「ピローマン」

昨年のWEE THOMASに引き続き、マーティン・マクドナー長塚圭史の組み合わせ。古典でないストレートプレイの翻訳物をタイムラグなく翻訳上演(しかも決まったコンビで)していくというのはすっごくいい!と思う。いいコンビでやってくれると元の作家にも興味が湧いてくるし、そうするとそれがその作家自身への興味にも変わってくるし。長塚さんとマクドナーのコンビは、幸福な出会いの一例なんだろうなあ。

作家が作家の話を書く、というのは、どうしても深読みしたくなる部分があって、中でも最後の最後まで「作家の書いた物語を捨てるか、捨てないか」ということに焦点があたっているあたりが興味深い。「何を残すのか」「何が残るのか」ということ、それこそが自分の証である、だから「物書きの唯一の義務は物を書き続けること」なのだろうか。劇中であんなにも美しいやりとりを見せるミハイルとカトゥリアンの兄弟だが、「作品」に関してだけ二人はまったく相容れない。カトゥリアンは今からお前達兄弟とこの作品、3つのなかで二つ焼き捨てろと言われたらあんた、俺自身の順番で差し出すとまで言っているのだ。「作品だ、作品だ。作品だけが全部なんだ」と。最後に与えられた7と4分の3秒の間にカトゥリアンが心に思うミハイルは「僕がいなければ弟の作品は生まれないでしょう?」と言う。でもそれは、それによってミハイルも「何かを残した」ことになるというカトゥリアンの思いに過ぎない。それこそがカトゥリアンにとってのハッピーエンドなんだろう。ミハイルにとっては、そうじゃなくても。

ミハイルにとって、ほとんどすべてのお話はノンフィクションだった。だから「実際にやってみたら本当にそうなった」ことを喜ぶ。それは物語の中の出来事じゃないか、という言葉はミハイルには空しい。なぜなら「ぼくのお話だってほんとうだった」のだから。カトゥリアンは「二人の兄弟の物語」だけが唯一ノンフィクションだと言ったけど、もしかしたら「ピローマン」も彼にとってはノンフィクションなのかもしれないな。家族をみんな枕で殺してきた彼にとって、枕は優しさと残酷さの象徴だったのかもしれない。お話の中で子供の頃のピローマンを焼いたカトゥリアンが、自分のところにもピローマンが来てくれることを願っていたのかは、わからないけれど。

冷静にかつ非情にカトゥリアンを責め立てるトゥポルスキが、ピローマンの物語を「心に触れるものがあった」と言い一瞬彼の自制を解くシーンは、この舞台の中でもっとも美しいシーンのひとつだと思う。

劇中でいくつもの「お話」が語られますが、個人的にもっとも気になったのは「三つの晒し台のある十字路の物語」、そして刑事であるトゥポルスキが語る・・・えー、「中国で」(略しすぎ)の二つです。前者は、単純に話としてとても惹きつけられますが、後者の話はなんというか、トゥポルスキの言葉じゃないけど「象徴」している話のような気がしたからです。もちろん、トゥポルスキ自身の解釈は頓珍漢なわけですが(作者なのに)、彼は皮肉にも彼の言葉通り、塔の中の老人の役割を担っているんだなとも思ったんです。話の中の塔の老人は計算式を紙飛行機にして飛ばし、あとは見向きもしません。でもそれが結局つんぼの男の命を助ける。そしてトゥポルスキは2と4分の1秒だけ早く引き金を引き、あとは興味を失ったかのように部屋を出ていきます。しかし残り2と4分の1秒で話の結末に辿り着かなかったおかげで、「よくある陰気な結末」から解放され、そして原稿は箱の中に仕舞われる。カトゥリアンが何よりも残したいと思ったものは救われるのです。

一幕の後半でミハイルとカトゥリアンの会話が交わされますが、お話を聞かせるカトゥリアンがミハイルの頭を優しく撫でながら、「この(小さな緑のブタ)話が好きだったんだな・・・。この話をやってみれば良かったのに・・・」と語り、兄さんは悪くないと涙するシーンでは不覚にも涙がこぼれそうになったのですが、二幕でちいさな緑の女の子が部屋に駆け込んで来た瞬間のカトゥリアンの心を思うと胸が締め付けられるような思いでした。彼の胸によぎったのは女の子が生きていた安堵か、兄さんを殺してしまった後悔か、もしくは、兄さんは自分の物語を心底愛してくれていた、という喜びなのか。

休憩15分を含む3時間半の舞台。登場人物はほぼ4人のみ。なかでも高橋克実さん演じるカトゥリアンは出ずっぱりの喋りっぱなし。山崎一さんも近藤芳正さんも、もちろん中山祐一朗さんもだが、非常に難役だと思うけれどもいやしかし素晴らしかった。3時間超、会話劇、翻訳物。もう、個人的な経験からいくと「寝る準備は整いました」みたいな感じすらある組み合わせですが、しかし1幕の120分をまったく飽きさせないとは脚本・演出の力ももちろん、この4人の役者にも大きな拍手を送りたい。ものすごい集中力で客席をぐいぐい引っ張っていってくれる。高橋さんと山崎さんのうまさは個人的に実感を持って経験済みだったんですが、近藤さんもやはりさすがだなあ。中山さんも、この中にあってすごく頑張っていると思う。っていうか、3人がうますぎと言ってもいいので、中山さんのテンポがちょっと違ってそれが逆に良かった。あれでガチの4人だったらあまりのことに観ながら疲れ切ったかもしれん。

もうひとつ、おそらくたくさんのひとが後藤ひろひと作「人間風車」を想起したんじゃないかと思うんですけども、ほぼ同年代のこの作家二人が「お話」というものに対してこういうアプローチをしてくる、というのは面白いなあと思いました。カトゥリアンの書いた本の中に「人間風車」が入っていてもまったく違和感がないような。なんとなく、マクドナー氏に感想を聞いてみたい気もします。