「漂う電球」オリガト・プラスティコvol.3

パンフでの対談でも「暗い」「救いのない話」とケラさんが対談で言っているのだが、そうかなあ?救いないかな、これ。個人的にはぜんぜんそういう感想は抱かなかった。私が思う救いがないってのはあのお父さんの持ってたピストルでお兄ちゃんが間違って弟撃っちゃうぐらいの話だよ(笑)

ウディ・アレン版「ガラスの動物園」ともいえる、と作品紹介にも書かれているとおり、確かに構図は「ガラスの動物園」を彷彿とさせるものですが、ローラとジムの関係とイーニッドとジェリーの関係は違うし、ジェリーとポールの関係ともちがう。「漂う電球」はローラの役割を分散させているからこそ「救いのなさ」を感じるところが薄いのかもしれないなあと思った。

イーニッドとジェリーはもちろん、あの一時思いを通じ合わせているわけだけども、それは決して持続するものではないとふたりともどこかで思っている感じが常にあります。新歌舞伎の「ひと夜」とか、ローレンス・カスダンの「再会の時」でもそういう関係が描かれていたけど、どこかへ逃げ出したい、ここじゃないどこかへ、という思いを心の底に秘めているふたりが偶さかのふれあいに心を慰められる、だけどそれはその夜にだけ起こる、マジックのようなものなんですよね。でも、叶わない思いだからといってそれが救いのなさに結びつくかっていうとそうじゃないと思うわけで、ジェリーと実際に手に手を取って逃げ出したあとの現実よりも、あの一時だからこそ、永遠に心を慰められるということもあると思うんだよなあ。だってイーニッドはお花までちゃんともらえたじゃない。

ポールはこの世界とうまく付き合っていく方法に「マジック」を選んでいるわけですが、それはあくまでも「うまく付き合っていく方法」であって、「抜け出す手段」ではないというのもガラスの動物園のローラと違うところなのかなと。

全てをぶちまけて、一時の夢も潰えて、がらんとしてしまったラストの家の風景の方が、オープニングの閉塞感漂う風景よりもすがすがしく思えたのが、何より「救いのなさ」と縁遠く思えてしまった要因のような気もします。

最後にポールが弟スティーブにだけ見せる「漂う電球」のマジックはとても美しいしね。

1幕に渡辺いっけいさんがまったく出てこないのでなんて勿体ない・・・!と最初は思ったのですが、2幕の広岡由里子さんとのシーンは素晴らしく、いや前言撤回、全然勿体なくなんてなかった!これだけの充実感をありがとう!という感じでした。岡田義徳くんはこれで拝見するのは3度目?ぐらいだと思うけど、なんでもさらっと出来ちゃう(ように見える)ところがすごいなと。私のお気に入り高橋一生くんは可愛さもあり、小憎らしさもあり。個人的に一生くんは笑いの間がめちゃめちゃいいと思っているので、是非ともケラさんのナンセンスコメディに使ってみていただきたいところ。

しかしまあ、広岡由里子さんというのはすげい役者だよ、まったく。どのシーンもカットアウト前が全部広岡さんの台詞なのな。テクニカルな部分でもエモーショナルな部分でも難しい役だろうなあと思うのに、ほんとになんの苦もなくやってます、むしろ地です、ぐらいな空気すら漂うのがすごい。あの母親としての狂乱ぶりと、実は誰よりも夢を食べて生きているふわふわとした感じ。

ヴァージニア・ウルフ」の時も思ったけど、ケラさんて翻訳物の演出してもぜんぜん「翻訳物くささ」が出ない希有なひとですよねえ。語尾を適度に変えているらしいんだけど、その効果なのかなあ。やたら名前を呼んだり(ジェリーと呼んで下さい、じゃ私のこともイーニッドと呼んで、みたいなやりとり絶対あるじゃないですか翻訳物)感嘆詞が突然割り込んできたりする不自然さが観ている間まったくない。どういうマジックなんだろう。是非ともタネを教えてもらいたいものです。