「歌舞伎NEXT 阿弖流為」

13年前に上演された「アテルイ」をいつか歌舞伎役者で、というのは染五郎さん自身もずっと念願だったと思いますが、私にとってもこれは念願でした。情報解禁になったときからテンションストップ高でしたし、相当なお値段のするチケット代をものともせずチケットを押さえにかかりました。中島かずきさんの手がけられた脚本の中でもきわめてよくできた物語のうちの1本だと思っていますし、役者はもう間違いない。普通に足し算したって面白いものが見られるだろう、という期待感はありました。

けれど、もし普通の足し算をしただけの舞台だったら、きっと満足しないだろうなとも思っていました。だからこそ、観終わったあとのあの興奮、待っていたものはこれだ!と思える舞台の生まれる瞬間に今まさに立ち会えた幸福感、ほんと、これがあるから劇場通いはやめられない。

ご覧になった多くのかたが言及されていると思いますが、まず脚本の改訂の見事さをなによりも挙げたい。初演との一番の違いは鈴鹿/釼明丸の役が消え、立烏帽子と鈴鹿一人二役となった点。これが、一人二役であることにちゃんと意味があり、しかも物語の流れは初演よりも格段にいいという、中島先生!あなたが神か!とわたしは思いました。さらに、田村麻呂と阿弖流為はこの物語で常に対となる存在なんですけど、初演は田村麻呂と釼明丸(鈴鹿)のコンビ、阿弖流為と立烏帽子のコンビでの動きが多かったんですよ。これが、後半になればなるほど阿弖流為側にドラマの比重が移ってしまう(すでにご覧頂いた方はご存知の通り、立烏帽子にはあの展開が待ってますので)。そのパワーバランスをきっちり直してきたあたりもほんと感服の一語です。

言ってみればこれは「クニづくり」の物語でもあって、まさにこの2015年に奇妙なほどシンクロしている物語であることに少しふるえる思いがいたしました。

白き神の獣との戦いぶりをああやって見せるあたりは、普段新感線でやりそうでやらないところですよね。立ち回りの随所にだんまりのような動きを入れたり、殺陣も普通の手から歌舞伎の型、そしてまた通常の殺陣に戻すといったような工夫も面白かったです。ああして見ると、普段歌舞伎で見ている型が、普通の殺陣をいわばクローズアップして見せるための手段なのだなあということも実感しますね。この緩、急がすごく気持ちいい。そしてなんと言っても附け打ちさん!!この附け打ちの効果の大きさ絶大でしたし、ちょこちょこと舞台上の附け打ちさんをいじるあたりもよかった。

いのうえさんはよく「漫画のような動きを要求する」と言われますが、その漫画のような動き、をもっともハイレベルに舞台上で見せられる集団が歌舞伎役者なんじゃないかと思います。ひとつひとつの所作、それを支える体幹、舞台上にいる者すみずみまでにそれが行き渡っていることがこんなにも気持ちいいとは!!

初日はロビーに背広を着たえらいさんと思われる方々がたむろしていたり、カメラが来ていたりといつもとは違う雰囲気も開演前はありました。しかし、その方々も終演後のあの熱いスタオベには胸をなで下ろされたのではないでしょうか。染五郎さんが、今日ここに歌舞伎NEXTが生まれました、皆さんはその生き証人です、そのことを誇りに思っていただけるよう残りの日程をつとめます、と仰っていてまた会場万雷の拍手。いや、なんつーのか、ワー、バラバラって拍手じゃなくて、もう拍手がうねってたもんね。この興奮をこの拍手にしかこめられない!!!みたいな熱さがありました。

7月東京新橋に続いて、10月松竹座でも上演予定です。是非!後悔させません!!!

って、ここで感想終わると見せかけてまだ続きます。だって役者さんの感想全然書いてないから!なげえ!なげえよ!たたむよ!!以下ネタバレ注意だよ!!

今回の舞台が発表になって、勘九郎さんが田村麻呂をやるってわかって、もちろん嬉しかったんだけど、初演の筋書きのまんまを想像すると、勘九郎さんファンとしては発火点が低いって感じもあったんですよね。初演は堤さんで、堤さんだから成立させられたところもあったと思いますし。いやしかし、あの両花の名乗りは文句なくかっこいいし、大丈夫だ、大丈夫、勘九郎さんがやることを踏まえて中島さんが改訂すると仰ってたし大丈夫…と自分に言い聞かせつつの初日でした。

大丈夫どころじゃなかった。
幕が開くとそこはどこ押しても正解の萌えボタンが花開く魔法の国でした(まがお)

今回の筋書きでは、阿弖流為と田村麻呂は、もちろんその生き様への共感もそうですけど、彼らは何よりもその孤独さが共通してるんですよ。それぞれのクニへの思い、それだけが彼らの依って立つものとなっている。田村麻呂側に稀継とのドラマを書き加え、一種の分断を与えたことでその孤独さがきちんとドラマとして立っているんですよね。だからこそ、お互いが相手に寄せる想いがずっしりと応えてくる。最後には、彼らにはもう、お互いしかないと言っていい(そもそも、『惜しいなあ、お前はなんで蝦夷なんだ』『ならなんでお前は大和だ』の台詞がさあ、もう有名なアレでしょ、アレ!)。けれど、わかりあえるというだけではない、この好敵手と、すべてを賭けて命のやりとりをしてみたいという、民族や出自を超えて燃え上がる思いも確かにある。

そんなねえ、かつての親友だったり同志だったりが袂を分かって戦うとかいうシチュエーションが三度の飯より好きな私が食いつかないわけある!?いやない!!もう、途中で、あっこれアカン、萌えでしぬやつ、と私は思いました。そもそも、田村麻呂が稀継をちょう慕って懐いているあたりから予感はぷんぷんしてましたし、案の定裏切られるシーンで「キターーー!!」って快哉を(心の中で)あげましたし(鬼か!)、あの稀継に「ここまできてもまだ儂を叔父上と呼んでくれるか」とか言われるとこかわいそうすぎてゾクゾクしたし(鬼かパート2)、そう、かわいそうな勘九郎さんがこれまた三度の飯より好きなわたし!あと、衣装が軽くマントのときがあって、もうやめて!いややめないで!みたいな事態に勝手に陥りましたとも。

明るくて、真っ直ぐで、義はいい、けれど大義となると途端にうさんくさい、と言い放つ、まさにすっきりと清いひとりの正しい青年が、信じているものすべてに足を掬われるという、このドラマを田村麻呂に与えてくれたというその一点だけで、私はもう中島先生に足を向けて寝られません!!

それで、私はここまで見て、あっなるほど、これで傷ついたところを鈴鹿ちゅーか立烏帽子に助けられるのね(じゃないと勘九郎さんと七之助さんがほぼ絡まずに物語が展開してしまうから)、それでもって何かしら二人の間にドラマがあるのね、と予想して、それは半分当たったんだけど半分はずれた。ここほんと…膝を打ったよ!そうかそういう意味での一人二役!っていう。すべてを喪ってものを見る力さえなくした田村麻呂が、本物の鈴鹿のやさしさにふれて癒される、それが納得いくからこそのこのあとの展開ですよ。あの包帯を落とされてからの芝居はまさに歌舞伎役者の真骨頂、もうあそこだけ何遍でも見ていたいもの!

勘九郎さん、すばらしい身体能力で、殺陣という殺陣すべてがかっちり決まっているのもさすがだし、あの低い重心での構えの格好良さプライスレスだし、釼明丸がいないことで田村麻呂の殺陣が俄然ふえているのも結果私にとっては最高級にありがとうだし、この改訂田村麻呂にばっか美味しくない?大丈夫?とか思ったけどそれはわたしの目が偏っているからですねオホホホ。

あれっ勘九郎さんだけでこんなに書いてて大丈夫ですかコレ。ま、いいか!

七之助さん立烏帽子。ね、もう、私、立烏帽子、大好きですから。四半世紀新感線見てきて、好きな女性キャラナンバー1ですから。絶対イイに決まってる!!と思っていて、ただ「私の好きなあのシーンが変わってたらやだな…」ってとこだけでした、不安は。これがねえもう、中島先生!ありがとう!そのシーン一言一句台詞変わってなかった!!「私は森であり、山であり、この日高見の国である」から始まる台詞ね!!「いずれ我が魂は、あなたのもとへゆく」までの、あのシーンね!!!ここも、鈴鹿と立烏帽子を一人二役にしたうえで、鈴鹿という女性をあの配置にしたことがこの場面への繋がりをむっちゃスムーズにしてるんですよ。七之助さん、終始立烏帽子としての振る舞いなんだけど、それでもところどころ「人ならざるもの」の空気をちゃんと匂わせる(それも決してわざとらしくない)のが、立烏帽子の正体、果たして、のところで俄然生きてくるんだよなあ!

阿弖流為を神としてなのか、それとも女としてなのか、寵愛したアラハバキが、立烏帽子の中からだんだんと姿を現すところ、あの声のトーン、姿勢、「堕ちたのだわたしの力は…!」と嘆く悲哀、その愛した男がまたふたたび、自分に刃を向ける慟哭…。あの、「口ばっかり…」は新感線史上最高のラブシーンのひとつと主張して憚らないわたしですが、七之助さんの美しさ切なさがそれに拍車をかけるかける。ひとつだけリクエストさせてもらえるなら、最後烏帽子を落とすことはできないでしょうか?っていう主に小道具さん側へのリクエストぐらいです。それにしても、想い合った者同士が殺し合う、という展開がほんと好きなんだねわたし!ごめんね!

鈴鹿のときの楚々とした振る舞いの可愛さも最高ですし、七之助さんの殺陣の確かさ速さ、纏った衣装がひらひらとなびくさま、これぞ目の正月かと思いました。あと、七之助さんはホントにツッコミのキレがいい!初日とは思えない完成度の立烏帽子、さすがです!

主役の染さまは最後にするとして、まずは亀蔵さんかなー!二幕のドラマをぐっと押し上げたのはやっぱり蛮甲じゃないでしょうか。亀蔵さん、筋書きのコメントで「(今回の舞台に)呼ばれると思っていました」っていうのがもうカッコイイ。亀蔵さんは今までもこうした新しいチャレンジをする舞台で数々爪痕を残されてきてますが、今回もほんと見事な仕事師ぶりでした。何がすごいって、台詞や芝居の確かさはもちろんですが、全部の笑いを外さないってところです。そこ?と言うなかれ。そこです。舞台のうえで全部の笑いを外さずにもっていくってのがどれだけ至難の技か。しかも、台詞はちゃんと歌舞伎の呼吸なんですよ。ことさら早くしたりしてない。でも動きの一つ一つ、どんな隙間も見逃さずにキャラを立てていくさまは見事としか言い様ありません。だからこそ、熊子という飛び道具をちゃんと舞台に馴染ませられるし、ふたり(ひとりと一匹?)は観客から愛されるし、そんな蛮甲だからこそ、最後のあのドラマが胸を打つんですよね…!

御霊御前の萬次郎さんと稀継の彌十郎さんもほんと素晴らしかった…!萬次郎さんも歌舞伎の呼吸そのまんま、だけどというのかだからこそというのか、立烏帽子とは違う意味での「尋常ならざるもの」感すごかった。ふとした拍子に地の底から響くような声色で聞こえてくるからもうもうもう。この二人のラインが厳然とあることがやっぱりドラマを俄然面白くするよね。ほんと悪役が良くないと物語は面白くない。

染五郎さん。あのね、初日ほんとに台詞迷子というか、忘れてる!って感じじゃないんだけどかなりあやしい場面があって、やっぱり段取りも台詞も格段に多いし、たいへんだよな…みたいなことを思ったりしてたのね。でもそれも幕間までだった。二幕になったら、そういうことを吹っ飛ばす勢いで物語がうねり出すし、そこで舞台を背負って立つ染五郎さんの格好良さにふるえるばかりだったよ。阿弖流為の気迫と染五郎さん自身の気迫が重なって見えるような気がして、もうわけもわからず涙ぐんだ俺だよ。

阿弖流為もやっぱり、ほんとに孤独で、愛したと思った女は今は亡く、自分という存在が国を危うくすることに怯え、神さえも殺してただひとり立っている、だからこそ、あの剣を携えて田村麻呂が自分のところへ来てくれたこと、その剣でもってひとりの男として戦うことができることが、どんなにありがたかったかって思うのよ。あの、わざと、斬られてしまうじゃない。あのときの染五郎さんの表情も、勘九郎さんの表情も、ほんっと切ない。

染五郎さんとしてはね、きっともうちょっとギャグを入れられないか…とか考えてそうな気はするけれど(勘九郎さんはわりとコミカルなシーンもあるだけに)、それも公演後半のお楽しみかなーなんて思ったりしつつ。

新悟くんの阿毛斗のすっきりした佇まいよかったなー。飛連通・翔連通の田村麻呂さま大好き!なわんこっこ感もかわゆかった。というかほんとすみずみまで役者がよかった。皆筋書きで、いのうえさんのつけた型でやらせてもらっている、とコメントされていたけれど、その型をちゃんと「観客に届くもの」にしていることに、それが舞台に行き渡っていることに感動しました。

転換のタイミングとか、音楽とか、試行錯誤や模索のあとが見られる部分もありつつも、最終的にはそれらすべてをのみこんでしまう物語の力、役者の力、演劇というそのものの力を実感できる4時間。いやー、最高に満足しました!!!