「ヒッキー・ソトニデテミターノ」

  • パルコ劇場 A列5番
  • 作・演出 岩井秀人

気になるなあ、と思いつつ遠征の計画がうまくはまらず、今回は見送りかなーと思ってました。開幕してからの漏れ聞こえてくる評判に一度心が揺れたものの「いやいやたまには我慢というものを覚えなければ」とスルー、しかし結局のところ我慢、しきれなかったわたしだ。そして、自分が我慢できない性格で本当によかったと今は思っています。

前段となる「ヒッキー・カンクーントルネード」は未見。今回はその後日譚、というところに時系列としては位置する話で、引きこもりだった登美男は「出張お兄さん」となり今現在引きこもっている人たちの家を訪問する。目的は彼らを「外に出す」こと。かつて自分がそうだったように。

20年間引きこもりを続けた和夫と、8年間引きこもり家族に暴力行為を振るうようになっていた太郎が「出張お兄さん」の寮に入所して、登美男と三人で語るシーンがある。和夫は自分を訪問していた出張お姉さんの黒木と、外に出たときのマニュアルを繰り返しなぞっていたが、和夫から見たらまだ「ちゃんとできていない」登美男が外に出ていることに影響を受けたと話す。

和夫の「きのこたち」の話を聞きながら、穂村弘さんのエッセイでスターバックスでうまく注文できない話があったことを思い出していた。ラーメンズでもあったけれど、和夫のいう「世界のあらゆるイレギュラー」の話は私にとっても、誰にとっても他人事ではない話だよなあと思った。肥大した自意識といわれてしまえばそれまでかもしれないけれど、たとえばさ、コールドストーンクリームマリーでアイスクリームを頼んだとするじゃない、あのややこしいフレーバーの名前、そこからサイズといれものを選んで、やっと終わったと思ったら店員さんが突然歌いだす。あれにどう対応するのが「正解」なのか私はいまだにわからない。わかっているのは正解なんて知らなくてもアイスを買えるってことだけだ。でも大なり小なり、そういったイレギュラーとみんなどうやって折り合いをつけてるのか、それは誰も教えてくれない、実際のところ。

あの窓際でみちのくプロレスを歓迎する花火を見ながら妹と会話するシーンは「カンクーントルネード」のシーンそのまんまなんだろうか。「お前みちのくプロレスに誰がいるのか知ってるのかよ」「知らないよ!」「ばぁか、そんなんじゃなあ…」「そんなの、これから知ればいいことでしょうが!」って妹が言い放つあの台詞、泣かずにはいられなかった。そのあとまったく同じシーンで登美男が言う、「ちがう、俺は窓から落ちたんじゃない、出て行ったんだ、それを繰り返せばいいだけなんだ」。そう、外に出てそれで終わりじゃない。外に出続けなければならない。窓から落ちるほうじゃない道を、選び続けなければいけない。

あのシーンで登美男が「電話切らないで」という、あのときの彼にはあの電話が、一本の蜘蛛の糸ようだったのかもしれないと思った。

かつて鴻上さんは「外出するひきこもり」という言葉を使ったけれど、たとえ実際に外に出ていても「自分の世界から出ていない」ことは往々にしてあるんじゃないかと思う。外に出ることがいいことって、どうして言えるの、と黒木が登美男に問いかけ、登美男はそれに「そのほうが幸福になれる可能性が高くなるからだ」と答える。でもなんの保証もないでしょ、と黒木は返す。そうだ。保証はない。家の中は安全だ。自分の世界は安全だ。それでも?それでも、と自分は言い続けることができるだろうか。自信はない。世界に何があるか知らないときよりも、何があるかを知ってからのほうがこわいことだってある。それでも、「そんなの、これから知ればいいことでしょうが!」って、世界のイレギュラーに対して言い放つ気持ちは持っていたい。

太郎の母親が和夫の母親に対して言う、親切心に満ちたぞっとする台詞、キツかったなー。和夫の母親の「最後のほうは、人生らしくなっていたと思います」という台詞もすごかった。心にガシガシ突き刺さる台詞がほんとに多くて、見ながらへろへろになってしまったよ。

役者陣のすばらしさは、もうあえて語る必要もないぐらいだが、淡々とただ「話す」だけであそこまで人を惹きつける古舘寛治さんのすごさ、そして吹越さんの素晴らしさは特筆ものだった。吹越さんは舞台の上でまさに圧倒的で、あそこまで自分の肉体を自由にできるものなのか、と思わされる瞬間がいくつもあった。

途中、何度か涙止まらず、終演後も何か熱いものを飲み込んだような状態で劇場を出た。ちょっと背中を押されたら、その場でわんわん泣いてしまいそうな気持ちだった。そんなの、これから知ればいいことでしょうが、という言葉が、いつまでもいつまでも頭を回り続けた。