もう、帰るところがありませんから

昨日の公演をもって野田地図第22回公演「贋作・桜の森の満開の下」無事大千秋楽、おめでとうございます、そしておつかれさまでした。東京、パリ、大阪、北九州をめぐってまた東京へ。

結局、東京での初日を拝見したあと、大阪新歌舞伎座で1回観劇して、最初の頃は11月の東京公演をもう一回ぐらい観たいなあと思い、当日券がんばろうかなと思ってもいたのだけど、10月に新歌舞伎座で拝見したときの体験があまりにも自分の中で清冽に響きすぎて、ああもうこれでじゅうぶんでございます、という満ち足りた気持ちになり、そこからチケットを手に入れる努力を放棄してしまったし、開けてあったスケジュールも他の芝居で埋めてしまった。

大阪で初日ぶりに観た桜の森は、海外公演直後ということもありことのほか芝居の幹が太くなっていて、これは以前、海外公演を経験した他の劇作家も言っていた言葉なのだけれど、言葉が直接的に作用しない場で公演を重ねると、表現が深くなる傾向にあるというまさにそれだなあなどと思ったりした。当たり前だけれど初日はいろんなトライアルをしてみる場でもあるので、ああ、ここはもうちょっと…と思っていたところが見事にスッキリしていたり。たとえば、ラストで耳男が夜長姫の身体に桜の花びらをたくさんたくさんかけるのだけど、今回はセットで紙を使用しているのもあって、初日ではその沢山の紙もまるで落ち葉のように夜長姫の身体に重ねていた。しかし、これをやってしまうと、最後にさっと着物を取る場面で桜の花びらがうまく舞い上がらないのですね。あそこで裾を引きずるように着物を取り払うことで桜の花びらが一陣舞い上がる…というのは、むちゃくちゃ美しいシーンなので、これこのままでいくのかなと思っていましたが、新歌舞伎座で拝見したときにはちゃんときれいに舞い上がっていた。

最前列、ど真ん中という席での観劇で、なんというか…ごほうびかなこれは、ここまで思い続けたことへの、なんて思ったりしながら、あの美しいセット、桜の花びらが見えていないときでも、うっすらと影絵のように花びらが見えていて、そういう景色を堪能できたのもよかったし、すばらしいキャストの演技を文字通り目と鼻の先で拝めて、古田さんなんて、初日と比べて別人かよ!?ってぐらい仕上がったマナコだったし、何より深津さん、深津さんの夜長姫がほんとうにほんとうに素晴らしかった。こわいけれども見つめてしまう存在そのものだった。

この日の芝居の出来が完ぺきだった!とかでは全然なくて(というかこれだけの集団にもはやそんなこと思う方がおそれおおい)、結構ミスもあったりしたのだけど、それでも私にとって忘れがたい観劇であったことは間違いない。それはこの場所がもともと近鉄劇場のあった場所で、自分の中にそういうしんとした心構えができあがっていたことも無関係ではないだろうと思う。結局のところ、いつだって観客は観客の文法でしか芝居を観ることが出来ない。

この芝居が好きすぎて、何度も何度も何度も戯曲を繰り返し読んだり映像を飽くことなく見返したりしてきた人生だったから、いつもどこかに過去の亡霊を抱きかかえながら観ていた部分があったけれど、なぜかこの日はそういうことを思い出さず、頭の中で過去をリフレインさせることもなく、初めてこの芝居を観た日のようにぜんぶの台詞、ぜんぶの場面を観られたことがなによりもうれしかった。

東京の初日では、カーテンコールで恒例でもある野田さんがひとり舞台の中央に座して一礼する、ということがなくて、観劇後に友人たちと、今回はやらなかったね、と残念がっていたりもしたのだが、この日は3度目のカーテンコールで、野田さんがひとりで出てきて、舞台の中央にちょこんと座った。その瞬間、わたしと、わたしの隣にいた年配の男性がはじかれるように同時に立ち上がって拍手を送って、その寸分たがわぬ反応にもなんだか、時代を共有したひとと隣同士で観ていたのかな、なんて妄想を抱くことができて、それも幸せだった。

カーテンコールが終わった後、足もとの花びらを拾うふりをしながら、私は実のところ立ち上がれないぐらい泣いていて、この涙はどこからくるのか、ちっともわからない、でもつまるところ、これはやはり人間の持つ「ただ寂しさ」で、こわいけれどもみつめてしまう孤独の果てで、そうしてそういうところがないと、やっぱり人間は生きていけないということなのかもしれないな、とぼんやりと考えたりもした。終演後、誰かと話したいような、ひとりでいることがありがたいような、そんな相反する気持ちのまま上本町の駅から難波行きの電車を待っていると、過去にこのホームに立って抱きしめてきたいくつもの観劇の余韻までがよみがえってくるようで、また泣けた。

野田さんはこれで5度この戯曲を演出してきたわけだけれど、またこうして拝見するときはくるのだろうか?ということも、やはり考える。正直わからない。これが最後なのかもしれない。しかし、なんというか、誤解を恐れずにいえば、わたしはどこかすがすがしいような気持ちでいる。30年にわたってずっと好きでいさせてくれただけでなく、大きな夢まで見させてくれた。その夢には勘三郎さんという存在が深くかかわっていたわけだけれど、これほどまでにわたしに執念と妄想を抱かせた戯曲はたぶん、ほかにはない。今回の上演には、「伝説の」という枕詞がついたりしたが、伝説を伝説たらしめたのは、この戯曲そのものの力だけでなく、この戯曲に妄想をいだいてきた私たち観客の妄想力もその一端を担っているんじゃないかとおもう。これから先の30年間この戯曲を伝説たらしめるのは、これから先の観客の仕事といってもいいかもしれない。そうなってくれれば、私はまたふたたび、あの桜の森の満開の下に帰れるのかもしれない。そうなってくれればいいと心から思う。けれども今はしばしさようなら、またいつか、もう帰るところのない私たちのこの寂しさが、ふたたび桜の森の満開の下で会えることを願って。