「野田版・桜の森の満開の下」

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今のところに転居してからシネマ歌舞伎とかNTLとか変則上映には縁遠くなってしまったな~と残念がっていたのですが、桜となると諦めて指をくわえちゃいられないよ!なんつって、同県内でやってくれるだけでもありがたい。ありがたい。

いろんな劇場で「贋作・桜の森の満開の下」の舞台を観てきたし、遊眠社版のDVD(最初はVHS)は数えきれないぐらい再生しているし、昨年行われた野田地図版も先日放送されたばかり。いろんなフォーマットでこの作品を見てきたけれど、思えば大スクリーンで見る、というのは初めての経験でした。

WOWOWのドキュメンタリで野田さんが仰ってましたが、休憩時間が入ることによって観客が一気に二幕で集中しだす、っていうのはわかるな、と改めて映像で見ても思いました。やっぱり前半の、おもちゃ箱をひっくり返したような展開を休憩時間でクールダウンして観客に飲み込ませる、って作業は非常に有用なんだなと。そしてこの作品の第二幕は掛け値なしにすばらしい。もはや体感15分ぐらいしかない。

寄りの表情が見られることが嬉しいシーンもあれば、いやここはもうちょっと引きの映像がいいのに、と思うところもあり、まあこういうのは実際の舞台が映像化されたときにつきものの感想ですね。オオアマの「耳男お前がオニになれ」は染さまのアップでたのむよ!とか、あの最後の殺しの場面はもっと引きで見たいよ!とかいろいろありましたが、逆に言うとそういった「舞台を観たものだけの記憶」が残っていくのはいいことなのかもしんない。映像ってやっぱり強烈だから、自分の記憶が知らないまに上書きされちゃうこともあるわけで、それは永久の楽しみを手に入れる代わりになくすものもあるってことで…あれ?なんだか贋作・桜の作品そのものにも似ていますねこれ。

夜長姫と耳男の終盤のやりとり、今日でなくちゃいけないのかい、今日でなくちゃいけないんだ…そのとき、おぶっていたのは私?からの七之助さん、もはや面をつけていなくても、スッと顔や身体、すべてのものの色が変わって「この世ならざるもの」に変化しているのが感じられる、それが舞台のマジックではなく、こうしたスクリーンを通してなお感じられるというのが、ほとほとすごい。何だったら、面をつけなくてもよいのではないかとすら思うほどです。そしてあの殺しの場面の夜長姫と耳男の動きは、初演から大まかなところは変わっていませんが、間違いなくその様式美ともいうべき美しさは歌舞伎版が群を抜いていると思います。歌舞伎って、どうしてあんなにも「殺し」の場面が美しいのだろう。ひとの極限を描くことに長けた表現方法なんだなあってことを、またここでもしみじみと感じたりしておりました。

この作品は、実際の舞台を観ていても、メディア化された映像を観ていても、たとえばうるっと涙をこぼす、というような日もあれば、もしそこに誰もいなければ、突っ伏してごうごうと声をあげて泣いてしまいたい、という衝き上げるような衝動に駆られる日もあって、ほとんど慟哭に近いその衝動がどこからくるのか、これだけ何度も何度も何度もこの作品を反芻していても、正直なところ自分にはわからない。でも、わからないってすごいですよね。30年という時間、この作品のことを考えていて、何度も触れて、それでもわからない。わからないのに、愛おしくてしょうがない。なにがそんなに悲しいのか、と聞かれたら、人間に生まれたこと、としか答えようのないような根源的な悲しさが、この作品を見ていると私を襲ってくる。なにか大事なものを喪って、それに気がつかずに日々を過ごしているけれども、でもこの作品を見ている間はそのなくしたものが…オニが、自分のそばにいるような気がしてくる。

しかし見れば見るほどこれ以上ない、というような布陣での上演だったな~。勘九郎さんと七之助さんは言わずもがな、染五郎さん(あえて当時のお名前で)のオオアマ、本当にすばらしい。こんなにも上からものを言わせて説得力と魅力が爆発する人そうそういない。「このなくした耳から俺を名人と呼ぶ声が聴こえてくるのでしょ?」「あ?」この「あ?」だけで白飯3杯いける勢いですよ。猿弥さんのマナコも、マナコにぜったいに必要な愛嬌があふれまくっていて、だからこそ最後の哀しさが際立って。梅枝さんの早寝姫も大好き(いささかも気が引けませぬ!の間、絶妙すぎる)、ハンニャの巳之助さんも魅力炸裂してたなあ…本当にいい座組だった。

贋作・桜の歌舞伎版への思い入れは、私にとってはイコール亡くなった勘三郎さんへの思い入れでもあったわけだけれど、こうして勘九郎さんと七之助さんに耳男と夜長姫を演じてもらえて、思ってた以上の芝居を見せてもらえて、なんだか凝り固まっていたこの作品へのほとんど怨念といってもいいような執念が浄化した気がします。ラストシーンの耳男の、勘九郎さんのあの慟哭と、あの桜の木の下にただひとり座っている姿を見ていると、最後にはそういった過去の何もかもが消えて、ただこの作品そのものへの愛しさだけが自分の胸に残るような、そんな気がしてきました。

平成の世が開けると同時にこの世界に生まれ落ち、平成という時代が閉じるまさにその月に、しかも文字通り桜の咲き誇るこの季節にこうして新しいフォーマットで生まれ変わっていく「贋作・桜の森の満開の下」。私の観劇人生を支える一本であることは間違いなく、そういう作品に30年前に出会えたこと、本当に感謝したいです。

「バイス」

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アダム・マッケイ監督・脚本。今年の賞レースで各方面でノミネートされており、えっクリスチャン・ベールどうした!?って変貌ぶりと、えっあなた本当にサム・ロックウェル!?な映像をたくさん見てこれは…観るしかない!と思っていた映画です。

ジョージ・ブッシュディック・チェイニーコリン・パウエル…さすがにこのあたりは名前と顔が一致しているし記憶にも新しいところです。そのホワイトハウスにおける虚虚実実の内側を描く…というよりは、むちゃくちゃ告発の色合いが強い。告発というか、「どうしてこんなことになったのか、それをはっきりさせなきゃいけない」という強い意思。冒頭に「これは真実の物語だ(true story)」と出て、based onでもinspired byでもないところにも製作者の意思を感じました。

ストーリーテリングとしてはかなり変化球というか、ナレーターとなる語り手がいて、その語り手の正体は映画の後半で明かされるわけですが、そのナレーター視点からのツッコミまたは解説というようなものをどんどん見せていく。実際の映像もどんどん使っていく。でも実際の映像だと思ってたら出ているのはサム・ロックウェル演じるブッシュだったりする。冒頭、いきなり9.11のシチュエーションルームから始まって、そこで副大統領権限を超越したことをやろうとするチェイニーが弁護士と相談するっていうシュールさ(というか、あそこ弁護士入れるのね。シチュエーションルームじゃなくて単に避難時のシェルターだってことなのかな)。私の愛する「ザ・ホワイトハウス」でも権限移譲のサインをめぐって紛糾するエピソードがあったし、「非常時だから」ではなく法解釈を味方につけてからことを動かすチェイニーの狡猾さが際立つシーンですごく印象に残りました。

イラク戦争の時の「大量破壊兵器」を巡る報道合戦も、なるほどこういうことが行われていたのか…と腑に落ちる思い。もっというとイラク攻撃の口実に使おうとしたいちテロリストを誰が有名にしてしまったのか、そしてそれがISとなって台頭してしまうというこの皮肉さ、いや皮肉なんて生易しい言葉ではすまない、取り返しのつかない事態を招いたことと、そしてその招いたひとたちは、何万キロも遠い彼方で清流に足を浸しているのだ、ということにぞっとしました。

ヴォネガットの小説の中の台詞だったと記憶しているけど、金の流れる川の近くにいる人間はどうやったらうまく川の水を汲めるかということに執心しどんどん水くみがうまくなっていく、他方川から離れて暮らすひとたちはどうやって水を汲めばいいのかさえ教わることがない…っていうのを思い出したり。あの遺産相続税の死亡税への言い換え。逆にいえば、そういうことで人心というものは左右されてしまうんだという怖さというか。

クリスチャン・ベール、マジで後半どこにもちゃんべの面影ない。若い頃のチェイニーはまだああ、彼がやってるなって感じあるけど、ある時点からマジでまったく役者の顔がどこにも見えない。すごいね。エイミー・アダムス、さしずめ現代のマクベス夫人もかくや、な役どころでしたけど、あのシェイクスピア的台詞の応酬のところとか二人揃って最高でした。スティーヴ・カレルラムズフェルドもよかったけど、やっぱサム・ロックウェルのブッシュがむちゃくちゃ印象的です。素の彼はぜんぜんブッシュ本人に似てないのに、そしてむちゃくちゃ特殊メイクで仕上げた感もないのに、映画のなかの彼、ブッシュにしか見えない。チェイニーから見れば「いい駒」にしかすぎなかったであろう人物を、バカに見えることを恐れず直球でみせてるところがほんと、いい役者さんだなーと。

チェイニーが見せるたまさかの人間性、ことに次女の同性愛が発覚した場面、大統領選で次女(演じてたアリソン・ピル、政治ドラマでよくお見かけしますわね)を引き合いに出されることを思い一線を退いた選択だったり、あの副大統領としてホワイトハウスに戻ってきたときに過去に想いを馳せる場面とか、そういうものはあるにせよ、この映画はチェイニー自身の許可を得ずに描かれていることもあって、そういう内面の連続性、みたいなところを期待するのはさすがに難しいという感じですね。でもって、ポストクレジットシーンがひとつありますが、これがまた、強烈です。

「ブラック・クランズマン」

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スパイク・リー監督作品。本年度アカデミー賞脚色賞を受賞。プレゼンターのスパイク・リーの長年の盟友、サミュエル・L・ジャクソンとの抱擁、感動的でしたね。

もともとの原作はこの物語の主人公にもなっているロン・ストールワースご本人が自らの体験をもとに書かれたものなのだそう。1970年代、まだ差別の色濃く残る時代にその地区初めての黒人警官となったロン・ストールワース。警察署内でもまだまだ偏見の残る中、彼はひとつの新聞記事に目をつけ、黒人に対する強い偏見を持ったレイシストを装ってかの悪名高きKKKクー・クラックス・クランに電話をかけ、組織内に潜入捜査を図ろうとする。もちろん、潜入する刑事は白人でなければならない。ひとりの人間をふたりで演じ、そのいびつな組織深くに潜り込んでいく。

70年代の話だよね、今はもう時代が違うよね、と安心しているとビンタされて、返す手でもう一回打たれるみたいなアレ。それでいて、オフビートな刑事もののバディ・ムービーを見ている面白さも存分に味わえるので、感情の振り幅がえらいことになりました。KKKの指導者デビッド・デュークについて、ローブで顔を隠さず、自分の主張はまるで人種差別ではないかのような顔をしてホワイトハウスに乗り込む、そこで憎悪を撒き散らすんだ、と言われたロンが「国民はそんな男を選びませんよ」と答える場面、ぞっとしました。そう言うロンに対して返した「ずいぶんのん気なんだな」というセリフにも。国民はそんな男を選ばない、とおそらく多くの人が思っていたはずなのだ。

KKKが目の仇にしたものは黒人だけではなくユダヤ人もだったんだけど、ロンの代わりにレイシストのふりをしてKKKに潜入するフリップがKKKメンバーのひとりにユダヤ人かどうか執拗に疑念を向けられること、それによって自分のルーツに自覚的になっていくところがよかったし、ロンとの連帯感も絶妙な温度だったな~。

しかし、アダム・ドライバーは魅力的な俳優さんだねえ。SWシリーズとも、ローガン・ラッキーともぜんぜん違うタイプのキャラクターで、ぜんぜんオーバーアクトなふうでもないし、いつものアダム・ドライバーなようで全く違う魅力があるっていう。

任務を無事終えた捜査チームの大団円ぶり(あの悪徳警官の末路!)がすごくいい風景で、ホッとしたところに2017年の映像をぶちかまされて、地続きであること、にうちのめされて劇場を出るパターン。でも今見られてよかったなと思った映画でした。

「空ばかり見ていた」

主演に森田剛くんを迎えての岩松了さんの新作。いやー岩松さんの作品は個人的にズバッとくるやつと掴もうとしてもつるっと手の中から逃げていくパターンがあって、今回は最後まで残念ながらつかみきれず…という感じでした。好きな役者さんが多いし、それぞれの会話は楽しんで観ているんですけども。

内戦状態にある日本のどこかで、廃校にゲリラ基地を構えている集団が舞台なんですが、銃やヘリコプター、捕虜といった生々しい単語に交じって、生保レディが保険の勧誘をしてしまう緊迫感のない一面もあったりする。主人公はその部隊のリーダーの妹と交際しているが、自分も前線に出たいという彼女はある日暴行を受けてしまう。

主人公とその妹に起こったこと、とその集団のタガが外れていくさま、それによって壊れていく人間関係。中でも隊員の母親と捕虜のひとりのやりとりが物語の展開にスリルを与えていて面白かったです。しかしあの母親のバックボーンというか、あのあたりの事情をうまく掴み切れなかったんだよなー。つるっと説明されて終わってしまった。

勝地くんのやった役どころが、チャラついているように見えて底知れないキャラクターで、彼の柄にも合っていてすごくよかったです。本当には何を考えているかわからない、というような怖さが端々に滲むのがよかったし、その怖さが後半かなり物語を牽引していたなーと。筒井さんも久しぶりに舞台で拝見した気がしますが、相変わらず年齢不詳な感じがあの存在の相容れなさとバッチリはまってた気がします。剛くんもよかったけど、個人的には彼はもっと叙情が強い台詞や舞台で見たい気持ちがあるかな~。

岩松さんの作品、そんなに得意じゃないのに、ツボにはまったときの快感が強くて忘れられずついつい見に来てしまう…っていうのを繰り返している気がしますが、それをさせる気になるのも岩松さんの力量なのかな~。

「クラッシャー女中」

激戦のなか、なんとかチケット運にめぐまれ拝見することができました。根本宗子さんの作品は「皆、シンデレラがやりたい。」がすごくよかったので今回も楽しみにしておりました。

あんまり具体的なことは書かないようにしておりますが、それでもネタバレ気になる方は以降は回避が吉でございます。

制作発表当初(と、公式サイトとかにあるあらすじ)とはかなり方向性が違ったストーリーになっており、とある裕福な家庭に育った何でも持っている(ようで、何にも持っていない)男と、その男に執着だったり執念だったりいろんなものを燃やす女たち、という図式なんですけど、書くつもりだった方向には話が転がらずこういう展開になったのかな?と思うところもちょっとありました。特に最後はもう少し構図をまとめてスパッと終わってもよかったのでは。彼女が手を差し伸べて意図を明らかにした瞬間でエンドっていうのでも個人的にはダークさがあって好みだな~とか。延々続くやりとりも悪くはないんだけど、「そんなの愛じゃないね、それは暴力だね!」ぐらいのパンチラインが欲しかった感もあります(むちゃくちゃ個人的な思い出挟むの禁止)。

狂言回しの役が入れ替わるのも面白いアイデアだったんだけど、あれはあれでぐいぐい出れば成立するってわけでもないところが難しいですね。私わりと時系列の混在は得意なほうなんですけど、ちょっと流れがスムーズに飲み込めないな~というところがあったのが残念。子どもを演じる時の「演劇あるある」ネタとかはすごく面白かったですし、いいキャストが揃ってるので全体としては楽しく見られることは間違いないんですが。

倫也くん、Sっ気炸裂させてみたり寄る辺なさを醸してみたり、理想の女の子に恋する男の子になってみたり、あんな顔こんな顔たのしませてくれました。個人的には田村健太郎さんめっちゃいい仕事するなー!と感嘆。あの復讐心の話を妹にするところ、この芝居の中でも屈指の名シーンだと思う。趣里さんの吹っ切れた芝居も個人的に好きな感じでした。あと舞台に立った時の姿勢の美しさ、やっぱ目を惹きますね。

あと、カーテンコールの処理が個人的にちょっとむむむ…となってしまった。いや、多分さ、これは全然私の想像だけど、中村倫也くんのファンになって初めて舞台を観に来た、みたいなひとも少なからずいたであろうと思うんですよ今回。で、カーテンコールでいっぱい拍手送りたい(カーテンコールでの姿をいっぱい見たい)って人もそりゃあいたと思うんだ。私は長いカテコ断然NO派だから、すぱっと終わってくださるの助かるっちゃ助かるんだけど、あの幕切れはなんとなく消化不良になってないかなお嬢さんたち…ってことをね、考えてしまったりするわけです。いやもちろん、作演出の根本さんがどう提示するかを決めることだから、ああするべきこうするべきなんて言うのもヘンな話だよなってのはわかってるつもりなんですけど。

愛のレキシアター「ざ・びぎにんぐ・おぶ・らぶ」

池ちゃんこと池田貴史さんのソロプロジェクト「レキシ」の楽曲でミュージカルを!という企画。原案・上演台本・演出を河原雅彦さんが手がけるという、総代の肝入り企画でもあります。

いやーー面白かった!これ、プロデュース公演として点数をつけるなら満点待ったなし、満点どころか120点叩き出すような傑作です。既存の曲を使ってミュージカルを仕立てる、って「マンマ・ミーア」とかの例を引くまでもなく(何しろ楽曲の良さが保証されているので)ミュージカルとして新しい手法というわけではないけど、そこでレキシの楽曲を使うというアイデアがあって、その楽曲に対して深い理解と敬意がある書き手がいて、その創り手の意図をぞんぶんに発揮できるキャストを揃えていて、かつその舞台を実現させるスタッフが超一流(振付は梅棒だし舞台美術は松井るみだし映像は上田大樹だし、一線級そろい踏み)。まさにプロデュース公演かくあるべし。

レキシの楽曲を使うということで、舞台設定をレキシーランド(それぞれの歴史イベントがアトラクションになっていて、そこに登場人物たちがやってくる)にしているので、時代を行ったり来たりしてもおかしくないストーリーラインの設定と、そこに引きこもりニートの主人公がネットで夢中になった歴女アイドルとのやりとりが絡んでいくんだけど、まあまず河原さんの上演台本がすごい。なにがすごいって、緻密に物語を運ぶところと、「いやだってこうしないとあの曲歌えないじゃん」みたいなメタな台詞で落としちゃうところが共存してて、それが雑になってないってところがすごい。やっぱり使われる楽曲に対する愛と理解がちゃんとあるんだなーと思う。

可動式セットをいくつも組んでスピーディーに入れ替えて、踊れる楽曲ではビシッと踊りを見せる空間をあっという間に作ってるのもさすがでした。セットの入れ替えや早替えで時間がかかるところではそのこと自体をネタにしたイジりがあって観客を無駄に待たせないし、まず冒頭で「こういうノリで行くからね」という観客に対する提示があるのもマジ親切。いや私ほんと見ながら何度も「河原さんすごいわ…」って心の中で拍手喝采でしたよ。あれだけメタなネタが多いのにそれが内輪受けにならず、客にちゃんと届くものになってるか?っていう視点が常にある、あの匙加減の絶妙さ。むちゃくちゃいい仕事してる。

これは今回の作品とは直接関係のないことなんだけど、河原さんもそれこそ若かりし頃は「今だったら到底ゆるされない」ようなアバンギャルドなことをしてきた人なわけで、でもそういう人が今こうして「観客に何かを手渡せる」視点を持って作品を立ち上げてるのをみると、やっぱある程度極端なことを若いうちにやるのも必要なことなのか…と思ったり、いや結局は個々人の才能か…とも思ったり。

キャストは全員もれなく適材適所、ニンと実力を兼ね備えててもはや言うことなし!あえて特筆するならやっぱり主演の山本耕史さんと八嶋智人さんのおふたり、このふたりの仕事の確かさ凄さ!いやもう感服つかまつりましたどころじゃないよ!やまこーせんぱいの「求められたことをやれるのが役者」とでもいわんばかりのマルチプレイヤー、オールラウンダーぶり素晴らしすぎた。親に暴言吐きまくるダメニートから音がしそうなほどにキマった牛若丸姿の殺陣まで決める一方、楽器の演奏から物真似芸からこなしておいてあの歌唱力ですべてをさらう。はー。出来すぎか!出来すぎ君か!そして狂言回しなら俺に任せろ!といわんばかりの八嶋さんの自由自在ぶり、観客の反応をよく見て取りこぼさない反射神経、あの滑舌の良さが存分に活かされた役どころでめちゃくちゃ輝いてらっしゃいました。

松岡茉優ちゃんは舞台で拝見するの3度目?だけど、今回がいちばんよかった!佐藤流司さんは初見でしたが、キレのある殺陣と、カッコつけのカッコいい役をしっかり振り切って演じてて好感。高田聖子さんがすばらしいのはいつものことだし、藤井隆さんとのコンビのシーンが多くて(あの「らっきょ」はふたりのハートの強さが如実に出た名シーンですね)楽しかったなー。消えた父親の役に山本亨さんを配してるのがねー、また心憎い!そういえば、殺陣指導で入っていた前田悟さんが急遽代役でご出演だったんだけど、代役ってことを逆手にとってしっかり笑いをとったり、一番立ち回りうまいのに見せ場作れなくてごめんなーとか振っておいてちゃんと見せてくれたり、んもう河原さんのサービス精神が心憎すぎる!サービス精神といえばやまこーせんぱいの土方さんね。あそこは手が(拍手が)くるよね。八嶋さんの「その役だけはプライド持ってほしい!」って叫びにも拍手きちゃうよね。そこでちょっと外しておいてからの牛若だもんね。いやマジで心憎すぎるわ。

レキシの代表曲がこれでもか!と出てきてずっと楽しいばっかりだし、歌い上げられる名曲の数々にニヨニヨしたりしてほんといい時間でした。個人的には古今to新古今のかわゆらしさ、むちゃくちゃ歌い上げる墾田永年私財法、名曲きらきら武士、そして稲穂を振れたー!狩りから稲作への楽しさが印象に残っております。っていうかみんなよかったよ。みんなよかった。

レキシファンの方がどれぐらいいらしてくださったかわかんないけど、普段舞台見ない人でもこれなら「面白かったなー」って、舞台楽しいなって思ってもらえそうな気がするし、そこから梅棒が気になったりする人がいたり、逆に舞台好きでレキシ知らなかった人が曲聴いてみたいなって思ったりするかもしれないし、こういうことですよね…プロデュース公演のよさってこういうことなんですよ…と観劇ヲタとしては観ている自分も幸せ、その芝居がたくさんの人に受け入れられてるのもまた幸せという幸せ循環現場でした。ほんとうに満足!今回残念ながら観られなかった方のためにも、ぜひ再演を検討していただきたいです!

「Das Orchester」パラドックス定数

  • シアター風姿花伝 全席自由
  • 作・演出 野木萌葱

シアター風姿花伝のプログラミングカンパニーとして昨年から「パラドックス定数オーソドックス」と称して上演されていたシリーズ、今作でオーラス。がんばって足を運んだつもりですが上演期間が限られているのもあって遠征者にはなかなか難しいところもありました。でも1年で3本観られたわけですからやっぱりありがたい企画だよね。なにより、年間通しての各演目と出演者、そして公演期間が明示されていたのが助かりました。これ公演期間がざっくりした情報だけだったら、たぶん1本観られるかどうかだったんじゃないかなあ。

ナチス・ドイツが第1党となり、その支配力を日に日に高めているドイツで、高名な指揮者が率いるオーケストラに新人ソリストがやってくる。楽団のオーディションを受けろと促す指揮者にかれは答える、いいんですか、ぼくは劣等人種です。

フルトヴェングラーベルリン・フィルをモデルにしていると思われる物語ですが、実際の名前は一度も呼ばれません。指揮者はマエストロと呼ばれ、ゲッペルスと思しき宣伝相は「大臣」とだけ呼ばれる。それ以外の人物も名前では呼ばれない。新聞記者、事務局長、秘書…でも、かれらの顔ははっきりと観客の心に刻まれる。

野木さんの作品は、見終わった後その物語で描かれた出来事や人物をついつい調べたくなっちゃう率が異常に高いんですが、今回もフルトヴェングラーを調べて、劇中でも描かれるヒンデミット事件のことを知り、22年前(19歳でこの作品を書いたんですってよ!もう卒倒しそう)の野木さんはフルトヴェングラーのこの新聞投稿から、この「あったかもしれない」物語を紡いでいったのかなあ…と想像してしまいました。

芸術にすべてを捧げ、すばらしい音楽の前では人種も思想もなんらの壁はないはずだ、と信じるひとたちであっても、ああして一歩ずつ「引き返せない河」を渡っていくことになるのか、と思わせるナチ政権側の描写がすごかったですね。暴力にものを言わせるシーンは皆無ですが、ひとつの譲歩を引き出し、その譲歩の穴に手を突っ込んで引き裂いていくような手練手管。おそろしい。心底おそろしいと思いました。

だからこそ、その中で登場人物たちが見せるかすかな抵抗の光がことのほかまぶしく感じられるんですよね。新聞に投稿したマエストロ、それを掲載した記者、ベートーヴェンの第九…。ナチの制服を身に着けながら、楽団の音楽に心をゆさぶられる将校の二面性、語られない彼のバックボーンに想いを馳せてしまうし、あと個人的にいちばん印象に残ったのはユダヤ人楽団員たちに米国での移籍先をあっせんし、きみらが音楽を続けていくことがなにより大事だ、と語る事務局長のあの言葉。弱腰のように見られている彼が見せたその矜持に思わず涙がこぼれました。

ほんとうに見事な群像劇で、今回は女性がその中にいるのも個人的にはうれしかったです。野木さんが女性をどう描くかって、やっぱり興味ありますもんね。ナチの宣伝大臣を演じた植村さん、こういう酷薄な役柄だとことのほかあの美声が冴えに冴える。マジでいい声すぎます。

政治に対して芸術がなしうること、という問題を遠い昔のどこか遠い国のことで片付けてしまうのではなく、思わず自分の胸に手を当てて考えさせられる作品でした。しかし、これを19歳で書いちゃう野木さん、しみじみ、すごい!