は思っているので、それは同じものを見ていてもそれだけ「自分がそのバンドに見る物語」は千差万別だと思っているので、実際のバンドの、しかも早逝したヴォーカリストを擁したバンドをこうして映画化するということはものすごい困難を伴う作業だと思うし、実際にこの映画において時系列が圧縮されていたり、「いやここはそうではない」って部分が飲み込めないひとがたくさんいても、それはもっともなことだろうと思います。そして逆に、たとえそういう部分があったとしても、これが自分の見たかった物語だ、とおもうひとが沢山いたとしても全然不思議ではない。映画のクライマックスをライヴ・エイドに持ってきて、しかもあの20分間のステージをほぼ完全に再現する、というのが降板したブライアン・シンガーの仕事なら、かれは文字通りこの映画の監督としてシングルクレジットされるに相応しい。あの20分間はなんというか、結局のところ、あのステージにすべてがあった、ということなんだと思う。ブライアン・メイロジャー・テイラーは、クイーンをこうやって憶えていて欲しい、ということなんだと思う。そしてこのふたりは、こういう形でクイーンの物語を紡ぐ資格のある数少ない人間のうちのふたりなんじゃないかと私は思います。

バンドがスターダムを駆け上がっていくのも、フレディ・マーキュリーの人生も、駆け足みたいな描写ではあるけれど、それでもなおそのひとつひとつに説得力を持たせる楽曲のパワーたるや。名曲「ボヘミアン・ラプソディ」を、名盤「オペラ座の夜」を生み出す前夜の彼ら、あの全能感に満ちた彼ら、正直もうここで涙の海に沈められた私だ。しかもそれを録音するスタジオを訪れたときの描写が、ってこれもう完全に映画の感想から離れちゃってるけど、私の好きなバンドが5枚目のアルバムを録ったとき(なぜ固有名詞を出さない)(いやなんとなく…恐れ多くて…)のスタジオ、リッジファームにすごく似てて(実際にオペラ座の夜のリハでリッジファーム使ったらしいですね)、まさに「前夜」の興奮のさままで思い出させて、これは…これはあかんやつー!この後起こることを知っているだけにあかんやつー!ってなりました。もうそこからホントぜんぜん映画と距離をもって冷静に見ることができなかった。

そんなんだからフレディがソロとして契約をした、という話をメンバーにするところも、ああこれ…自分をクビにしてくれとかいいだす空気…とか、妥協って言っちゃった…とか、逆にもういちどバンドとしてやりたい、って話をするところとか、なんならライブエイドでメンバーがドラムを囲むシーンですら、全部がわたしにとってあるものを思い起こさせるんじゃー!ってこれは完全に余談でした。

映画の感想で根っからのクイーンマニアな人たちも、メンバーの再現ぶりを軒並み称賛されていますが、いやほんと、物語や音楽に感動するのと、「それにしてもそっくりだな…」っていう感嘆が交互にやってきて忙しかった。ブライアン・メイはマジで途中から「これはもはや本物のブライアン・メイなのでは…?」と思うほどに似てる。すごすぎる。顔もそうだけど表情とか仕草がもう全部あれ。でもロジャー・テイラーもジョン・ディーコンもめちゃ似てます。ライヴエイドのあのジョンのシャツほんとどこから持ってきたんだろう…まさか作ったのか今回のために。あとブライアン・メイがフレディに「きみも髪を切れ」って言われた時「生まれたときからこれだ」って返すのめっちゃ好きでした。「コーヒーマシーンはやめろ!」も楽しかった、ああいう密なバンドの空気が色濃く感じられたのも入り込んだ理由のひとつだと思う。キラッキラのロジャーや、ジョンの絶妙なバランサーぶりも好きだったなあ。ラミ・マレックのフレディ、すごくすごくよかったです。言うまでもなくいちばんの難役だし、あれだけのロック・アイコンを演じるのって並大抵じゃないけど、孤独に蝕まれていくさまも、ステージの上での圧巻のパフォーマンスも、本当に説得力があった。あ!あとねこがめっちゃいい仕事してます。

いやしかし、あの最高の風景にたどりつくまでに身を絞られるような思いをするのに、それをわかっているのに、どうして「もういちど」って思ってしまうんでしょうね。この映画も全く同じで、やっぱりあの最高の瞬間を味わうためにもう一度足を運びたくなってしまう。そういう意味では、この映画にはまさにロックバンドが私たちにかける魔法そのものが備わっているんじゃないかと思いました。ぜひ、音響の良い映画館で楽しんで下さい!

「遺産」劇団チョコレートケーキ

  • すみだパークスタジオ倉 E列17番
  • 脚本 古川健 演出 日澤雄介

第二次世界大戦下の満州で、表むきは関東軍防疫給水部として活動していた「731部隊」を題材にした作品。先だって公演された「ドキュメンタリー」からつながる物語でもありますが、直接的な続編ではないので、同じ登場人物が出てくるわけではありません(終盤、ドキュメンタリーで語られた物語の顛末のようなものがさらっと出てくる程度)。

731部隊で陸軍技師として数多くの人体実験に関与したひとりの医師が、自分の死を契機にその「遺産」を白日の下にさらすことを望む、その相克と、その意思を受け継ぐべきだと考える青年を主軸に、過去と現在が交錯する物語です。語られる物語はあまりにも凄惨で、非人道的、という一語に尽きますが、では我々と彼らの何が違うのか、同じ状況に置かれた時に、自分は彼らと同じことをしないと言えるのか。普通の人間がいちばんおそろしい、それはこの劇団が積極的に取り上げているナチスのあの狂乱の時代にも共通するもので、亡き医師の残したファイルを受け取った青年の「ぼくも同じことをやるだろう、だからこそ心底おそろしい、だからこそこのファイルを埋もれさせてはいけない」という台詞にこの芝居の心臓が集約されているような気がしました。

しかし、この731部隊の行ったことについて、ある程度漠然とした知識は共有していても、これだけのことをしたにも関わらず、戦犯として処罰されることもなく、なんらの清算を行うこともなく、ただただ戦時下での異様な規律だけが生き続け(石井四郎の「決して口外するな」という命令に皆死ぬまで逆らうことができない)てきたことにはなんというか、どうしようもない居心地の悪さが残ります。医学の発展にはこうした犠牲がつきものであるというその考えのもとに、我々は今この国で西洋医学の恩恵を受けているのではないかというような。

そういう意味では、「ドキュメンタリー」のミニマムさ、インタビューという形式をとりながら一本の芝居としてそこから観客に「何か」を見つけさせる巧みさは、今思っても出色だったなーと振り返ってみたり。

女性の「マルタ」が言葉を積極的に覚え、それによって自分が人間であるということを自分を取り囲む人間に思い出させていく演出は出色でした。あの最後のダンスも。人間であること、語ること、そして、踊ること。彼らは人間だった。彼らを人間として扱わなかった人もまた、悪魔ではなく人間だったのだ。そのことが何よりも胸に残る観劇でした。

「平成中村座 十一月大歌舞伎 夜の部」

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十月に引き続き、十一月は平成中村座での勘三郎さん追善興行。「弥栄芝居賑」。一座打ち揃ってご挨拶。劇中で口上もありました。勘太郎くん長三郎くんも勘九郎さんと一緒に出てきてご挨拶したんだけど、正座するときに勘太郎くんがお父さんとまったく同じことをしようとするんですよ、お父さんが扇子を持ち替えたら持ち替える、袴を直したら自分も直す、いやもう顔から「おーわんだいすき」オーラが出てて見てて照れた。わしが。花道での女伊達と男伊達のツラネもよかったです、花道見てそれを見ている勘九郎さんを見て花道見て勘九郎さん見て…を繰り返していたので首が痛い。あと児太郎さん、なんか一気に貫禄が備わってきた。器がぐんぐん大きくなってる感。

このあとの演出について以下ネタバレしますのでまだ見てない!という方はここまで!

で、そのあと場内暗くなり、勘三郎さんの映像が流れて、最後は揚幕が開いて照明が花道を照らして、舞台がパッと明るくなり…という趣向がありました。大阪の平成中村座のときも勘三郎さんの映像を映すのやりましたね(こういう形ではなかったが)。私は基本的に舞台の上で映像を使用するということに必要以上に点が辛いので、やっぱりどうにもどうなのかなあこれは、という感じが否めず。見せる方の気持ちを慮らないわけではないが、しかしどうしてもやりたいならちゃんとやれ、とも思うのであった。最後の演出につなげるなら、映像そのものにも演出が、つまるところ編集が必要でしょうと思うのだ。勘三郎さんの花道を使った芝居だけをつなげるとか、何らかの工夫がほしい。芝居にも間が重要なように、それを客に見せるのなら映像にだってリズムとテンポがあってしかるべきだと思う。俊寛の「未来で」、鼠小僧の「大事なのは、いつも誰かが見ていてくれてる、そう思う心だ」、研辰の「生きてえ生きてえ、死にたくねえ」、そりゃ、泣きます、泣きますが、それは家でビデオを見てたって出る涙なので、私が劇場に求めているものはそういうものではないのだなあという。

舞鶴五條橋」。初見です!十七世勘三郎のために作られた舞踊作品だそう。なんと、勘太郎くんが牛若丸で文字通りの主役、出ずっぱり、いやはやすごいね。第三場が五條橋で勘九郎さんの弁慶が出てくるんだけど、そこでのふたりの踊り、勘太郎くんはまさに「ひたむき」って言葉を具現化したような必死さ、健気さがあふれ出てたし、なによりも「子どもがやってみてる」というのではなく「一人の役者としてやるべきことをやる」ターンにあの歳で入ってるのがすげえなと心底思いました。勘九郎さんの弁慶、最初から最後までカッコイイしか詰まってない幕の内弁当もかくやであって、またもや「これ永遠に見てられるな…」っていう例の病気発動。花道での引っ込み、すわ飛び六方か!と思わせてからの展開になに~~~この寸止め海峡なに~~~~どういうつもり~~~勘九郎さん「勧進帳やる気ない」とか扇雀さんに言ったらしいけどあなたそんなこと言っといてこれってもう包囲網待ったなしですよわかってる~~~~???と言いたい私がいました。

仮名手本忠臣蔵」七段目、祇園一力茶屋の場。芝翫さんの由良之助、勘九郎さんの平右衛門、七之助さんのおかる。いやはやとってもよかったです!!七段目は芝居としても好きだし、勘九郎さん七之助さんご兄弟の持ち味が存分に発揮されたいい芝居がつまっていて本当に見ごたえありました!

ことにおかるの七之助さんがすばらしくて、由良之助とのじゃらつきでも、そのあとの平右衛門とのやりとりでも、どこかまだ根に純なところのある「むすめ」の気配が感じられて、兄にふるさとの両親と、自分の夫の様子を尋ねるところ、まさに「何にも知らぬ」そのさまに胸が締め付けられるし、いよいよ勘平の身に起きたことを知ったその瞬間の、あの音のない、ぜんぶが彼女のからだから抜け落ちていくような衝撃が見事に舞台のうえで表現されていて、あの瞬間の芝居だけでも涙が出るほどでした。

勘九郎さんの平右衛門、一本気なところだったり妹思いなところだったり、あの身体能力の高さが古典の型の中でしっかり躍動していて、どの場面も見ていて楽しさしかなかったです。自分の命を担保にするような話の展開なのに、兄妹のあたたかさとか可愛らしさが心に残るし、だからこそふたりの決意に泣ける。勘九郎さんがおかるに「わりゃ、なんにもしらねえな」と語る場面で、このひとの芝居味がいっぱいつまったこの台詞、これが聞きたかったんだよなー!って思いました。

芝翫さんの由良之助もよかったなー、やっぱりこの七段目は六段目からたまったフラストレーションが最後の由良之助のせりふで一気に胸が晴れるところなので、そういう「引き受けてくれる」大きさが感じられました。福之助さんの力弥も好演でしたよね。

今年の二月に歌舞伎座仁左衛門さんと玉三郎さんの七段目、おかる平右衛門を観たので、なんというか絶対的正解のあと、ご兄弟のを見たらどういうふうに感じるのかな?って思っていたところもあるんですけど、不思議なほどそういうことを考えず、素直におふたりの芝居を堪能できて、それが本当に心の底から楽しくて、充実した観劇でした。あと、これは二月のときにもおんなじこと思ったんですけど、仮名手本忠臣蔵の通しが見たい。今考えうるベストメンバーですこれが!というやつで、通しを見たい。松竹さんお願いします!

「平成中村座 十一月大歌舞伎 昼の部」

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「実盛物語」。勘九郎さんの実盛見るの二度目だな~いつぶりだっけ~と思ったらもう結構前の話だった(まだ勘太郎さんだった)。時の流れ。そして今回なんと太郎吉に長三郎くん!すごい!
前回拝見したときも「こういうの勘九郎さんぴったりだな」と思った覚えがあるんですが、やっぱり物語るときの所作がほんとにうつくしい。馬上の鷹揚とした佇まいが特によかったです。時を経てさらに大きさを増してるし、長三郎くんとの場面は虚実綯交ぜになるというか、どうしても父子としてのおふたりが重なってより味わい深いし、こういう「役者が透けてみえる」だけでなく「関係性が透けてみえる」からこその面白さは歌舞伎ならではだなあと思います。動くなよ、って頭をぺしってやるとこ、鼻かんであげるとことかによによしちゃったい。長三郎くん、多少のもじもじはあったけどがんばってたほうじゃないかな!(えらそう)
あと最後の「鬢を染めて…」の台詞で「アーッこれ清水邦夫さんの「わが魂は輝く水なり」につながるんだった!そうだったそうだった!」と思い出し、同時に「これ前回観たときもこの台詞で気がついてたよねわたし!」ってなったので脳内メモリ不足がかなり深刻な状況です…。

「近江のお兼」。初見です!長い晒を新体操ばりに使う趣向に富んだ舞踊でした。晒が長く、幅も広いので、それこそ新体操のリボンどころじゃない腕の力がいるだろうし、振り上げたときの七之助さんの腕のふとまし…いやふとくはない、たくましさにおお…なんか見てはいけないものを見ているようで照れるぞ!と思ったり。あとこれはなんといっても高足駄で踊るのがいいですよね。それであの動きっていうのがさすがすぎる!

「狐狸狐狸ばなし」。これもだんだんおなじみになってきましたね!勘三郎さんで1回拝見して、扇雀さんの伊之助はこれで3回目かな?七之助さんのおきわを拝見するのも3回目ですね。もともと伊之助が「上方の女形あがり」という設定なので、扇雀さんほんとハマり役だなー!と観るたび思います。個人的に今回のMVPは又市の虎之介くん!よかった、よかったです。勘九郎さんの又市も好きなんだけど、若干なんかこう…あざとさが残るんですよ(笑)虎之介くんの又市、素直さが前面に出たのが奏功した感じがする。扇雀さんとのやりとりもよかったなー。七之助さんはほんとにコメディセンスのある方なので、物語が反転するたびにどっと笑いをかっさらっていくのがさすがです。あと私は一度でいいので勘九郎さんに重善やってみてほしい。なんでおれはこうモテるのかな~?って言ってみてほしい。ぐふふ。

「ヴェノム」

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スパイダーマンヴィランでお馴染みヴェノムの単独スピンオフ映画。監督はルーベン・フライシャー、主演はトム・ハーディソニーピクチャーズのマーベルキャラクターズユニバースの第1作?なんでしょうか?制作するよんと報じられてからなんだかんだ紆余曲折あった気がしますが無事公開!日本でも公開初週に動員&興収で第1位!おめでとうございます!

新進気鋭、名前の売れた記者・レポーターのエディ・ブロック、恋人は弁護士(with猫)、なにもかも順調…な筈だったのに、ライフ財団の裏の顔をすっぱ抜こうとして干される、恋人にはフラれる(業務メール勝手に開けたんだからこれは当然の報い)、ふんだりけったりなところにライフ財団の女性研究者が「ライフ財団は宇宙から移送してきたシンビオートという生命体を使って人体実験をしている」と助けを求めてきて…という筋書き。

この筋書き部分まではわりと懇切丁寧に描いていて、エディ自身が日常に鬱屈している様子や、彼の小市民ぶり(コンビニ強盗を見ないふりしちゃうけど、街角に立つホームレスには優しい)なんかも短い場面でもよく伝わるので、彼がヴェノムという「力」を得てどう変わるかっていう部分はすごく流れができていると思う。その反面、ライフ財団のほうの書き方がなんつーか、大味きわまれりという感じだったのでちょっとびっくりした。助けを求めてきた女性研究者ほったらかしだしね(そして次のショットじゃ死んでるしね)。シンビオートとの融合がうまくいかないであんなに凄惨な研究を繰り返しているのに、なぜエディは例外?とか、いやまあエディはいいにしても、後半になるにつれあんなくっついたり離れたりして栄養を吸い取られて死ぬ人と俄然平気な人がいるのは、なぜ?とか、あの研究はいったいなんだったんでしょうか。ヴェノムに寄生されていないエディを連れてきて、しかも用なしだとわかったのになぜわざわざ山奥まで連れてって殺す!?みたいなことまで最終的には気になってしまった。

ヴェノムってあのビジュアルからしてもっと内なる悪を呼び覚ます的な存在なのかなと思ったら、お腹を常に空かせている以外はかなりの常識人(人?)だったりして、そうなるとエディとのやりとりが完全に掛け合い漫才というか…夫婦漫才というか…なんしか絶妙にオフビートな会話が繰り広げられるうえに、トムハのなんともいえないファニーさがブレンドされて「ただただかわいいトムハとかわいいヴェノムの珍道中を観ている」感すごかったです。でまたそれが楽しいのでトムハはすごい。最近寡黙なキャラが続いていたのでこういうトーンのトムハを堪能できるという意味でも貴重な映画ですね。ヴェノムが当初の目的(侵略)から地球での共生に転向する理由も「おまえだ、エディ」って言われて、うん?唐突に話変わったな?でもまあトムハだからあるよね!みたいな謎の説得力あった。

ヴェノムはシンビオート界の負け組だったけど、エディと一緒ならなんでできるぜって無敵感出してくるっていうのがほんとかわいい展開すぎる。あと9割9分負けるライオットに立ち向かってバトルになるところ、なるほど確かにごはんですよ感ある…とか思っちゃって申し訳なかった。エディの別れた彼女と今の彼氏のコンビが思いのほかぐいぐいヴェノムに馴染んでるのも面白かったです。

ポストクレジットシーンでカーネイジが出てきたのでおおっと思いつつ、もうひとつはスパイダーヴァースの長めの映像だったので、あっそうきますか!と。しかし気になるのはやっぱりトムホスパイディとの共演が果たして実現するのかどうかっていうところかなー!だってトムホ&トムハでスパイダーマンとヴェノムだよ!夢ふくらむ!

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オチのない話をします。いやオチはいつもない。

ファンといいオタクといい推しといい自担といい贔屓という。「自分が好きになったひと/もの」を表す言葉も細分化してくる今日この頃、ネット記事には「贔屓は人生を照らす灯台」みたいな記事がずんずん出るようになって、いやほんといい時代がきたな!と思います。哲学者の竹田青嗣さんが一般欲望に打ち勝つ固有の欲望を持つのが幸せになる秘訣と仰ってるのを以前テレビで拝見したことがあるけど、風向きがそっちのほうに変わってきたんだな~と。

いやそんなまじめな話じゃないです。そう、要は「じぶんのすきなひと」をどう呼ぶ?どう呼んでる?という話がしたかった。今わたし「じぶんのすきなひと」という言葉を最大公約数的に用いましたけど、まずこの「すきなひと」の解釈からして違うってひとも結構いそうですよね。そこはご勘弁ねがいたい。

「推し」という言葉は「推」が入ってることからして「推薦」って意味を含むと思うんだけど、いやでももともとは「イチ押し」の「押し」なのかな。じゃあなんで「推し」という文字が使われるようになったんだろう。ってそんな語源は紐解きません別に。「推し」、すわりのいい言葉ですよね。広まるのもわかる。「自担」はやはりジャニーズ界隈で広範囲に使用されているという認識があるからか、自分に当てはめるとそれほどしっくりこない。「贔屓」、これはめちゃ好きな言葉だしよく使います。そもそもこの漢字がいいよね。こんなに「貝」いっぱい使って「金に!ものを!いわせる!」感ハンパない。原点にもどって「~さんのファンなんです」これはやっぱり王道、間違いない、同好ではない士とのオフラインの会話ではやっぱりこの単語が一番強いような気がしないでもない。「オタク」(~ヲタとか)も個人的には抵抗ない。

たとえば私は勘九郎さんが大好きなんですけど(知ってた)、この好きはまったくガチ恋というやつには程遠い「好き」で、「勘九郎さんのファンですか?」って聞かれたら「ハイ!」って元気に応えられるし「ご贔屓は誰?」って聞かれたら「勘九郎さんです!」ってこれも元気に答えられる。「推し」は使いたいときと「推し…なのか?」ってときとあってよくわからない。でも銀魂2のムビチケを勘九郎さんの図柄選んで買ったときは「このひとがおれの推し…(トゥンク)」みたいな満足感あった。だから時と場合によるのかな。

でも絶対に「推し」って使えないひとがいるんですよ。誰あろう、それが吉井和哉ですよ。推しではない。ぜんぜんない。何も足さない。何も引かない。何言ってるかわかんなくなってきました。私先日彼の特大写真集(おねだんそうりょうこみで5まん6せんえん)(あまりのことにひらがな)を購入したんですけど、でもそれは「推しに課金」ではぜんぜんないんですよ。わたしあのひと推してないです。推してない、じゃあなんなのか?つったら今も昔も吉井和哉に対する私の感情を一番正確にいい当てているのが

入れあげてる

って言葉です。ちなみに辞書を引くと「好きなもののために分別を欠いて多くの金銭をつぎ込む」って書いてあってマジで全力のそれな!感がすごい。確かに分別、もはやない。かれこれ20年余分別欠きっぱなしてすごくないか。届いた写真集のあまりの存在感にそんなオチのない話をしたくなった次第です。
オチのない話のおまけに写真集の大きさをぜひあなたも実感してください(ポストカードと対比)。
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「ゲゲゲの先生へ」

タイトルからして「水木しげる先生そのひと」にスポットをあてた作品になるのかしらんと予想していたんですが、これがかすりもしなかったので笑いました。ゲゲゲの先生とその先生が生み出した世界にシンパシーを覚えないではいられない創作者が、これがじぶんにとっての「ふしぎ」ですと書いたラブレター、いや論文?のような趣だった。

闇のあるところでないと人間に魂が入らない。なんだか「オニの息吹のかかるところがないとこの世はダメな気がする」って台詞思い出しちゃいますね(その台詞ほんと大好きだなおまい)。前川さんは私たちの目に見えるもの、手に届くものから「すこし遠い」ものを好んで書いてきた作家だと思いますが、水木作品との親和性というか、科学と真逆の位置にある何かを作品として残してきたという点では相通ずるところがあるんだなあと思いました。

佐々木蔵之介さんは根津という、あきらかにねずみ男をフューチャーしたキャラクターで、ほんと自由闊達にやっていてよかった。そうなんだよねー蔵は私の中では「二枚目枠」と「妖怪枠」があるとしたら間違いない妖怪枠に入るひと…だって轟天寺ヨシオだもん…(その名前で呼んでやるなよ)。「当たり前だろ。おれ詐欺師よ?」と軽妙にすごんでみせるところ、めっちゃかっこよかったなー。ああいう蔵もっと観たい観たい。

妖怪?精霊?元神?呼び名はさまざま人間が好き勝手につけますが、そのこの世とあの世の端境にいるようなキャラクターを演じる女性陣がおしなべてすばらしく、この作品の世界観を成立させることができたかなり大きな理由になっていると思いました。白石加代子さんはそりゃハマるだろうよ!と予想はしていたけど、その予想を軽々超えてくるし、池谷のぶえさんはいつ観ても本当にいい仕事しかしてないし、松雪さんのひんやりとした温度さえ感じさせる佇まいの美しさも印象的でした。ほんとキャスティングの妙!キャスティングの妙といえば「山田」役に手塚とおるさんなのがもう…ズルい。あの人の舞台の上での自由度の高さたるや。

イキウメの面々もよかった、根津の子どもの頃を浜田くんがやってたんだけど、すげえ、わかる!ここつながってる!感があって楽しかったです。大窪くんも相変わらず年齢不詳な…「三太」と「サンタ」のギャグが妙にツボにはいってしまった私だ。

私はこういった「この世ならざるもの」への感覚がないというか、つまるところある、ないみたいな二元論で物事をとらえちゃうツマラナイ大人で、だからこそなのかこういう世界を覗かせてくれる作品が好きなので、そういう作品を作るひとの根源を覗けたようで楽しい時間でした。