「平成中村座 十一月大歌舞伎 夜の部」

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十月に引き続き、十一月は平成中村座での勘三郎さん追善興行。「弥栄芝居賑」。一座打ち揃ってご挨拶。劇中で口上もありました。勘太郎くん長三郎くんも勘九郎さんと一緒に出てきてご挨拶したんだけど、正座するときに勘太郎くんがお父さんとまったく同じことをしようとするんですよ、お父さんが扇子を持ち替えたら持ち替える、袴を直したら自分も直す、いやもう顔から「おーわんだいすき」オーラが出てて見てて照れた。わしが。花道での女伊達と男伊達のツラネもよかったです、花道見てそれを見ている勘九郎さんを見て花道見て勘九郎さん見て…を繰り返していたので首が痛い。あと児太郎さん、なんか一気に貫禄が備わってきた。器がぐんぐん大きくなってる感。

このあとの演出について以下ネタバレしますのでまだ見てない!という方はここまで!

で、そのあと場内暗くなり、勘三郎さんの映像が流れて、最後は揚幕が開いて照明が花道を照らして、舞台がパッと明るくなり…という趣向がありました。大阪の平成中村座のときも勘三郎さんの映像を映すのやりましたね(こういう形ではなかったが)。私は基本的に舞台の上で映像を使用するということに必要以上に点が辛いので、やっぱりどうにもどうなのかなあこれは、という感じが否めず。見せる方の気持ちを慮らないわけではないが、しかしどうしてもやりたいならちゃんとやれ、とも思うのであった。最後の演出につなげるなら、映像そのものにも演出が、つまるところ編集が必要でしょうと思うのだ。勘三郎さんの花道を使った芝居だけをつなげるとか、何らかの工夫がほしい。芝居にも間が重要なように、それを客に見せるのなら映像にだってリズムとテンポがあってしかるべきだと思う。俊寛の「未来で」、鼠小僧の「大事なのは、いつも誰かが見ていてくれてる、そう思う心だ」、研辰の「生きてえ生きてえ、死にたくねえ」、そりゃ、泣きます、泣きますが、それは家でビデオを見てたって出る涙なので、私が劇場に求めているものはそういうものではないのだなあという。

舞鶴五條橋」。初見です!十七世勘三郎のために作られた舞踊作品だそう。なんと、勘太郎くんが牛若丸で文字通りの主役、出ずっぱり、いやはやすごいね。第三場が五條橋で勘九郎さんの弁慶が出てくるんだけど、そこでのふたりの踊り、勘太郎くんはまさに「ひたむき」って言葉を具現化したような必死さ、健気さがあふれ出てたし、なによりも「子どもがやってみてる」というのではなく「一人の役者としてやるべきことをやる」ターンにあの歳で入ってるのがすげえなと心底思いました。勘九郎さんの弁慶、最初から最後までカッコイイしか詰まってない幕の内弁当もかくやであって、またもや「これ永遠に見てられるな…」っていう例の病気発動。花道での引っ込み、すわ飛び六方か!と思わせてからの展開になに~~~この寸止め海峡なに~~~~どういうつもり~~~勘九郎さん「勧進帳やる気ない」とか扇雀さんに言ったらしいけどあなたそんなこと言っといてこれってもう包囲網待ったなしですよわかってる~~~~???と言いたい私がいました。

仮名手本忠臣蔵」七段目、祇園一力茶屋の場。芝翫さんの由良之助、勘九郎さんの平右衛門、七之助さんのおかる。いやはやとってもよかったです!!七段目は芝居としても好きだし、勘九郎さん七之助さんご兄弟の持ち味が存分に発揮されたいい芝居がつまっていて本当に見ごたえありました!

ことにおかるの七之助さんがすばらしくて、由良之助とのじゃらつきでも、そのあとの平右衛門とのやりとりでも、どこかまだ根に純なところのある「むすめ」の気配が感じられて、兄にふるさとの両親と、自分の夫の様子を尋ねるところ、まさに「何にも知らぬ」そのさまに胸が締め付けられるし、いよいよ勘平の身に起きたことを知ったその瞬間の、あの音のない、ぜんぶが彼女のからだから抜け落ちていくような衝撃が見事に舞台のうえで表現されていて、あの瞬間の芝居だけでも涙が出るほどでした。

勘九郎さんの平右衛門、一本気なところだったり妹思いなところだったり、あの身体能力の高さが古典の型の中でしっかり躍動していて、どの場面も見ていて楽しさしかなかったです。自分の命を担保にするような話の展開なのに、兄妹のあたたかさとか可愛らしさが心に残るし、だからこそふたりの決意に泣ける。勘九郎さんがおかるに「わりゃ、なんにもしらねえな」と語る場面で、このひとの芝居味がいっぱいつまったこの台詞、これが聞きたかったんだよなー!って思いました。

芝翫さんの由良之助もよかったなー、やっぱりこの七段目は六段目からたまったフラストレーションが最後の由良之助のせりふで一気に胸が晴れるところなので、そういう「引き受けてくれる」大きさが感じられました。福之助さんの力弥も好演でしたよね。

今年の二月に歌舞伎座仁左衛門さんと玉三郎さんの七段目、おかる平右衛門を観たので、なんというか絶対的正解のあと、ご兄弟のを見たらどういうふうに感じるのかな?って思っていたところもあるんですけど、不思議なほどそういうことを考えず、素直におふたりの芝居を堪能できて、それが本当に心の底から楽しくて、充実した観劇でした。あと、これは二月のときにもおんなじこと思ったんですけど、仮名手本忠臣蔵の通しが見たい。今考えうるベストメンバーですこれが!というやつで、通しを見たい。松竹さんお願いします!

「平成中村座 十一月大歌舞伎 昼の部」

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「実盛物語」。勘九郎さんの実盛見るの二度目だな~いつぶりだっけ~と思ったらもう結構前の話だった(まだ勘太郎さんだった)。時の流れ。そして今回なんと太郎吉に長三郎くん!すごい!
前回拝見したときも「こういうの勘九郎さんぴったりだな」と思った覚えがあるんですが、やっぱり物語るときの所作がほんとにうつくしい。馬上の鷹揚とした佇まいが特によかったです。時を経てさらに大きさを増してるし、長三郎くんとの場面は虚実綯交ぜになるというか、どうしても父子としてのおふたりが重なってより味わい深いし、こういう「役者が透けてみえる」だけでなく「関係性が透けてみえる」からこその面白さは歌舞伎ならではだなあと思います。動くなよ、って頭をぺしってやるとこ、鼻かんであげるとことかによによしちゃったい。長三郎くん、多少のもじもじはあったけどがんばってたほうじゃないかな!(えらそう)
あと最後の「鬢を染めて…」の台詞で「アーッこれ清水邦夫さんの「わが魂は輝く水なり」につながるんだった!そうだったそうだった!」と思い出し、同時に「これ前回観たときもこの台詞で気がついてたよねわたし!」ってなったので脳内メモリ不足がかなり深刻な状況です…。

「近江のお兼」。初見です!長い晒を新体操ばりに使う趣向に富んだ舞踊でした。晒が長く、幅も広いので、それこそ新体操のリボンどころじゃない腕の力がいるだろうし、振り上げたときの七之助さんの腕のふとまし…いやふとくはない、たくましさにおお…なんか見てはいけないものを見ているようで照れるぞ!と思ったり。あとこれはなんといっても高足駄で踊るのがいいですよね。それであの動きっていうのがさすがすぎる!

「狐狸狐狸ばなし」。これもだんだんおなじみになってきましたね!勘三郎さんで1回拝見して、扇雀さんの伊之助はこれで3回目かな?七之助さんのおきわを拝見するのも3回目ですね。もともと伊之助が「上方の女形あがり」という設定なので、扇雀さんほんとハマり役だなー!と観るたび思います。個人的に今回のMVPは又市の虎之介くん!よかった、よかったです。勘九郎さんの又市も好きなんだけど、若干なんかこう…あざとさが残るんですよ(笑)虎之介くんの又市、素直さが前面に出たのが奏功した感じがする。扇雀さんとのやりとりもよかったなー。七之助さんはほんとにコメディセンスのある方なので、物語が反転するたびにどっと笑いをかっさらっていくのがさすがです。あと私は一度でいいので勘九郎さんに重善やってみてほしい。なんでおれはこうモテるのかな~?って言ってみてほしい。ぐふふ。

「ヴェノム」

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スパイダーマンヴィランでお馴染みヴェノムの単独スピンオフ映画。監督はルーベン・フライシャー、主演はトム・ハーディソニーピクチャーズのマーベルキャラクターズユニバースの第1作?なんでしょうか?制作するよんと報じられてからなんだかんだ紆余曲折あった気がしますが無事公開!日本でも公開初週に動員&興収で第1位!おめでとうございます!

新進気鋭、名前の売れた記者・レポーターのエディ・ブロック、恋人は弁護士(with猫)、なにもかも順調…な筈だったのに、ライフ財団の裏の顔をすっぱ抜こうとして干される、恋人にはフラれる(業務メール勝手に開けたんだからこれは当然の報い)、ふんだりけったりなところにライフ財団の女性研究者が「ライフ財団は宇宙から移送してきたシンビオートという生命体を使って人体実験をしている」と助けを求めてきて…という筋書き。

この筋書き部分まではわりと懇切丁寧に描いていて、エディ自身が日常に鬱屈している様子や、彼の小市民ぶり(コンビニ強盗を見ないふりしちゃうけど、街角に立つホームレスには優しい)なんかも短い場面でもよく伝わるので、彼がヴェノムという「力」を得てどう変わるかっていう部分はすごく流れができていると思う。その反面、ライフ財団のほうの書き方がなんつーか、大味きわまれりという感じだったのでちょっとびっくりした。助けを求めてきた女性研究者ほったらかしだしね(そして次のショットじゃ死んでるしね)。シンビオートとの融合がうまくいかないであんなに凄惨な研究を繰り返しているのに、なぜエディは例外?とか、いやまあエディはいいにしても、後半になるにつれあんなくっついたり離れたりして栄養を吸い取られて死ぬ人と俄然平気な人がいるのは、なぜ?とか、あの研究はいったいなんだったんでしょうか。ヴェノムに寄生されていないエディを連れてきて、しかも用なしだとわかったのになぜわざわざ山奥まで連れてって殺す!?みたいなことまで最終的には気になってしまった。

ヴェノムってあのビジュアルからしてもっと内なる悪を呼び覚ます的な存在なのかなと思ったら、お腹を常に空かせている以外はかなりの常識人(人?)だったりして、そうなるとエディとのやりとりが完全に掛け合い漫才というか…夫婦漫才というか…なんしか絶妙にオフビートな会話が繰り広げられるうえに、トムハのなんともいえないファニーさがブレンドされて「ただただかわいいトムハとかわいいヴェノムの珍道中を観ている」感すごかったです。でまたそれが楽しいのでトムハはすごい。最近寡黙なキャラが続いていたのでこういうトーンのトムハを堪能できるという意味でも貴重な映画ですね。ヴェノムが当初の目的(侵略)から地球での共生に転向する理由も「おまえだ、エディ」って言われて、うん?唐突に話変わったな?でもまあトムハだからあるよね!みたいな謎の説得力あった。

ヴェノムはシンビオート界の負け組だったけど、エディと一緒ならなんでできるぜって無敵感出してくるっていうのがほんとかわいい展開すぎる。あと9割9分負けるライオットに立ち向かってバトルになるところ、なるほど確かにごはんですよ感ある…とか思っちゃって申し訳なかった。エディの別れた彼女と今の彼氏のコンビが思いのほかぐいぐいヴェノムに馴染んでるのも面白かったです。

ポストクレジットシーンでカーネイジが出てきたのでおおっと思いつつ、もうひとつはスパイダーヴァースの長めの映像だったので、あっそうきますか!と。しかし気になるのはやっぱりトムホスパイディとの共演が果たして実現するのかどうかっていうところかなー!だってトムホ&トムハでスパイダーマンとヴェノムだよ!夢ふくらむ!

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オチのない話をします。いやオチはいつもない。

ファンといいオタクといい推しといい自担といい贔屓という。「自分が好きになったひと/もの」を表す言葉も細分化してくる今日この頃、ネット記事には「贔屓は人生を照らす灯台」みたいな記事がずんずん出るようになって、いやほんといい時代がきたな!と思います。哲学者の竹田青嗣さんが一般欲望に打ち勝つ固有の欲望を持つのが幸せになる秘訣と仰ってるのを以前テレビで拝見したことがあるけど、風向きがそっちのほうに変わってきたんだな~と。

いやそんなまじめな話じゃないです。そう、要は「じぶんのすきなひと」をどう呼ぶ?どう呼んでる?という話がしたかった。今わたし「じぶんのすきなひと」という言葉を最大公約数的に用いましたけど、まずこの「すきなひと」の解釈からして違うってひとも結構いそうですよね。そこはご勘弁ねがいたい。

「推し」という言葉は「推」が入ってることからして「推薦」って意味を含むと思うんだけど、いやでももともとは「イチ押し」の「押し」なのかな。じゃあなんで「推し」という文字が使われるようになったんだろう。ってそんな語源は紐解きません別に。「推し」、すわりのいい言葉ですよね。広まるのもわかる。「自担」はやはりジャニーズ界隈で広範囲に使用されているという認識があるからか、自分に当てはめるとそれほどしっくりこない。「贔屓」、これはめちゃ好きな言葉だしよく使います。そもそもこの漢字がいいよね。こんなに「貝」いっぱい使って「金に!ものを!いわせる!」感ハンパない。原点にもどって「~さんのファンなんです」これはやっぱり王道、間違いない、同好ではない士とのオフラインの会話ではやっぱりこの単語が一番強いような気がしないでもない。「オタク」(~ヲタとか)も個人的には抵抗ない。

たとえば私は勘九郎さんが大好きなんですけど(知ってた)、この好きはまったくガチ恋というやつには程遠い「好き」で、「勘九郎さんのファンですか?」って聞かれたら「ハイ!」って元気に応えられるし「ご贔屓は誰?」って聞かれたら「勘九郎さんです!」ってこれも元気に答えられる。「推し」は使いたいときと「推し…なのか?」ってときとあってよくわからない。でも銀魂2のムビチケを勘九郎さんの図柄選んで買ったときは「このひとがおれの推し…(トゥンク)」みたいな満足感あった。だから時と場合によるのかな。

でも絶対に「推し」って使えないひとがいるんですよ。誰あろう、それが吉井和哉ですよ。推しではない。ぜんぜんない。何も足さない。何も引かない。何言ってるかわかんなくなってきました。私先日彼の特大写真集(おねだんそうりょうこみで5まん6せんえん)(あまりのことにひらがな)を購入したんですけど、でもそれは「推しに課金」ではぜんぜんないんですよ。わたしあのひと推してないです。推してない、じゃあなんなのか?つったら今も昔も吉井和哉に対する私の感情を一番正確にいい当てているのが

入れあげてる

って言葉です。ちなみに辞書を引くと「好きなもののために分別を欠いて多くの金銭をつぎ込む」って書いてあってマジで全力のそれな!感がすごい。確かに分別、もはやない。かれこれ20年余分別欠きっぱなしてすごくないか。届いた写真集のあまりの存在感にそんなオチのない話をしたくなった次第です。
オチのない話のおまけに写真集の大きさをぜひあなたも実感してください(ポストカードと対比)。
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「ゲゲゲの先生へ」

タイトルからして「水木しげる先生そのひと」にスポットをあてた作品になるのかしらんと予想していたんですが、これがかすりもしなかったので笑いました。ゲゲゲの先生とその先生が生み出した世界にシンパシーを覚えないではいられない創作者が、これがじぶんにとっての「ふしぎ」ですと書いたラブレター、いや論文?のような趣だった。

闇のあるところでないと人間に魂が入らない。なんだか「オニの息吹のかかるところがないとこの世はダメな気がする」って台詞思い出しちゃいますね(その台詞ほんと大好きだなおまい)。前川さんは私たちの目に見えるもの、手に届くものから「すこし遠い」ものを好んで書いてきた作家だと思いますが、水木作品との親和性というか、科学と真逆の位置にある何かを作品として残してきたという点では相通ずるところがあるんだなあと思いました。

佐々木蔵之介さんは根津という、あきらかにねずみ男をフューチャーしたキャラクターで、ほんと自由闊達にやっていてよかった。そうなんだよねー蔵は私の中では「二枚目枠」と「妖怪枠」があるとしたら間違いない妖怪枠に入るひと…だって轟天寺ヨシオだもん…(その名前で呼んでやるなよ)。「当たり前だろ。おれ詐欺師よ?」と軽妙にすごんでみせるところ、めっちゃかっこよかったなー。ああいう蔵もっと観たい観たい。

妖怪?精霊?元神?呼び名はさまざま人間が好き勝手につけますが、そのこの世とあの世の端境にいるようなキャラクターを演じる女性陣がおしなべてすばらしく、この作品の世界観を成立させることができたかなり大きな理由になっていると思いました。白石加代子さんはそりゃハマるだろうよ!と予想はしていたけど、その予想を軽々超えてくるし、池谷のぶえさんはいつ観ても本当にいい仕事しかしてないし、松雪さんのひんやりとした温度さえ感じさせる佇まいの美しさも印象的でした。ほんとキャスティングの妙!キャスティングの妙といえば「山田」役に手塚とおるさんなのがもう…ズルい。あの人の舞台の上での自由度の高さたるや。

イキウメの面々もよかった、根津の子どもの頃を浜田くんがやってたんだけど、すげえ、わかる!ここつながってる!感があって楽しかったです。大窪くんも相変わらず年齢不詳な…「三太」と「サンタ」のギャグが妙にツボにはいってしまった私だ。

私はこういった「この世ならざるもの」への感覚がないというか、つまるところある、ないみたいな二元論で物事をとらえちゃうツマラナイ大人で、だからこそなのかこういう世界を覗かせてくれる作品が好きなので、そういう作品を作るひとの根源を覗けたようで楽しい時間でした。

「當る亥歳 吉例顔見世興行 昼の部」

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新開場した南座です!いろいろ綺麗になってたけど基本的に雰囲気は変わらない感じでした。今回はちょっと時間がなくてあまり探検できなかったんですけど、次回は売店とかももうちょっと覗きたいな。そうそうトイレは各階にあるんですが、地下1階の女性専用トイレがたぶん一番回転早いのではないかと(トイレ情報だいじ)。

「毛抜」。三度目くらいでしょうか拝見するの。好きな演目で、粂寺弾正をやる役者さんの大らかさがふんだんに感じられれば感じられるほど楽しく観られる気がします。煙草盆を持ってきた秀太郎を口説いたり(壱太郎くんなんて適役なの)腰元を口説いちゃったり、毛抜は踊るのに煙管は踊らぬ、ハテ合点のゆかぬ…と考えこんだり、どちらかといえばほんわかした場の空気が終盤一変するのも面白い。名推理もので、しかもなんとなく侮ってたおじさんがちょう強くてかしこいっていうパターン、洋の東西、古今を問わずみんな大好きなんだな!っていうね!

「連獅子」。幸四郎さんと染五郎さんでの連獅子ということで客席の期待も最高潮。つい先ごろ東大寺勘九郎さんの連獅子に熱狂したおかげというか、一度ああいうふうに舞台に強く引っ張られる経験をするとその後その演目自体がスーッと身体に入ってきて前よりも数段楽しめる!みたいなことが私わりと起こりがちなんですが、まさにそのパターンでした。今までも後シテは観るの好きだったんですけど、もはや連獅子は出の瞬間から最後の最後まであんこのつまったたい焼きのようにすべてがおいしい。

幸四郎さん、狂言師の拵えになるとかっこよい、というよりうつくしい!という言葉が先に立つ、染五郎さんと並んでほんとうに「美麗」という言葉がしっくりくる前シテでした。なんかもうむしろ後シテよりむしろ前シテのほうに興奮してしまうっていう。とくにあの「水に映れる」のところのパッと時間がとまるようなところね!むちゃくちゃよかった。今回間狂言鴈治郎さんと愛之助さんという実に愛嬌にあふれたおふたりで、これもすごく楽しく見られました。獅子の精として出てからはやはり幸四郎さんの圧巻のカッコよさ際立つという感じなんですけど、いやもうあたりまえですけど染五郎くんが必死なんですよね。その必死さがやっぱりこの演目の親獅子と仔獅子に重なって見える。かっこよくみせてやろうと思っている人の芝居を観てもつまらない、それなら必死で逆立ちしているひとでも観ているほうがまし…というようなことを秋浜悟史さんが仰っていたと記憶しますが、まさにそういう、芸としての完成とはべつに「魅せられる何か」が浮かび上がってくるのがこの連獅子の演目のすごいところです。それはそれとして幸四郎さんの毛振りも最後はほとんどリミッターどこ行ったー!って感じの激しさで堪能しました。

「恋飛脚大和往来 封印切」。仁左衛門さまの忠兵衛だよ!(ブオーブオー)(ほら貝)。演目としては何度見てもいまいち好きになれなかったりするんですけど、上方の特色がぎゅうぎゅうにつまった演目だと思うし、それをこの座組で観られたのはよかったです。仁左衛門さまの忠兵衛、もう「ザ・忠兵衛」って感じだった。正解ここにあり!みたいな。あんなに「いけず」されるのが嬉しく思える人物造形醸し出せるひとそうそういないよ…。八右衛門の鴈治郎さんもすごくよくて、ふたりのやりとりに胃がきゅーっとなる思いでした。そして封印を切ってしまった瞬間の、そしてそのあとの仁左衛門さまの芝居のすばらしさよ!見送る井筒屋の顔ぶれの晴れやかさと、死出の旅に向かうふたりとの印影が最後の最後まで効いていて、ええもん見たなあ!と思わせてくれる一幕でした。

「鈴ヶ森」。いっとき「また鈴ヶ森か!」ってくらいよくかかってた記憶があるんですけど気のせいかしら。勘九郎さんの襲名のときに、勘三郎さんと吉右衛門さんでおやりになったのを見て以来かと思います。あのときのおふたりが本当に素晴らしかったおかげで、これも最初に見たときは「よさが…わからん…」とか思ってたんですけど、今は全編楽しめるようになったパターンですね。愛之助さんの白井権八、やはり愛嬌が先に立つのがとってもらしい感じもしつつ、個人的にはもうちょっと冷えた刃物のような鋭さも欲しいなと思ったところでした。白鸚さんの長兵衛、さすがの貫禄で、とくに最後に書状を火にくべる場面の役としての大きさが伝わってくる感じがとてもよかったです。

端境のひと

第三舞台の制作をつとめられ、サードステージやヴィレッヂの社長を歴任された演劇プロデューサー、細川展裕さんが本を出版されました。

言うまでもなく、私が最初に認識した「演劇制作者」は細川さんでした。ビシッとしたスーツ姿を劇場入り口でよくお見かけしました。当時一緒に第三舞台の公演を見た母は「あの人(細川さん)がどの役者より男前」と言ってたほどで、それもわかる!たしかにむちゃくちゃダンディでした。

第三舞台ファンには周知の事実ですが、この本にあるとおり、細川さんは演劇畑から制作の仕事を始めた方ではありません。最初は一緒に芝居をやっていて、そのうちなんとなく毎回その人が制作的な仕事を仕切っていて、そのまま制作としておさまる…という轍を踏んだのではなく、大学を卒業してケンウッドに就職までされていたのに、鴻上さんの幼なじみであるというそのただ一点で鴻上さんに声をかけられ、会社をやめて第三舞台の制作を引き受けることになったんですよね。

演劇制作者が本を出版すること自体はさほど珍しくないというか、それこそ夢の遊眠社を支えた高萩宏さんの「僕と演劇と夢の遊眠社」だったり、大人計画社長である長坂まき子さんの「大人計画社長日記」だったりと細川さんに近しい世代の方でも「劇団あれやこれや」を書かれている方は沢山います。今回の細川さんの本、読んでいて思ったのは、細川さんはまず基本的に「ものを書く」という習慣そのものがない方なんだろうなってことです(笑)繰り返されるオヤジギャグ…というべきなのか死語というべきなのか…を読みながらか、かわいいひとだなあとによによしました。一生懸命書いた感がほんとうにすごい。盟友ともいうべき鴻上さんがあれだけコトバにモノ言わせる商売をしているのとは対照的です。でも、鴻上さんとの対談で語られている「なぜ鴻上さんが細川さんを制作に誘ったのか」という答えも、こういうところにあるような気がします。というか鴻上さんは本当に徹底して、理解しようとすることと崇めることはむしろ真逆のことで、自分を崇拝する人間に用はない、と思ってらっしゃることがよくわかります。

しかし、言うまでもなく、小劇場において前人未到の発展を遂げた東西ふたつの劇団の制作(それこそ、どちらも「もっともチケットが取れない劇団」と呼ばれたことがある)を担っていたのが同一人物なんですから、これは単なる運とかそういう話ではなく、第三舞台も新感線も、細川さんがいなければあそこまで規模を拡大することはできなかったんだろうと思います。ファンにとってそれがよかったかどうかはまた別です。しかし細川さんがいなければ確実に停滞した集団になっていただろうし、もしそうなっていたら、私はどこかの時点で第三舞台とも新感線とも離れることになったんではないかという気がしています。

巻末の細川さんのお仕事年表を見ると、当たり前なんですが「ほぼ見てる…」ってなりますし、本の中に出てくるさまざまな公演も自分の身におぼえのあることばかりなので、「そうそう、そうだったよね~」とか「なつかしい!!!」とか「えっあの時そんなことが?」の連打すぎていやはや読んでいる間ずっとニヤニヤしたやばいひとでした。第三舞台はあの絶頂期に「優先予約」なんてものを一切してくれず、ただアンケートを書いたお客さんに「OTTS」というダイレクトメールがくるだけだったんですが、この単語に思わず「OTTS~~~~~!!!!!おなつかしうございます!!!!」と叫びそうになりました。今でも全部とってあります…どれだけなめるように読んだことか…。あれ中島隆裕さんのアイデアだったんですね(今はイキウメの制作をされてらっしゃいますね)。いやもうひとつひとつ書いてたらこのエントリ終わりません。

細川さんを訪ねて「関西で劇団をやっているものですが東京での動員を増やしたい」てやってきたのが当時ピスタチオに在籍していた佐々木蔵之介さんだったとか、「ビー・ヒア・ナウ」で役者が客だしやって大パニックになったのって千秋楽じゃなかったっけ?(その場にいた)とか、堺雅人さんが「スナフキンの手紙」のバラしを手伝っていたとか、その堺さんは蛮幽鬼のキャスティングで細川さんが「剣道2段です」って大ウソこいたけど実は体育2だったとか、最初のプロデュース公演「大恋愛」が生まれるきっかけとか、「忍法・俺も知らなかったんだよ」の炸裂とか、ぐるぐる劇場は4年プランで打診されてたけど2年が限界です!!!って断ったとか、天海さんに「オスカルみたいな感じで」と言ったらいい声で「私、オスカルやってないから!アンドレだから!」って言い放たれたとか、ワカのときのおぐりんまじ潰れる3秒前だったんだねとか、鋼鉄番長で降板したじゅんさんをお見舞いにいったら「(払戻公演の)お金はどうするんでしょうか?」って聞かれたとか(じゅんさん~~~~!涙)、サダヲちゃんが賞をもらったことのない細川さんに自筆で「阿部サダヲ演劇賞」と書いて賞状をあげたとか(サダヲ~~~~!涙)、マジで枚挙にいとまがないほど、あの人この人のあんな話こんな話の連打です。

2013年にいちど、御両親の介護ということで愛媛に帰られ、引退する…という話があったのに(「断色」の公演のときですね)、その後もお名前があるのを見て「?」とは思っていたのですが、なるほどそういうご事情だったのか…というのもこの本を読んでわかりました。本当に人生は設計図通りには動かないもんですね。

いのうえさんと古田さんとの鼎談では、古ちんが「ニョロ」と呼んでいる細川さん(ホント古田って自分しか呼ばないあだ名つけるの好きだね…)をいかに信頼してるかっていうのが感じられたり、その中の芝居の尺の問題で細川さんが「尺の問題は重要、お客さんは自分の社会生活の2時間・3時間を切り取って劇場にきているわけだから」古田「これがニョロの考え方です。社会生活の中で2時間切り取られる恐ろしさをわかってる」ってホンマええこと言う!!!!でもそういうキミんとこが今一番尺が長い!!!ってなったのは許していただきたい…(笑)

細川さんは一貫して、作品には一切口を出さない、それは鴻上さんなりいのうえさんなりが「おもしろいものをつくってくれる」という前提で仕事をしているから。口を出すのは尺のことだけ。その腹のくくり方はさすがだなと思いますし、文字通りド素人集団だった学生劇団を、お金をとれるプロに変えていく、そのために何が必要かということ常に考え、そして興行を打つ、チケットを売るということは、客との約束を売るということなんだということを真から理解されている。そういう人が学生劇団にもたらした変化による恩恵を、わたしは自分の人生でめいっぱい享受してきたんだなと改めて思いましたし、そういう意味では細川さんこそが私の人生を変えたひとなのかもしれません。

あと、ほんとこれはどうしても書いておきたいんだけど、細川さんはほんとーに鴻上さんのことがだいすきなんだなっておもいました。なんでひらがな?うん、そう、だいすきなんですよ。細川さんの書く「役者とはこういう生き物」の言葉のチョイスとか、まんま鴻上イズムやん!って思いますし、鴻上さんがロンドン行っちゃってる間「ポッカーンとしてた」って古田に言われちゃってるし、ほんとこういう、製作者と制作者の間にあるものも含めて、自分は第三舞台に入れ込んでいたんだなあと思います。第三舞台のDVD BOXが発売された時、副音声ゲストで細川さんがでたものがあるんですが、そのときに細川さんが言った「鴻上にはまた新作で、大いなる虚構を語ってもらいたい」って言葉は、今でも忘れられません。

わかるひとだけがわかればいい、というスタンスでもなく、儲かればいい、というスタンスでもなく、小劇場演劇と商業演劇の端境をずーっと走り続けていた、走り続けているひとだと思いますし、できればまだまだその恩恵にあずからせていただきたい所存です。私の演劇人生に太線でびっしりその年表が関与してくる方のものされた「演劇プロデューサーという仕事」、たいへん面白く楽しく拝読させていただきました。