「国民の映画」

  • パルコ劇場 C列8番
  • 作・演出 三谷幸喜

とても楽しみにしていた芝居でした。今年の三谷幸喜祭りのなかの、唯一作家本人発信の一本。まずは何よりも、上演を継続してくださったこと、この芝居を見ることができたことに心から感謝します。

15分の休憩を挟んで3時間。一幕が60分、2幕が105分。1幕が終わったときにまず感じたこと、それはもう60分経ったのか、ということでした。それは終演後の感覚も同じ。非常に濃厚な、凝縮された3時間。

普段芝居を見ても、のちのちまで「引きずる」ということがほとんどない私ですが、やはりそこは「現実に起こったこと」という重さがそうさせるのか、それとも、舞台上の9割近い時間をどこか牧歌的に描きながら、最後にそのすべての風景を一変させる、重すぎる一石を投じて終わるこの芝居の作劇方法がそうさせるのかわかりませんが、ともかくこの重い気持ちは今もまだしこりのように残っている感じがするほどです。ナチスドイツ政権下、宣伝大臣ゲッペルスの構想する「国民の映画」にまつわる一夜の物語。

しかし、パンフで三谷さんも仰っていましたが、物語らしい物語、事件らしい事件が起こらないままなんですよね。1幕はすべての登場人物が出そろうまで、いわば登場人物紹介ですが、それだけでも十分におもしろい。それは実際の人物を描いているからこそというのもあるかもしれませんが、やっぱり三谷さんの見せ方がうまいんだろうと思います。そしてやはり、ここまで芝居巧者を集めていると、彼らが「舞台にそろう」だけでひとつのドラマだっていうのもありますよね。段田さんと小日向さんのシーンなんてそれだけでどきどきしたもの…!

それぞれの固有名詞はもちろん飛び交いますが、ナチスヒトラーという単語は出てきません。すべて「われわれ」「あのお方」。ゲッペルスは映画を心から愛し、名誉欲も出世欲も人並み以上に持ち合わせているが、同時に女好きのロマンチスト。彼が敬遠するヒムラーは「あのお方」の忠実なる部下で、どんなときにも黒い制服と腕章をはずそうとはしないが、農作業や昆虫たちに愛着を持つ一面も。ゲーリングはでっぷりとした体を揺らしながら芸術論を講釈し美食を愛する人物だが、その実モルヒネ中毒に陥っている。そんな彼らに取り入ったり、距離をおこうとしたりする映画人たち。その中にはあのレニ・リーフェンシュタールの姿もある。彼らはお互いを牽制し、それぞれの芸術論を展開し、政治的思惑を絡ませる。だがそれは、その「暗い時代」のことを知らなければどこか牧歌的にも見える光景だ。

だが最終盤、老優の性的嗜好についてゲッペルスが問いただす場面から、物語は一気に黒い影を帯びていく。発砲騒ぎ、そしてついに噴出する「ユダヤ」という単語。さきほどまで捕らえた害虫を袋におさめながら、「こんな虫だって命がある」と言っていたそのヒムラー自身が、こともなげに「処理」「除去」という単語を使う。その詳細に対して「なるほど」「すばらしい」と短い賞賛のことばで答えるゲッペルス。異を唱えるかと思ったゲーリングも彼らを人間としては扱っていない。だが何よりも、私の心に重い石を投じたのは、ゲッペルスの妻が去り際に発する台詞である。彼らのやった非人道的な行為を支えていたものがなんだったのか、それをたったひとことであらわした台詞。

何が悪い、ということではなく、それが現に起こった出来事だということ、それを引き受け、考えることをやめないこと。わからなくても、考えることをやめないこと。

シアターガイドの対談を読んでそうか!と思ったのは、この芝居にはそれぞれつかこうへい劇団、自由劇場夢の遊眠社の看板俳優が顔を揃えているってこと。風間さん、三谷さんの描く作品にはこういう人物像と言うのは多くいますが、初顔合わせと思えないほどその役にずっぱりはまってらっしゃって見事でした。いやあうまい、もう、舌をまくほど。段田さんも三谷作品は初なんですよね、なんか意外な感じ。なんかもうね、段田さんに「うまい」とかいうのももうどうかって感じなんですけど、でもほんとに絶妙ですよなにもかもが。「影のうすい、占い好き」な気のいいたたずまいと、舞台上の空気を一気に氷点下にするあのトーンの切り替え。今井さんのケストナーもシニカルな青年文士がはまってました。レニをやったのが新妻聖子さんだと終演後パンフを見るまで気がつかなくてすいませんすいません。いやあよかったです、ストレートプレイでもこんなに見せるとは。小林隆さんの落ち着いた佇まいもよかった。しかし、コンフィダントのときも思いましたけど、三谷さんはサンシャインボーイズのメンバーにほんとうにいい役をあてますよね。フリッツが老俳優の怪我の手当てをしながら、所属の部隊を「99連隊です」と答えるのは昔のTSBの作品名からなんでしょう、きっと。

しかし、小日向文世という役者さんは不思議な役者だなあとおもいます。どこからどうみても、気のいい穏やかなおじさんだし、実際そういう役をふられることが多いとおもうのに、同時にあの冷徹さ、クールさ、傲慢さ、恐怖心さえ抱かせる冷酷さをにじませることができる。若い女優にいれあげ、いちゃいちゃと彼女の足をうっとり眺める彼、妻と一緒におどけた歌を歌おうとする彼、映画の話を一心に聴く彼、その姿が、まるでオセロの石のように反転した姿をみせる。あの声、あの仕草、終始足を引きずりながらも優雅さを失わないたたずまい。はー。好きだ。好きです!(唐突な告白禁止

私が見た19日のソワレ、開演直前に地震がありました。客席が一瞬ざわめき、わたしも頭上の照明を思わず見上げましたが誰一人あわてて席を立つこともなく、約10分押しで無事開演。開演前に、三谷さんからご挨拶がありました(その中で先ほどの地震についての説明も)。地震後のすべての公演で前説をされていらっしゃるのでしょうか。三谷さんからのご挨拶の内容は、今日こちらのblogに全文がアップされています。ぜひご一読を。個人的なことをいえば、わたしも三谷さん同様、まちがっていることなんて何もないと思います。やるのも勇気、やめるのもまた、勇気です。同様に、劇場に出かけるのも勇気、出かけないのもまた、勇気だと思っています。だからこれは本当に個人的な気持ちでしかありませんが、わたしはこの三谷さんの挨拶で、そこに役者がいて、観客がいて、物語があれば、芝居を上演することができると言って下さったその言葉に、自分が演劇というものを好きでいてよかったと心から思いましたし、やるという勇気を見せてくださったことに、心から感謝したい、そう思いました。

これからのことは誰にもわかりません。けれど、わたしはできうる限り、行ける環境にあるのであれば、劇場に行くという選択をする観客でいたい。そう思っています。