「墓場、女子高生」ベッド&メイキングス

福原さんの脚本はここんとこ個人的にほぼはずれなし、という感触で、もちろん今回も面白かった(そして、いろんなキャストで再演を重ねていきたくなる脚本だよなあとも思った)。が、面白かった,と言う言葉でまとめるにはちょっと痛い、痛すぎた感がある。痛いというのは作品ではなく、こっちの心のことだよ。

誰の心にもするりと入り込んでしまう日野という少女。舞台はおそらくは彼女らの高校の近くの墓地、その墓地には日野の墓がある。日野の墓がある「今」と墓はなく日野がいる「過去」が交錯して描かれる。

思春期にあんなふうに暴力的に「近しいひとを喪う」、それも「自分の心に居場所を明け渡した人を喪う」ということの重さは想像するだけでぐったりとしてしまうが、その日野の死を受け入れられない、または受け入れようとしている彼女の友人らは、日野を「墓場から呼び戻す」ことに成功してしまう。

してしまう、と書いたように、私はこの展開をまったく予想しておらず、そしておそらくはそれに続くであろう展開を思って一気に気が重くなってしまった。私は「ちゃんと日野のことを考えてない」と友人を責め、オカルトに走る友人にまったく心を寄せてみることができず、ビンゼの言う「いいんじゃない、だってこれみんな日野のためにやってるんじゃない、自分の気持ちの整理のためにやってるんでしょ、自分の気持ちの整理のためならやってもいいんじゃないかと思う」という台詞のほうに共感していたからだ。

一気に気が重くなったのは、おそらくこのあと彼女らは,二度友人を喪うことになるだろうと思ったからで、もちろんそれは当たっていたのだけれど、まさかあんなふうに、世界を定義づけるという行までついてくるとはおもわなかった。見ながら、だんだんと日野に指をさしていくのがもうほんとつらい、もうしわけない、と土下座して逃げ出したくなった。なんつー脚本書くんだ福原さん。

ラストであの墓地にはだんだんと皆来なくなった、ということがわかることは救いでもあったし、最後に来ていたふたりが「さようなら」の予約をするところでなんとなくほっとした気持ちになった。つまり名付けて、定義づけて、過去にすることができるということにほっとしたのだ。

誰の心にもするんと入り込むが(ビンゼとの音楽をめぐるやりとりは秀逸!)、自分の心には誰も入れない日野を清水葉月さんが独特の佇まいで好演。あと、個人的には猫背椿さんの存在が心のオアシスだった。強い。なにがって、役者として強い。座組が全体的に若いということもあるし、猫背さんの役柄も相俟ってだろうけど、あの強靱さにずいぶん救われました。