わかりやすい病

つらつらとどうでもいいことなんですが、最近ほんとうにいろんなところで「わかりやすい」が至上命題になってるなーと思うことがしばしばあります。わかりやすいを目指しているというより、「わかりにくい」を徹底排除してるっつーか。「わからない」「わかりにくい」っていう時点でアウツ、とにかく噛み砕いて噛み砕いて!

それがダメだと言いたいわけではないんですけど、というのはたとえばほんの15年、20年まえぐらいはですね、まだ「わかりにくくてナンボ」みたいな風潮が少し残っていて、誰が見てもわかるような、そんな芝居はオンナコドモのやるもんだ的な?そういう空気がなかったとは言わせない。だってあの三谷幸喜さんの作品がですよ、「笑えるけれど、ただそれだけの作品だ」とか言われちゃってたんだものよ。それに対して三谷さんは「それは僕に対する最大の賛辞だ」と切り返していたけれど、でも今そんな批評する人いますかね。今や笑いイコール正義、面白いものが正しいというような空気さえあるわけで、でもそれは本当にここ何年かの話だと思うんですよ。だからこそあの当時新感線や三谷さんやキャラメルボックスはある意味異端だったとも言える。

でもそれってどうなのーとも思うわけじゃないですか。わかりやすい作品の、なにがいけないの?

それと全くおなじことで、わかりやすい作品がいいっていうのはもちろん大事、だけど、わからない作品の、なにがいけないの?と思ったりしてしまうわけです。
たとえば私は野田秀樹という人を本当に尊敬しその作品を愛していますが、でも過去20年にわたって見てきた作品の中で、もう隅から隅までばっちりわかってます!理解してます!なんて作品は、ただの一つとしてない!と胸を張って言える(威張るな)。でも理解してなきゃ好きになれないのかつったら全然そんなことはない。わかんなくたって好きになれるし、心を動かされる。それは役者の立ち姿かもしれないし、照明の作り出す色かもしれないし、音楽との相乗効果かもしれないし、舞台の上で一瞬現れ、そして二度と見ることの出来ない美しい世界なのかもしれないし。

わかんない作品を好きになれ!ってことじゃーないんですよ。好きになるのも嫌いになるのも観客の自由ですよ。でも創る人はもっとわかんないことやったっていいんじゃないかなって思います。わかんないことやってボロカスに叩かれたっていいじゃないかと思います。御輿のしたでわーわー言ってることに耳を傾けることなんてないですよ。まあいろいろよさんとかすぽんさーとかそういう大人な事情もあるのかもしれないけれど。なんてことを、週末の芝居三昧でふと考えてしまったことなのでした。