歌舞伎NEXT「阿弖流為」、無事大千秋楽おつかれさまでした!


終わっちゃいました、と舞台のうえであのひとは言った。

そう、終わってしまいました、歌舞伎NEXT「阿弖流為」。結局、新橋で4回、松竹座で4回拝見しましたが、なんで関西住みなのに東京と大阪が同じ回数なんだヨ!って感じですけどそれはほら、松竹座はね、期間が短かったから!

個人的にひとつの演目をここまでくり返し観たのは初めてです。観劇というものに手を染めた当初の、同じ芝居に通い詰めることを決してヨシとしなかった演出家のイズムが叩き込まれているということと、私自身がすでに観た物語に対して非常に飽きやすい性格だということもあって、今までの最高リピート回数はそれでも4回だったのに、いきなりの倍増。なんでしょう。これを箍がはずれた状態って言うんでしょうか。

大阪の初日は回り舞台のセットが大道具に引っかかって(阿弖流為!コールで回転していくところね。もう、コールしとる場合かっていう。)「バリバリバリィィ!」と確実にたたごとじゃない!という音が聞こえたり、随鏡さまの扇がバラバラになったり、染さまが舞台上で滑ったり、ここぞ!という場面で染さまのマイクの音がぼわんぼわんになったりと、ザ・初日!というようなトラブルにも見舞われつつの幕開けでしたが、しかしさすがに新橋で培った土台が確とある、ということを実感できた舞台でもありました。あと、近い、近いよ!熊子とか、龍神とか、槍とか刀とかマントとかが座席によっては飛び出してくる3D仕様。いやもとから立体ではあるのでこれが噂の4DX?何言ってんの私?

随鏡の屋敷での大見得合戦、あそこの阿弖流為の、「今、見得を、してます!」的な大盤振る舞いもすごいし、「俺もやらせてもらう」の田村麻呂は、毎回「大臣禅師みずからが」の「が」の音がほんっと勘三郎さんにそっくりで、私の中で最高にお父様を思い出させる瞬間でありました。「サガだ」のあとヨヨとなきくずれる(真似をする)阿弖流為&田村麻呂のリアクションも好きだったなー。

そういえば随鏡さまは、松竹座では初日から田村麻呂に殴られるところで頭巾が吹っ飛ぶ仕様でしたね。そして随鏡さまの背中に向かって田村麻呂が「オイコラ待たんかこのハゲ」っていう輩台詞が追加されてた…この舌巻くべらんめえの感じ…キライじゃない!どころかスキ!でもって、新橋の千秋楽でもそうだったけど、松竹座も楽日だけ随鏡さま「ええい、やっちゃいなさい!」千秋楽限定で現れる随鏡のオネエぶり…貴重なものをみた(かもしれない)。

千秋楽限定といえば、黒縄さまも松竹座の千秋楽で、回り舞台でツケが入らぬうちから「おまえら昼飯なに食った?おれは中央軒の皿うどん」とまさかのネタぶっこみをしてきて、それを花道で聴きつつ神妙な顔でいなければならない勘九郎さん、その腹いせか「なんなんですかあの五月人形は」のあと「しかも皿うどんくせえし!」とささやかな復讐をしていたのであった。でも皿うどんってそんなにくさくないとおもうの勘ちゃん。黒縄さまは松竹座限定で「一粒三百里!」のグリコネタも入れ込んでくださってましたね。

「鮭も捕ってくれる」からのシャケリレー、蛮甲が道頓堀川に帰すやつ、阿弖流為がさけ(シャケ)ぶやつ、そして五郎丸パターンを見たかな。亀蔵さんとか勘九郎さんて、この手の流行を取り入れるのがほんとはやい!五郎丸パターンも、最後は附け打ちさんが審判の笛まで吹いて効果音もあって、どこまで細部に命かけとんねん感がすごかったです。遊びに手を抜かないにも保土ヶ谷区。しかし、私が観た回は一貫して七之助さんが受け取り拒否の姿勢を断固示していたのが面白かったです。

これは私の個人的な感覚だけど、蛮甲みたいなキャラクターって、関西人は大好きなんじゃないかと思うんですよね。黒縄を前に寝返るところも、刀を二度構え直して最終的に柄を差し出す、という一連の動きがすごくウケていた。あと、阿弖流為に「まーたそうやっていいカッコするー!」っていうとこも。「ええかっこしい」にどこか警戒感をもつ関西の気風ってあると思うんですが、蛮甲のあのひねくれ具合と熊子に見せる情のバランス、そして最後には超弩級にカッコイイシーンが待っているという、そりゃ好きにならないわけないでしょ。私ももともと蛮甲大好きですけど、ほんと楽日もその前も、熊子との別れの場面で一気に涙腺がぶっこわれてしまったものなあ。

みんなに愛され熊子は附け打ちさんにジャックオランタンをもらったり花束をもらったり、そして大千秋楽にはひとりカテコがあったりと、紛れもなく愛されまくっておりました。そうそう、松竹座では「俺のヨメだ」できらーんと熊子の左手に指輪が光る仕様。こまけえ!

最初に8回観たって書いたんですけど、だいたいの席位置を図にしてみたんですよ(ヒマか!)

赤いところが私が座ったとこ。どう?けっこうまんべんなくなくない?いやそれはどうでもいい、私が言いたいのはこれだけ左右上下前後異なるところで観ても、どの位置にもその位置ならではの楽しさがあったってことなんです。今回、両花道だったということもあり、複数回ご覧になる方の中では本花脇がいい、いや仮花はこれがある、2階はあれが、1階の後ろにはこれが…といろんな感想や情報交換が飛び交っていました。もちろん、2等や3等でご覧になった方もたくさん。そしてこの、「どこから観ても楽しめる」ということこそ、演出家の手腕に他ならないと私は強く主張したい。人の出ハケのみならず、立ち位置のすべてをいのうえさんがすべて事細かに指示しているというのは有名な話ですが、このバランス感覚はまったくもって突出したものだと思います。なにがすごいって、たとえば立烏帽子の見顕しの場面、「誰が演出してもああなるんじゃない?」と思わせるほどに流れが自然なんですよね。誰が演出してもああなる、わけじゃない。でもそう思わせるのはそれが物語の流れを殺していないから、客の感情に沿ってるから。これは今に始まったことではありませんが、ここぞというところでの劇的な構図のうまさ美しさ、どハマリ具合は、さすがいのうえさんだと思わせるものでした。

立烏帽子の見顕し。個人的に、この「阿弖流為」を、いや新感線の「アテルイ」もそうですが、この物語を傑作たらしめているのはこの立烏帽子の正体、実は、の展開があるからこそだと私は思っています。今までことあるごとに、歴代の新感線の女性キャラクターのなかで立烏帽子が一番すき、新感線史上最高のラブシーンだと主張してきましたが、もうねほんと…言葉にならない。いや、blogで書いておいて言葉にならないなんてのは逃げ以外のなにものでもないですが、でもあれを、どうやって言葉にしろというのか?と思ってしまう。特に千秋楽の七之助さんの凄まじさ、「我が名を問うか」からの声、アラハバキ…!と阿弖流為に呼ばれたあとの開眼、田村麻呂を斬る、和睦はさせぬ、と神の力を振りかざす、この世のものにあらざる感、浴びせた太刀を避けられて、ハアッ!と息を吐くように唸った壮絶な美しさ…ぜんぶをとっておきたい、自分が長年見続けてきた劇団の、なかでも一番好きな台詞を、こんな風に具現化して目の前で見せてもらっているこの今を、ぜんぶをどうにかして刻み込めないものか、と考えてしまうほどに。ほんとうに奇跡みたいな時間だったし、最後に阿弖流為の太刀を浴びて沈んでいく彼女のせつなさに泣きたいような、こんなすごいものを見せてもらえたことに喜びたいような、そしてこれがこのひとときだけのものであることに、その「演劇」というものの過酷な贅沢さに、涙せずにはいられませんでした。

私はこの「阿弖流為」で勘九郎さんが演じた田村麻呂がもー好きで好きで、ほんとこの芝居の田村麻呂を全編パラパラ漫画にしてほしい…とか訳のわからない欲望を抱いてしまうほどでしたが、正直かっこよかったシーンを書いていたらこのエントリ永劫書き終わらないのでそれはまた別にしますね(するんかい!)。そういえば、蟄居された田村麻呂のところに飛連翔連が来るところ、大阪の中日ぐらいに見た時はなんかちょっと鼻歌らしきものまで歌ってた記憶があるんですけど、楽前に見たらぐっとシリアスになっていたし口調もぜんぜんちがった。なんだろう、そんな暢気にしてちゃダメとかダメ出しがあったのでしょうか(笑)

以前東京公演の感想にも書きましたが、今回の歌舞伎NEXT「阿弖流為」における大きな改訂のひとつはもちろん、立烏帽子/鈴鹿の存在。そしてもうひとつが、田村麻呂に「大和」との一種の分断を与えたことだと私は思ってるんですが、それによって最後の最期には、阿弖流為と田村麻呂にはもう、お互いしかいない、となる構図がほんとうに大好きです。

戦神として刀を振るう阿弖流為のもとに、蝦夷の両刃の剣を持って田村麻呂が現れる、あのシーンの阿弖流為の顔を見るだけで、いつも泣きそうになりました。まるで子どもにかえったような顔。その男はおれと同じ、ただのひとです、と言う田村麻呂は、その両刃の剣を渡す一瞬前にふと手を引き、「大和にも男はいる。それだけは知ってくれ」と阿弖流為を見上げて言う。

千秋楽、この場面のふたりを見ていて、壮絶な戦いであるにもかかわらず、彼らはどこかうれしそうに見える、この命のやりとりが、できればいつまでも続けばいい、と思っているように見える、それがこのふたりを演じている染五郎さんと勘九郎さんの思いでもあるようにおもえて、一手一手を交わすたびに言葉にならない声を発してやりあうふたりを、いつまでも見ていたいと思わずにはいられませんでした。

最後の一手、新橋で見た時よりも、それを受ける阿弖流為の手がはっきりと止まり、さらに間をおいて田村麻呂がなぎ払うので、そこまではっきりと手を止めてみせるのはなぜなんだろう?と思っていたのですが、楽前でようやく気がつきました。あれは時間を拡大して見せてるんですね。太刀筋のスピードは落ちていないのでスローモーションとも違うのですが、阿弖流為を斬ったあと、田村麻呂は斬った自分の右手をまず信じられない、というような顔で一瞥し、阿弖流為を振り返る。右手は払った刀の重力で引っ張られるが、田村麻呂は左手を阿弖流為にさしのべる。もちろん手は届かない。時間がほどけ、阿弖流為はその場に頽れる。

そこからカーテンコールに至るまでは、いやカーテンコールになってからも、毎回その余韻のようなものがひたひたと押し寄せるあまり、夢うつつ、みたいな心持ちだった私ですが、千秋楽のカーテンコールで本花道と仮花道を練り歩いてくださった染五郎さんと勘九郎さんが、舞台のうえでなにやら楽しげに話しては笑っている姿を見て、今度は阿弖流為と田村麻呂がそこに重なって見えてまた泣けるという…もうどうしようもないほど思い入れてしまった私でした。

しかし、あそこで最後にご兄弟の手を取って、「来週からは、平成中村座です!」って言ってくださる染五郎さんのやさしさ、ほんとプライスレスですよね…そのときのご兄弟の顔がまたよかった!

新感線でやった「アテルイ」を歌舞伎役者だけで、というお話が出たのはずいぶん前だと記憶しています(すくなくとも2011年よりは前、と自分のblogで確認)。染五郎さんは今回、この舞台をどうしても勘九郎さんと七之助さんでやりたい、と仰ってくださっていたとのことで、もう、感謝しかない。そもそも、あの「アテルイ」が生まれたのも、染五郎さんのアイデアありきだったわけで、それをこうして、歌舞伎NEXTとして生まれ変わらせる、それだけのものを作り上げるその情熱のすごさよ。

大阪での染五郎さん、初日はいろいろなトラブルがあったこともあり「無事にかどうかはわかりませんがとにかく幕が開きました」と仰ってはいたものの、全体的に後半になればなるほどのびのびと、そして阿弖流為という役を大きく大きく演じられていたなと思いました。染五郎さんの声にはマジックというのか、わけもわからずに心を震わせる力があるとおもってるんですけど、最後にはそのマジックを浴びっぱなしのしてやられっぱなしだったなあとしみじみ思います。

終わっちゃいました、と舞台のうえで染五郎さんは言い、終わっちゃった、と舞台のしたで私は思いました。7月5日に新橋で幕が開いてから、ずっとずっと楽しくて、自分が観ていないときでもその感想を探して読んだり、進化して深化していくさまを思い描いたりしていて、新橋がおわったあとも松竹座で幕が開くのが楽しみで、何度観てもそのたびに違う発見があったり、違う喜びがあって、こんなに楽しませてもらって、この楽しさをどうやってお返ししたらいいのかわからない。でも、これは私の願望も含めた見方だけど、舞台にいるみなさんもとても楽しんでいるように見えました。そうだといいなと心から思います。わたしたちのこの拍手が、熱狂が、この舞台をつくりあげたすべてのものに報いるものであったことを、願わずにはいられません。