悪霊に挑戦や

ここんとこずーっと「井上の歌」が頭を回ってて、井上を劇場に置き換えて替え歌を考えてしまったので深夜であることをいいことにそっと放流します。
ねんのため、井上の歌っていうのはこれです(10:00あたりから)。

知ってたよ 街は邪悪 家にいれば 天国
だけど劇場に ゆく僕さ だって絶望気取りたくないから


三密に気をつけよう
おしゃべりは控えめに
入場時に体温計り様子を見よう
換気はこまめにして
足裏消毒もやろう
不要不急と1分間で何回言える?
帝劇の中に入ろう 下北にも出かけよう 南座の中に入って仕組みを見よう


観客そこから何を見た ぐるぐる劇場どう変わる
ホリプロ 福田雄一は好きですか
ブリリアの目的は結局何?


ディスタンス保とう 一席飛ばし
最前のお客様 フェイスシールドを


知ってたよ 街は邪悪 家にいれば 天国
だけど劇場に行きたくて 自粛に別れを告げる僕


必死に手指を洗う僕
マスクは忘れずつける僕
COCOAに登録する僕
コロナの威力に驚く僕


観客そこから何を見た OH…

はー。
劇場大好き(寝なね)。

「八月花形歌舞伎」

第四部「与話情浮名横櫛」

幸四郎さんの与三郎、児太郎さんのお富で。幸四郎さんの与三郎、初めて拝見しましたが、はまらないわけないよねと思ってたし、また児太郎さんのお富がメッチャいい!!いやーこれは血だよねって言わせてほしいけど、あの婀娜な女っぷりをやらせたときの輝き、お父さまを彷彿とさせる。声もいいよな~~。すごいなと思ったのは芝居の中に「ソーシャルディスタンス」をちゃっかり取り入れてて、紅をつけるところも、ラストの紐を手に取り…みたいな演出で笑いも誘いつつシッカリ見せるの、舌を巻きました。コロナ以後で創作物はどう変わるか?って話はよくあがるけれど、今回の遠征で見た舞台のうち、もっとも(コロナを象徴するような)ソーシャルディスタンスを消化してたのが歌舞伎だっていうのが面白いですよね。これは歌舞伎という芸術がどこかメタ的な楽しみ方をするからこそで、ほんっと、懐深いぜ…!と唸りました。

第二部「棒しばり」

勘九郎さんと巳之助さんのコンビでおやりになるのは5年前の納涼以来ですね。そのさらに2年前には、三津五郎さんと勘九郎さんで踊られたのだよなあ…としみじみしてしまうし、もっといえばやはり勘三郎さんと三津五郎さんのことも頭をよぎってしまうのだった。いやしかし、そんなおセンチメートルな気分を吹き飛ばすほどに、ただ、ただ、楽しそうだった。勘九郎さん、めっちゃくちゃ楽しそうでしたね!!いやもう、顔から「楽しい~~~~~!!!!」ってオーラが音を立ててあふれ出てくるようでした。また5年前と比べてお互いの力量があがり、あがったうえで息が合ってるから、舞台の全方位が隙のない楽しさでうまっている感じ。扇雀さんがこれまたむちゃくちゃよくて、いやーどこを見ても楽しい…芝居見物の醍醐味かよ…とうっとり。

第三部「吉野山

猿之助さんの佐藤忠信七之助さんの静御前、猿弥さんの速見藤太の顔合わせ。澤瀉屋さんの吉野山、初めて拝見したのでむたくた新鮮だった…!そして猿之助さんの古典を見るのもちょう久しぶりのような気がする。あの目線をくばるたびに客席がぎゅぎゅぎゅーーと吸い寄せられる感じ、ほんとすごい。は~あ掴まれる掴まれる、と2階席から楽しく拝見しました。七之助さんの静、出のときからずっと客席のうっとりが続く美しさ。猿弥さんの藤太の楽しさは鉄板。満喫しました。

余談ですが、歌舞伎座の入場時のコロナ対策、9日に第二部を見た時はアルコール消毒+検温からチケットもぎりの順だったのが、同日の第三部でチケットもぎりからの消毒検温に逆転してた。きっと私のようにチケットを手に持ったままうっかりアルコールをびしゃーってやる客がいっぱいいたに違いありません(いや、手元にチケットご用意してから入場しようとするとさ…どうしてもさ…)。

「赤鬼」

当日券で拝見しました。14時開演の場合、10時から12時半までのあいだに整理番号配布、12時50分に当選番号発表(webで見られる)、13時から販売。キャンセル待ち番号の人は開演10分前に集合してキャンセルが出れば見られる、という販売形式。このご時世なので前日電話予約等よりも、当日確実に現場に来られるひと、かつ行列を作らせない形式…っていうことなのかな。正直めちゃくちゃラクなので今後もこの方式採用してほしい。整理番号もらったあとホテルで休んで、webで当選確認してから出かけられるってむちゃくちゃありがたい。

野田さん自身の演出による「赤鬼」は16年ぶりだそう。え?ホント?そんなに?ロンドン、タイ、韓国といろんなところで上演の話を聞いてたり他の人が手がけたものを見たりしていたせいか、そんなに久しぶりという感じがなかった。今回は野田さんが自らオーディションで選んだ「東京演劇道場」のメンバーが4チームに分かれて公演を行っています。私が拝見したのはCチーム。

四方囲みの舞台で、座席はちょうど椅子一つ分空くような形で設置。自由席でした。舞台と客席の間には透明のビニールカーテン。これ、最初に劇場に入った時は興を削がれるかなと思ったんですけど、開演してびっくり。思わず「え、消えた?」と思うほど目の前がクリア。対面の客席を見るとビニールに反射してるのがわかるのだけど、明かりが入ると目の前はまったくビニールの存在感がない。いやーおもしろい。これは感染防止としての役割もあるけど、なによりある種の劇的効果があるんですよ。これ蜷川さんが生きてたらこのビニールを使って遊びまくるんじゃないかと思いました。

今回の赤鬼はキャスト数としては日本版よりも圧倒的に多いタイバージョンを底本にしていて、それもどうしても見たかった理由のひとつだったんですが、なにしろキャストが多い!そして若い!ので、途中「オッケーいっかい落ち着こうか~!」と声をかけたくなるテンションの高まりに、いやこれビニールカーテンあってよかったなとちょっと我に返りました。キャスト全体に言えるんだけど、皆台詞として投げる球の球種がやっぱり限られてる。球種の少なさとテンションの高さって関係してると思ってて、球種が少ないからこそ芝居のアクセルとブレーキがもっぱら声の強弱に依るような部分があると思うんですよね。

しかし人数が多いからこそ見える風景も確実にあるし、というかこれで「島の人々」が自分の知らない言葉を喋り、赤鬼だけが理解できる言語を使って演じられたとしたら…まったく違った「赤鬼」の物語が見えてきたりするんだろうな。

そして何よりホンの強靭さ、それに唸りました。むちゃくちゃ強い。初演の1996年から構造をまったく変えていないのだけど、あの時代にも有効だったし、今なお有効だし、感染の二文字を誰もが頭に思い浮かべるこの時に、排除される「あの女」たちに今の私たちの現状を重ねてしまう。初演から24年の時を経ているからこそ、結局私たちはここからどこにもいけないのか、という暗澹とした、絶望にも似た思いがよぎる。しかしそれでも、赤鬼はやっぱり「向こう」を見せてくれる芝居で、だからこそずっと大好きだし、何度でも見たくなる作品なんだろうなと思いました。その向こうにあるのが何であっても。ひとが山に登るのは、見通せる向こうが欲しいからだ…。初演の時から大好きな台詞です。

スケジュールを見て、自分が見られるとしたらCチームだなと思い、顔ぶれを確認して、このメンバーだったらきっと川原田さんがミズカネをやるに違いない、と踏んでいたのですけど、あたりでしたね。いつも野田地図作品を見るたび、いい仕事なさってるなーと注目していたので、生き生きとミズカネを演じられるところを拝見できてうれしかったです。

「大地」

パルコ劇場リニューアルオープニングシリーズのうちの一作で、三谷幸喜さんの新作。これでもか!と音がしそうなほど豪華なキャストを揃え、チケットももちろん即完売…のところ、新型コロナウイルスの影響を受けいったんすべてを払い戻し、販売客席を半数以下として幕を開けたのが7月1日。

個人的に2月以来、半年ぶりの劇場でした。もっと感傷的になるかと思ったけど、そうでもなかった。緊張していたからかな。
以下、展開に関するネタバレがありますので、大阪公演をご覧になる方はお気をつけて。

舞台はとある共産主義国家、国の政策によって反政府主義のレッテルをはられた芸術家たちは強制収容所に送り込まれる。家畜の世話に明け暮れ、「最高指導者の偉大な考え」を刷り込まれるだけの毎日のなか、とある収容棟に偶然集まった「俳優」たちは演じることを取り上げられた日常とどう向かい合うのか、という物語。

手触りとしては同じくパルコ劇場でかかった三谷さんの「国民の映画」に似たところがあるなと思いました。芸術に対する国家の抑圧を描いていること、それに対する芸術家たる彼らの人間性、その矜持を描くと同時に、その当てにならなさを抉り出しているところが特に。ある意味ではこれ以上ないほど時宜を得た作品であるともいえて、思想や独裁主義からではなく、感染症という問題に端を発しているにせよ、かつてこれほどまでに「演ずること」が抑圧を受けた時代はこの数十年、いやもっと長い単位でなかったことかもしれません。劇中繰り返される「発声練習、スクワット、ホンがあるならそれを読むこと、それが今できる役者の仕事だ」という台詞に、家の中にとどめ置かれた日々を想い出さない観客はいないのではないでしょうか。

そういった時流を反映した(した、と思わせる)台詞だけではなく、「ダメなホン」への役者の諦観など、普遍的な台詞の面白さもふんだんにあり、三谷さんはこれを書きながら役者が実際に演じるところを想像してひとりほくそ笑んだのではないか…とおもうくらいです。

一幕の終盤では文字通りのハラスメントの末に、「人間の尊厳」のかわりに手に入れた卵を拒否し、みごとな「ディナー」を演じてみせる役者たちを見せる一方で、二幕のラストでは文字通り命がかかった局面で彼らの人間性が鳴りを潜めてしまうところを書ききるのが、少なからず「歴史」を前にしたときの三谷さんらしい展開、きれいごとだけを書くことをよしとしないところだなと思いました。

ところで、この舞台の二幕のとある展開は、その他のシーンと微妙にリアリティラインを異にするような部分があります。若いふたりの逢瀬の時間を捻出しようと登場人物たちが文字通り「ひと芝居打つ」わけですが、その切迫性(あの雁字搦めの収容所生活において、ここまでのことを起こす動機として十分なのかどうか)も含め、他のシーンとの重さの違いが如実なんですよね。しかしながら、これこそまさに芝居のマジックとでもいう面白さで、ここで若いドランスキーを足止めする辻萬長さんの、浅野和之さんの、山本耕史さんの、キャストそれぞれの「持てる武器」によって観客と劇空間がねじ伏せられていく、その愉悦。とくに辻萬長さんの「父としての語り」が白眉だと思うんですが、まったく相手の台詞を受けない、一方的な演技に相手が飲み込まれ、次に観客が飲み込まれ、最後には観客全員が声に出さずとも、ドランスキーに対して「言え!言っちゃえ!」と気持ちを一つにする。そこに放たれる「おとーーさーーん」だからこそ、客はそれを万雷の拍手と爆笑で迎えるわけです。これは演劇だからこそできる極上の嘘で、あのシーンではそういった綺羅星のごときキャストらが、その魅力を大玉百連発とばかりに打ち上げるんですから、盛り上がらないわけがない。

苦いラストを描きながら、あのときその人間性を放棄した役者の多くが二度と舞台にあがらなかったと語らせるところ、もしかしたら…と一縷の望みを持たせる台詞を言わせるところ、なにより最後に「あったかもしれない」愉快な旅公演の姿でしめるところは、三谷さんのやさしさなのかもしれないですね。

照明も舞台装置も小道具も、なにもかもいらないが、演じるうえでもっとも失ってはならないものは観客だったというその台詞を、三谷さんが初めから書いていたのか、いま、この時だから書いたのか、それはわかりませんが、森羅万象を乗り越えてこの客席に辿り着いたもののひとりとしては、沁みる台詞でした。

大泉さんの演じる役はいってみれば舞台監督的な立ち回りをする人物なんだけど、この役を大泉さんに振るあたり、本当に三谷さんは大泉さんが好きだし、自分のおもう芝居のトーンを実現してくれるということについて揺らがない信頼があるんだなあということを感じる2時間半でした。辻さん浅野さんの「腕に覚えあり」チームの芝居の確かさ!舌を巻きます。ほんとうにすごい。山本耕史さんがここぞとばかりに出すスターオーラ、それと相反する器の小ささ、それをちゃんと納得して見せられる芝居の確かさよ。竜星涼さん、我らがタカシフジイ、栗原さんに相島さんに小澤雄太さんにまりゑさん…全員がこの舞台に対して最高の仕事をしてくれていたと思います。

わたしが観たのは東京の楽前で、まさに完ぺきといっていい仕上がり、だから楽前が好きだよあたしゃ…としみじみ思いました。完全に熟れて、落ちるか落ちないかの境の果実のような芳醇さ。カーテンコールのあと幕が下りて、三谷さんのアナウンスがダブルのカーテンコールはないよ、浅野さんはもう寝ちゃったよと冗談めかしながら退場を促すのを聴いている観客はみな笑顔で、席を立ち、通路を歩きながら、ダブルのカーテンコールはないことを承知で、拍手で舞台を讃えていて、それを見ている劇場スタッフさんがマスクをしながらでも笑顔なのがわかって、私はいま劇場にいるんだな、ということをこのとき、痛烈に実感しました。6か月ぶりの劇場での観劇で、芝居を観始めてから30年以上、こんなに長いこと劇場に足を運ばなかったことはなかったけれど、自分が何を求めていたのか、自分が何を好きでいたのか、何を愛していたのかを思い出させてくれた2時間半でもありました。楽しかったです。来てよかったです。

「ドクター・ドリトル」

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タイトルロールをロバート・ダウニー・Jrがつとめ、動物たちの「声の出演」に文字通り「綺羅星のごとく」スターが集まった「ドリトル先生」の実写映画。監督はスティーヴン・ギャガン

もともとが児童書なので、あえてそういうテイストを狙っているのかなとも思うのですが、筋立てがすごく紙芝居っぽかった。1枚1枚の絵力はすごいしめちゃ引っ張られるんだけど、次の絵までの繋ぎが逆にさらっとしすぎというか。エピソード、めくってまたエピソード、という感じ。物語のダイナミズムを楽しむという点ではちょっと食い足りなかったかなあ。

しかしRDJの「そこにいるだけで絵が持つ」力と、これでもかと出てくる動物たちのキューティぶり、スタビンズ少年の健気さ、機転の利きようも良く描かれていて、力業だけど、見せられちゃうな~!と思いました。敵役のマイケル・シーンさんもすごくよかった。

RDJの吹替えを長年つとめられてきた藤原啓治さんに敬意を表して吹替えで鑑賞したんですけど、いろんな動物がワーーーッ!と一気に喋るのでこれは吹き替えで正解だったかも。みなさんはまり役だったし、ダチョウのプリンプトンの八嶋さんが絶妙にいい味出してて内心拍手喝采でした。あと私はやっぱりシロクマが好き(笑)

「ストーリー・オブ・マイライフ/わたしの若草物語」

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原題はLittle Womanと原作そのまま。しかし、これを最初に「若草物語」と翻訳したひとはすごいね。もはや、これ以外のタイトルは日本では考えられない。だから映画の邦題にも「若草物語」を引っ張るのは当然だし、しかしこの映画自体は「若草物語」そのままを実写にするというよりももっと大きな枠組があるし…ということでのこのタイトルなのかな。監督はグレタ・ガーウィグです。

若草物語」での出来事をジョーが振り返る過去の時系列と、今現在の「続・若草物語」の時系列が交互に描かれるんですが、その現在の時系列がラストでもうひとつ分岐し、ジョーが書いた物語としての展開と、それを書いた「ジョー=ルイーザ・メイ・オルコット」としての今、がさらに交錯するという構成。本を書き上げて、ジョーが映画のこちら側にむかって語り掛けるところが物語との分岐点かな。しかしぜんぜん複雑さを感じさせずすっきり見られるのは監督の手腕だな~と思いました。でもって、監督の見せたいものは、「自由な中年女になりたい」というかつての作者(作中ではジョー)の願いであり、それを若草物語は物語として見せつつも、「今」の映画にするためのこれがフックだったんだろうなと。

4人のキャストもイメージぴったりで、特にジョーのシアーシャ・ローナンとローリーのティモシー・シャラメの2人はぜんぶのカットにケミストリーがあふれとる!!!って感じでした。あのダンスのシーンの!!よさ!!!ほんと魅力爆発してたな…。ジョーじゃなくてローリーが相手のくれたおもちゃの指輪を大事にしているところが象徴的だけど、男女の役割をフラットに描こうとしてたし、だからこそあの終盤のジョーの「秘密の小箱」に忍ばせた手紙とのギャップ、その物語を突き放して見ている作者の目…という展開がすっと胸に落ちた感じがあったなー。エイミー役のフローレンス・ピューもすんばらしかった。彼女の低い声が映えるエイミーだった。女にとって結婚は経済と言い切るエイミーはジョーとは違う方向ではあっても自由な中年女を心に飼っているひとりなんだなあと思った。

原作の「若草物語」、もちろん読んだことがある、読んだことがあるどころではなくて、何度も何度も、繰り返し読んだ本でした。出てくるエピソードは全部覚えてたし、自分のイメージ通りだった部分もそうでない部分も楽しめました。しかし、それはそれとして、見ている間心のどこかでずっと考えていることがあった。私はこの4姉妹のなかで、ベスがいちばんのお気に入りでした。今で言えば「ベス推し」とでもいいましょうか。こうして「今」の映画になったこの物語を見る時、ベスの存在ってなんなのかな、ということを考えちゃったんですよね。若草物語自体は実体験をもとにしているとしても、古今東西の物語に「ベス的なもの」ってすごくたくさんあるじゃないですか。とある劇作家の言葉を借りれば「他人の人生を生き生きとさせるのに必要で、それでいてなんの実体も持たない存在」。子供の頃本を読んでいた時にはまったく感じなかったことだけど、今回の映画を見ているときに、それでベスという人は実際どこにいるんだろう?何を考え、何を嫌い、何を好きだったのか。ほんとうに皆が口をそろえて言う「天使」だったのか。そういったピュアネスを具現化したような存在を、若草物語に限らず長じてもなお贔屓にしてしまう自分のこの性質はどこからきているのか。ジョーはベスによって、もっといえばベスの死によって自分の人生の実体を手に入れる(と本作では描かれている)し、そこにこの映画の力点が置かれているいっぽう、グレタ・ガーウィグの興味はベスの上にはないのだなあということも感じたんですよね。

ジョーやエイミーが100年前に描かれた小説から現代へ飛び出してくるような息遣いを見せた、その輝きに惹かれつつも、「自由な中年女」になれなかったベスのことを考えてしまったあたり、幼少期に刷り込まれた物語の力は容易に消せないな…としみじみ思いました。

はなれても はなれても

5月末から6月にかけて配信・放送されたWOWOW製作のリモートドラマ「2020年 五月の恋」、みなさまもうご覧になりましたか。WOWOWに加入していなくても、youtubeで期間限定無料配信中なので、誰でも、どこでも見ることができます。1話15分×4話なので、通勤時間でも、お昼休みでも、家事の合間でも、寝る前のひとときでも、パッと見られる。ほんとうにおすすめなので、この先私がうだうだ書くことを読むよりもまずドラマをご覧になっていただきたい。

さて、この2~3か月あまり、通常のドラマの撮影はおろか、「出歩くことが制限」される中で、作り手の方々も試行錯誤のあともあらわ、というような感じでいろんな企画がありました。リモートドラマもいろんなタイプのものが作られましたね。好きな役者さんだったり好きな脚本家さんが絡むものも多かったので、なるほどこういうアイデアもあるのか!だったり、対話で作劇していくにあたってのリモートの難しさを実感したり、いろいろありましたが、個人的にはこのWOWOWの「2020年 五月の恋」がその白眉と言う感じでした。

ここから先はドラマをすでに見ているという前提で話を進めますが、距離の離れたふたりの会話劇をドラマにする、という設定から、その「対話」をまず「電話」にさせた岡田惠和さんの脚本がすばらしい。離れていても対面できる「zoom」をはじめとする新しい機能を活用しようとする動きが目立つ中、いや、そもそも離れた二人が会話するなら電話でしょう、という原点回帰。そうなんだよ、そもそも離れた二人のコミュニケーションて電話か手紙だったじゃないですか。

で、さらには4話中3話まで、2人は顔を合わせない。電話をどちらがかけるか、というアクションも混みで、最初の間違い、次のお返し、最後は駆け引き、と3パターン見せるのもさすが。そして満を持して第4話でようやく、ふたりがお互いの顔を見る。そこで出る「やっぱりおれが、世界で一番好きな顔だよ」。この一言をパンチラインにできるのも、「顔を見る」という行為を4話までさせないからこそなんですよ。さらに言えば「今でもきれいだ」とか「変わらない」とかじゃなくて、「俺が世界で一番好きな顔」これだよ!!!そこからやたらメロウにならず、どんどん面白思い出話に転がっていくのもすばらしい。はーすばらしい。

カメラはそれぞれの登場人物の部屋に固定されていて、2方向からの映像を切り替えることしかできない。でも、これがよかったんですねえ。zoomなどを使った配信をたくさん見ているとどこか疲弊しちゃう自分がいるんですが、それってたぶん、ずっと表情だけが映ってることの弊害なんじゃないかと思うんですよ。視界を固定されているというか。人間の視線って実のところむちゃくちゃ自由なので、その自由の薄さに息苦しくなるとでもいうか。

このドラマもカメラは固定なんだけど、ずっと引きの映像なんですよね。基本的に全身が収まる距離で撮られている。でもってね、これ途中でユキコを演じる吉田羊さんが思わず高ぶって涙してしまう…というシーンがあるんだけど、そこでカメラが寄らないんですよ、当たり前だけど!泣いてる女優の顔をとにかくアップで撮ることを「品がない」つってた大女優さんがいましたけど、ほんと寄る必要って1ミリもないな…っていうことを改めて思いました。

ユキコさんはいわゆるエッセンシャルワーカーで、対するモトオはリモートワークで家にこもりきり。対面で仕事をしなければならないプレッシャーを職場で分かち合うなか、独身のユキコさんが家族持ちで家庭内での感染をおそれる仲間から言われる「ユキコさん大丈夫だね、うらやましい」のひとことを丹念に解きほぐしていくところ、本当に涙が出ました。いやわたしの職場でも、実際そういった「接触機会の多い現場」にはまず独身が立たされるという選択は当然にあって、しかもそれって「正しい」ことなんよね。感染を拡大させないためにはさ。でもその正しさからこぼれるものって絶対あるじゃないですか。

エッセンシャルワーカーのユキコさんを「ほんと、戦士だよ」とたたえるモトオと「それはみんなでしょ」と返すユキコさんの会話も、岡田さんがほんとうに「今書くべきことを、今書くべき人に」書いた、という思いがあふれているなあと思いました。

この企画の発起人は吉田羊さんで、羊さんは「12人の優しい日本人を読む会」に参加したことがきっかけで2時間の演劇が成立するなら連続ドラマだっていけるのでは!?と企画を動かしはじめたそう。脚本の岡田さんも「あっという間に」ホンを書き終わったらしく、いろんなひとの「今やりたい」ことの泉に水路を繋いだからこそのスピード感だったんだなと。大泉さんの登板は吉田羊さんたっての希望らしく、①映像だけど舞台のテンションで芝居ができる②間や呼吸を読むのうまい③重くなり過ぎずチャーミング、という要件を叶えるのは大泉洋しかいない!と完全に落としにかかってますよね。いやでも、さすがの呼吸、さすがのテンポ、エモーショナルな部分もファニーな部分もどっちも味わわせてくれて、おふたりの芝居のうまさと相性の良さを改めて実感いたしました。

7月5日には4話までをまとめて1本にし、さらに未公開映像を含めた「特別版」が放送されるそうです。こういう企画が出るってことは好評だったってことなのかなー。うれしいですね。そちらも楽しみに拝見したいと思います!