「スリー・ビルボード」


…人間とは多面体であって、鯨を保護した同じ手で便所の壁に嫌いな女の電話番号書いて…

マーティン・マクドナー脚本・監督。おもしろかったです!!!間違いなく2018年のベスト級に残ってくる作品でした。幕切れのその一瞬まで私にとってはほぼ完ぺきともいえるようなタイミングでした。いやーよかった。

冒頭に引用したのは松尾スズキ作「キレイ」の劇中のナンバー「ここにいないあなたが好き」の一節だが、私はこの映画まさに、人間とは多面体であるという映画だと思った。当たり前のように思えるかもしれないが、映画でも、演劇でも、テレビでも、「ドラマ」にはどこか型にはまった人物像が連なることが多い。そこから自由になって物語を紡ぎながら、しかもそのストーリーテリングの威力は衰えない!すごすぎます。「こうなると思った」という予想、ある意味では気持ちよさを手放しながらも、「こうなるとは思わなかった」が決して唐突には思えない。なるべくしてなっているのに、物語の転がる方向が予測できない。いやはや、素晴らしいとしか言いようがない!どんなシーンでも基本的に「会話」で構成されるのは、戯曲を書く人ならではだよなーと思いましたし、そういうところも自分のツボだったのかもしれません。

物語の発端は、自分の娘がレイプされ焼き殺されたひとりの母親が、町はずれの道路沿いの大きな3枚の看板に警察を糾弾する「広告」を掲載したことから始まる。だがこの作品は犯人捜しをするわけではない。娘を殺された母親が権力を糾弾、その発端から誰もが想像する展開には流れない。母親であるミルドレッドは確かに悲劇に見舞われ、鋼鉄の意思をもっているかのように見えるが、すい臓がんを患っている警察署長の喀血に動揺し、看板を燃やされたことに対してあらぬ方向に報復し、そして娘との関係性においても彼女は自分自身に深い疵を持っている。

警察官のディクソンはレイシストで、すぐにキレ、持っている権力を暴力という形で揮う最低の人間だが、彼は燃え盛る火の中から捜査資料を救い出し、ボコボコに殴られながらもレイプ犯を捕まえるために爪の先でひっかいた皮膚のかけらを証拠保存キットに保管する。署長のウィロビーは署員のよき理解者で、良き夫、良き父であるが、同時に自分を襲う悲劇に耐えることができない。ミルドレッドの前夫チャーリーは家を出て動物園に勤めている若い女の子と一緒に暮らしている。ミルドレッドはチャーリーをDV夫と言うが、子どもたちはそれに一方的に賛同しているわけではない。レッドはミルドレッドの払った広告代金を「あれは前金扱い」と言い、広告を維持するにはすぐに金が必要であると言い出したりするが、全身をやけどで覆われた男のために、オレンジジュースを入れてやる。

怒りは怒りを来す。チャーリーの年若いガールフレンドはそう言う。この物語も、文字通り怒りが怒りを来して転がっていく。しかし、それと同じように、赦しが赦しを来すこともあるのだ。炎の中から救い出されたファイルが、きまぐれに顔を見せた鹿が、オレンジジュースのストローが、だれかを赦す。

私たちはみんな、誰かをゆるし、そして同じだけ、誰かにゆるされながら生きている。そのことをつい忘れそうになる。ツイッターでは、どこかのだれかの行いを、140字で断罪し、それをみなボタン一つで広めていく。でも140字で何かが「わかる」ことなんて本当にあるだろうか?どこか道路沿いの大きな看板に書かれた文字と同じように、人生も人間もそれだけではないのではないだろうか?ディクソンは最低の人間で、ミルドレッドは善良な悲劇の母親で、警察署長は無能な権力者だったのか?ほんとうに?

最後のシーンのディクソンとミルドレッドは、まるで迷子のようでもある。来された「怒り」の行き場を探し当てるが、ふたりともそれほど気が進まない。ディクソンは自分の顔を焼けただらせた女のことを、とっくにゆるしている。二人はこれからすることを道々考える。そうして、この物語の幕は閉じる。私たちも道々考えよう。来された怒りを、どこかで赦しに反転できることがあるのかもしれない。ないのかもしれない。けれどいつか、赦しが赦しを来す、そういう連鎖がある、きっと。道々考えながら、そう願おうじゃないか。