「髑髏城の七人 season花」


かつて新感線が初めて新橋演舞場に進出したとき、「あの新感線が、ここまできたか…!」と勝手に胸熱になったものですが、そこからさらに十数年を経て、日本初(世界2例目)の「回る劇場」の、しかも「1年間のロングラン公演」を託されるまでになるとは。思えば遠くにきたもんだ。
劇場の機構そのものが話題を呼んでいる、というのもあるので、芝居の感想は後述するとして、劇場周りの感想を先に箇条書き。

  • とにかく最寄りの駅にはなんにもないから!!!と先達の皆様のアドバイスのおかげもあり、心構え万端で行けてありがたかったです。あとなんにもない、っていうのでほんとに荒野にぽつーんみたいなのを想像していたんですが、周りに建物がないわけじゃないのね(当たり前だよ!)ただ、人が入っている建物がないってだけでね…あんなに立派なのができてるのね…なんなら駐車場だけでもシアターアラウンド用に開放してシャトルバスとか走らせてみたらと無責任なことを思いました
  • これも先達の皆様のおかげと思われますが、劇場前と劇場内ロビーにベンチの設置が多数。ただ劇場前は夏は暑くしてしぬだろう(よげん)
  • 5列目ほぼセンター、前は通路という芝居好きなら誰でも喜ぶ席でしたが、回転中の転落防止のためなんでしょう、舞台の縁に囲いのようなものがあり、舞台はそれよりも10センチほど低いので、この座席で足元が全く見えない。足元が見えないばかりか、低い位置での芝居はまず見えない。
  • おそらくこの縁の構造のためか、フットライトがなく、また舞台袖からの明かりもない(そりゃそうですよね)ので、照明の印象が相当違います!ここはもうちょっと工夫があった方がいいのではと思った。なんとなく平板な印象を受けてしまいました
  • 回転そのものは動き出した瞬間にズゥン…とした感覚はあるものの、個人的にはまったく気にならず。前方はスクリーンの役目も果たしており、その映像との相乗効果もあいまって、実際よりも「動いている」感覚がかなりあり、アトラクション色が強いです
  • 舞台の間口はスクリーンの開閉で決められるのですが、当然ですけど大きく間口が開いた方が断然気持ちがいいです。それこそがこの劇場でしかできない「絵」だと思いますし、狭い間口で展開するシーンはサイドの客は結構見切れてしまうのでは
  • 劇場全体の動線はさほど気にならず。椅子も赤坂アクトよりは良い、というかさすがに振動に強くできているなという感じ

個人的に今後の鳥風月でもっとも改善を望むのは照明と立ち回りの見せ方ですね。なにしろ前方席ほど足元が見えず、足元が見えないどころか「なんだか刀持ってワイワイやってんな」ぐらいの距離感しかないので、だったら大きく間口を取って縦横無尽に動き回るぐらいの絵面がほしいところ。いのうえさんの演出は照明でハッタリ効かす部分もかなりあるので、明かりが平板だとケレンがケレンにならないわよう、と思ったり。

ここからは芝居の感想。ネタバレするので、お気をつけて。

「髑髏城の七人」自体は初演が1990年、その後97年と04年、11年と再演を重ねてきているわけですが、11年の上演時に大きく形を変えたところがあって、それが「本来捨之介と天魔王は一人二役でやるところを、キャストをそれぞれ分ける」という方向転換をしたんですよね。で、もともとそういう構造じゃなかったのに、骨組みを足したことによる綻びがもはや大きくなりすぎてるという印象を否めませんでした。

もちろんこれは私が初期の構図が好きで、何より全新感線の作品のなかで1997年の「髑髏城の七人」こそが不動の第1位であるという、めんどくさい古参の言い分(自分で自分を古参っつーのどうかと思うけど、もはや新規ぶるほうが逆にふてぶてしいが過ぎるかなと)なのかもしれません。なのでひとつの意見として聞き流していただければ幸いです。

ここまで骨組みを足した(蘭の役を大きく取り上げ極楽との関係性を書き足している、天魔王と捨が「同じ顔」ではないことで蘭を含む3人の関係性を書き足している、沙霧が捨に不信感を抱いて傷を負わせる展開を残すために捨と熊木衆の関係を書き足している等々)にもかかわらず、過去の上演の「名シーン」はそのまま残そうとしているので、どうにも展開が強引なんですよね。例えば牢にとらわれた捨を沙霧が看破するシーンがありますが、あれは敗北を悟った天魔王が「捨に化けて城を脱出しようとする」ことに意味があるわけで、身代わりにして仮面をかぶせて仲間に斬らせるってのはどうにも弱い(だって仮面を取ったら別人てわかりますやん!)。顔を分からなくしたうえで、その看破するシーンだけを残しているので、鎧を着せて夢見酒を飲ませてかつ沙霧にぶっとばされて目が覚める的なそんな段階を踏まなきゃそのシーンに到達せず、しかも劇的な効果も薄い。同じ人物がやるんでないなら、あのシーンの効果はほとんどないと言っていいと思います。沙霧と捨にはそういうシーンがいくつかありますが、全部極楽の「女にはわかるのものよ」的な台詞でまとめられていて、おいー!としか言いようがない。

極楽と兵庫も、もうあそこまで蘭と極楽の関係をがっつり書くなら最後思い出したように「りんどうよ、本当の名前はりんどう。これからはそう呼んで」とか、もういっそなくていい(だってそこまで兵庫と極楽の間になんか生まれる気配ありました!?ないよねえ!?)し、あと最後の天魔王との対決、斬鎧剣は相手が全身南蛮ものの鎧で覆われているからこそ、「最初の太刀で鎧を砕く」必要があるわけじゃないですか。出てるじゃん。顔、がっつり出てるじゃん。そんなめんどくさいことしなくても喉を突けよ!もしくは鉄砲でドタマに風穴開けろよ!とか思ってしまうわけですよ。

あと、沙霧に関して言うとわざわざ目の前で爺と父ちゃんを殺す必要ある…?ってのも思ったな…だって冒頭でもう死んだと思って弔ってるじゃん。残虐さを出したいなら一時でも夢を見させた後で突き落とした方がよっぽど効果あると思うけど、そんな掘り下げもなかったしなあ。

あとねえ、古田が贋鉄斎をやるんなら、やっぱり本気の百人斬りを見たかったよ私は…。もはや百人斬りの意味あるんでしょうか。舞台間口も狭いし(そりゃあの趣向ならそうなりますわな)、席の関係もあってほぼ上半身しか見えないし、あそこからの一気呵成の展開が髑髏城の花じゃないですか。血が滾る瞬間じゃないですか。ここでマジにならなくてどうするんだよお!

もうひとつ(まだあるのかよぉ)、これはもう座組全体の問題つーかそれでどうにかなるのかわかんないけど、個人的にはもっと、もっと笑いがほしい。というか、笑いを取らない(取れない)なら昔のギャグは切ってほしい。新感線ってどんだけマジ展開になっても、その照れくささみたいなものを笑いで払拭して、観客の心をオープンにしてくれたから、どんな少年ジャンプ展開でも受け止められたし、胸を熱くできたところがあった気がするんですよ。最後の対決シーンの最後に贋鉄斎に「肌に無理なく深剃りが効く、うーんかっこいい!」って言わせる度量がほしい。あたしゃ欲しいよ(誰だよ)。

役者さんについて。小栗捨、前回の時よりはキャラ造形が身の丈に合っている印象。めっちゃ強い感じはしない。ただ殺陣は今回のほうがスピード・キレがあって好きです。台詞がちゃんと聞こえるのはえらい。成河天魔、かなり卑屈な天魔王キャラ斬新。足が不自由という表現もあいまってリチャード三世感がすごい。立ち回りもよかったがそれよりも拳でいたぶる時の方がくるってる感あってよかった。時々中に右近さんいる?と思ったり思わなかったり。山本蘭、さすがに板の上での観客の呼吸を把握する力がすごい。ド直球にかっこいい役をド直球にかっこよくやっている。結果、どちゃんこかっこいい。中でも無界屋襲撃の際はドSぶりに立ち回りの度に袖で刀を拭う神経質そうな仕草も加味されて歴代蘭の中でも最高峰ではないかと思うほどにキャラ造形が立っていてすばらしかったです。ただ朴念仁には見えないw

近藤狸穴、うまい!流石の場数。狸穴二郎衛門のキャラにも合ってるし、実は、となってからのぶっ返り具合もはまっていてよかったです。「新式もきかんのか」あたりの飄々とした佇まいもすき〜〜〜。りょう極楽、声が良いですね〜。口跡も明瞭。美しく気風のある姉御肌ははまっていた。清野沙霧、すばらしい身体能力、できればそれをもっと堪能したかったくらいです。沙霧の役はもうちょっと前面に出されていいんだよ!おばちゃんはそう思うよ!青木兵庫、辛いこと言うよ、なぜならわたしはじゅんさん兵庫原理主義者だから。正直今回のキャストでもっともつらいところでした。兵庫という役は最初コメディリリーフに見えていても、中盤から終盤にかけてぐいぐい話のセンターに出てくる役なので、そして「七人」のエモーショナルな部分を相当背負っているので、そこを背負って立ちつつ、笑いに軸足もおかなきゃいけない。難しい役なんですよ!青木くん繊細な芝居は勿論うまいと思うけど、なにさまかけてるリボンが小さすぎる。つまるところ伝わらないし、観客の呼吸が読めてない。あと、これは青木くん全くわるくないけど、磯平とのバランスがどうなのかって感じもあるなあ。あの展開もキャストによって書き換え時なのではという気もしました。

古田贋鉄。格が違うってのはこういうことなのかって感じでしたね。新感線の芝居に出るとはこういうこと、笑いを取るとはこういうこと、ひとりでそれを体現していた感。だからこそね…百人斬りをね…(まだ言う)。

カーテンコールはぐるーーっと回りながら各場面場面で主要キャストが佇むという、こういうのどこかで見た…あっ、ディズニーランド!?イッツアスモールワールド!?と思ったとか思わなかったとか。それも含めてアトラクション感は最後まで強かったです。

次は阿部サダヲを捨に据えての「鳥」ですが、いやもうせっかくどうでも捨のキャラが変わるんだから、ホンも今までのエピに固執しないでバンバン切って直してほしい気がします。未來&太一でこれも11年版のコンビなだけに、もう一回似たようなのやんないでねって感じはある。せっかくの4シーズンロングランなので、そこは制作側の意地を見たい!です!

「不信〜彼女が嘘をつく理由」

三谷さん新作。キャストに常連の段田さん戸田さんに加え、二度目のタッグの優香ちゃん、そして大河ドラマで初めて組んだ栗原英雄さんの4人芝居。

とある建売に引っ越してきた夫婦が隣宅に挨拶に行く場面から物語は始まる。セットの両端に家具やコート掛けがあり、舞台上には5脚の動く椅子。客席はその舞台を挟み込む形で設えられている。

演出面でひとつ思ったことは、こうした「見えない部分」がどうしても出てくる舞台構造でサスペンスめいたものを見せるには、三谷さんの演出は親切すぎるかなという点。見えない側には見えない、ということが、見えている側には見えている、ということそれ自体がドラマになっていくのが理想と思いますが、そういう肝の表情はどっちからも見えるか、どっちにも見せるか、そういう気づかいがなされていて、せっかくの死角ありきの構造なのになーとは思いました。

物語的に、なんとなく落としどころとして「不作為の罪」みたいなものが浮かび上がってくるんだけど、全体を覆うトーンとしてはちょっと弱い。不作為というか、罪にならない罪というか…しかし、だったらもっと作為を前面に押し出したうえでの展開のほうが効果あったんじゃないかなあという気がします。いずれにしてもサスペンスとして見せるには緊迫感に欠け、ミステリとして見るには謎に欠けるという感じ。あのオチにするなら優香ちゃん演じる妻は最後まで貞淑一途の妻で見せきったほうがよかったんじゃないかなあ(あの展開、どうやっても読めてしまうものね…)。

段田さんはもちろん安定のうまさ。戸田さんも優香ちゃんも悪くないんだけど、これキャスティング逆でもよかったかもなとは思いました。栗原さん、舞台では初見ですが実際に聞いても落ち着きのあるいい声爆弾で堪能。

せっかくのサスペンスをやるなら、もうひとつふたつきれいに伏線の張られたドラマで見たかったな!というのが本音なところです。

終わりなき闘い

今朝、ツイッターでこのオリラジあっちゃんのブログに行き当たり、読んでいたら、歩いて7分の会社に遅刻しそうになった。実話である。
読みながら、ほとほと、あっちゃんの賢さに唸らされた。

オリラジ中田、転売撲滅の画期的システム発表!

ブログの中身は読んで頂くとして、あっちゃんが提示している解決策「キャパに柔軟性を持たせることで需要と供給のバランスを取る」というのは実のところあまり現実的ではないと思う。果たしてそれだけのキャパのハコが都合よく直前に押えられるのかという点、場所が変動することでチケットを買い控える人間がいることが予測される点、そしてハコ側の都合を考えると(たまたま空いているところにスケジュールが入る方は歓迎だろうが、仮押さえされる方は諸手を挙げて歓迎とは言い難いだろう)、なにより、転売屋の一番の温床である大箱のライヴ、芝居などはそもそもこの手段を取ることはできないだろうと思うからだ(その点についてはあっちゃんも言及している)。

しかし、とはいえ、このあっちゃんが示した転売屋が蔓延る構図についての解説には、よくぞ言ってくれたと思うところがひとつある。
あっちゃんも、前回のブログに対し「誰も損してない」という意見があったと書いているとおり、必ず出る反論の一つがこの「誰も損してない」という主張だ。主催者には定価だけのお金はちゃんと入っている。爆発的な人気を誇っていれば転売屋が売り損ねることもなく、出演者にもあっちゃんのいうところの「損」(ファンの獲得機会の減少や、適正キャパシティの把握など)はほとんど目に見えないと言っていい。
でも、損はしている。しているのだ。
定価以上の金額を払ってチケットを買った人はもちろん損しているといえるかもしれない。でもあっちゃんが一番に損をしている人にあげているのは、
「ルールを遵守し転売チケットを買わず、結局ライブに行けない人」なのだ。

芝居でも、ライヴでも、こうした転売チケットの話が取り沙汰される度、結局のところ転売屋を撲滅させるための手段を「観客が買わないこと」というように、こちらに丸投げしてくるのが私には不思議でしょうがなかった。あるアーティストが「僕らにはどうしようもできない」と言っていたこともある。どうしようもないわけあるかい。あっちゃんの言葉を借りれば、それは「大損」にほかならず、「申し訳ないけど、大損してください」と私たちは言われ続けているのだ。

そして、そんな大損はもういやだなあと思ったファンが、自助努力をするようになる。購入機会を増やそうとFCに複数口入る、友人と協力体制を取る、チケットがよぶんに手に入る、それは誰かに売りたい(ここまでは悪意がない、とあっちゃんは書いている)、
でも、売れるなら、できるだけ高く売りたい。
と思うようになる。
もはや完全に悪循環でしかない。

他方、まったくのガチガチに、定価でのやりとりだろうとなんだろうと、友人はもとより親類縁者いかなる関係であっても譲渡まかりならん、事前の氏名登録・本人確認徹底させ、それ以外の入場は一切認めない、というのも難しい。誰しも体調を崩したり、仕事の都合、家庭の事情、そういった事態になることは容易に想定され、そこでもはや一切の融通がきかない、となるのは、これも結局のところ「大損」に我々を追い込んでいるだけになってしまう。だからこその、公式の譲渡システムが稼働するという話なのだろうし、実際のところTHE YELLOW MONKEYが昨年のツアーで行った「FC入会者だけのチケットトレード」はそれのさきがけのようなものだったのだろう。賛否両論あるかもしれないが、ひとつの解決策ではある。

すべてが定価かそれ以下でのやりとりなら、つまるところ金銭的な「儲け」が出なければ、業者はあっという間に足を洗うだろう。「絶対に定価以上で売らせない」というためのシステムがどうやったらできるのか。当日になるまで席番がわからないシステムは、高額取引を止めるためには非常に有効だろうとは思われる。しかしたとえばドームクラスの大箱で、果たしてそれができるのか。

あっちゃんのブログに書かれた意見について、その陥穽を指摘する人もいるだろう。全部が正しいわけではないのもその通りだろう。でも、少なくとも、大損しているのが誰なのかをあっちゃんはわかっている。そして大損させないためにどうしたらいいかを考えている。大損し続けなさい、と言われ続けることに私もさすがに飽き飽きした。こうして主催する側が動き考えることで事態は絶対に動くはずだ。それが少しずつでも、こうして考えてくれる人がいるうちは、何かの扉が開くはずだ。中田敦彦さんの賢さが、それを動かす一端になるかもしれない。そう思いたい。

役者の仕事

言葉を発するときには、その瞬間心に浮かんだことを言うように言え。
そうでない時は私が止める。
お前の言っていることが信じられない時も止める。
何を言っているかわからない時も止める。
その年に獲れた林檎を初めて味わうように言葉を味わっていない時も止める。
肩が上がってきたら止めるし、少年らしさを失ったら止める。
簡単じゃないだろう、君は泣き出すかもしれない、そうしたらまた最初からだ。
そうすればうまくなる。朝から晩まで稽古をする、
寝ても夢に見て、起きているときは頭から離れなくなる、
するとついに、ジョンがドレスを着せてくれる日がくる、
君はうまくなっている。それを約束できるのは世界中で私ひとりだ。
「クレシダ」より

昨年のわたしのベスト1「クレシダ」がNHKBSで放送。ありがたい。ありがたい。平幹二朗さんの最後の舞台となってしまったこの作品、思えばこの世界を旅立ってしまったひとからかけられる言葉でもあったのだった。深夜の放送なので、録画されているかどうかを確認したら寝よう…と思っていたのに結局最後まで見てしまった。そうなるんじゃないかという気はしていた。

冒頭のインタビューで、演出家の森さんが、この舞台のクライマックスといってよい、スティーブンとシャンクが「トロイラスとクレシダ」のセリフを返すところ、「あの平さんに対峙するのは相当エネルギーのいる仕事」だと語っていたが、その言葉の通り、ここの平さんの芝居はまさに圧巻といってよく、それにくらいついていく浅利くんも見事だ。形をとりあえずやってみて、皆がやっていないならする意味がないと切り捨てようとするスティーブンにシャンクが言う、「皆がやっていないのは、その意味を理解するものがいなくなったからだ」って台詞、どきっとする。歌舞伎を見るようになって感じることのひとつは、「型」というものの強さであって、それは当然ながら意味があってその型というものが出来上がってきているのだけど、意味を理解しなければそれは「上っ面」と捉えられかねない諸刃の剣でもある。そして、今は歌舞伎だけではなく芝居の世界全体で、なんというかその「型」というようなものよりも、自然に湧き上がってきたものこそが尊いみたいな風潮があるような気がするのだ。

でもそれってほんとにそうなんだろうか?本当に心底、毎日違うものが湧き上がってくるのならともかく、アドリブや日替わりが珍重されるような空気に傾いているような気がしてならない。

平さんがクレシダのセリフを諳んじてみせる場面、台詞が立ち上がってくるとはよくある言い回しだが、あの比喩に比喩を重ねたようなセリフすべてに意味があることがわかるし、砂漠が水を吸い込む如くぐんぐんと自分の中に台詞が入っていく快感を味わうことができる。聞き終わったスティーブンが思わず拍手してしまうのももっともだ。そして、「それを理解できるものがいなくなったからだ」という台詞が、なんだか現実とリンクしているような気がしてきてしまう。

冒頭に引用したシャンクの台詞。これこそが、役者の仕事というものだろうとおもう。よく、「あんなに長い台詞よく覚えられますね」なんてあさっての誉め言葉をいう人がいるし、それはそれで悪いとは言わないが、でも覚えることが役者の仕事なんじゃない。あえて言うけど、覚えるだけなら私にだってできるよ。役者の仕事とは、まさにこの作業をずっと繰り返すことにある。簡単じゃない。簡単じゃない。君が泣き出せばもう一度最初からなのだ。その年に獲れた林檎を初めて味わうように、百万遍も同じセリフを繰り返すのだ。そこまでやっても、同じ舞台は二度とない。機械のように芝居が再生産されることはない。それが演劇のこわさで、おもしろさで、せつなさで、すばらしさなんだろうとおもう。

転居を伴う異動があって、3月はなんだかもうやること、のタスクが多すぎて芝居の感想もまったく書けず、それも書きたいけど時間がない、というような感じじゃなくて、自分がパソコンに向かってテキストを打つ、ってことがもはや遠い世界に感じられる、みたいな心境になってしまっていて、これはちょっとやばいんじゃないかなんて気が、こっそりしていた。4月になって、環境が変わって、時間は前よりたくさんあるのに「エンターテイメントを楽しむ」みたいな方向に気持ちがいかない。いかないというよりも、前はどうやって楽しんでいたのかがわからなくなってる感じがしていた。でも、「クレシダ」の映像を観て、平さんの芝居を観ていたら、なんというかへんな表現だけど、死んでいた情緒がみるみる甦ってくるような感覚になった。シャンクの語る「役者の仕事」の台詞に涙しながら、自分がどうやって芝居を、娯楽を、楽しんでいたかをもりもりと取り戻すような感覚があった。ためこんで放置していた芝居と映画の感想を、3日間で一気にぜんぶ書いた。ソロモンよ、わたしはもどってきた、なんて言いたくなってしまうぐらい、きぶんがいい。

また何かいろいろ疲れて、情緒が死にかけていたら、クレシダの平さんを思い返そう。そんな風におもった。ひとりの人間の情緒に息を吹き込み、水をやり、花を咲かせる。役者の仕事とは、そういうものなんじゃないかとおもう。そういうものであってほしい、そうおもう。

「キングコング 髑髏島の巨神」


ヒドルストンせんぱいがキングコング…なんか不思議な取り合わせ!と思いつつも、いや特に怪獣興味ねえっすから…とスルー予定だったのですが(あなたシン・ゴジラの時もそんなこと言ってなかったでしたっけ)、見た人の評判がいいのと、なんか豪快な映画が見たいような気持だったのが相まって行ってきましたよ。

隊列を組むヘリの空中ショットに「地獄の黙示録だ…」と思ったり、嵐の中に突っ込んでいくところに「ラピュタだ…」と思ったりしつつも、最初からコングを出し惜しみなくバンバン姿を見せていくところが潔くていいな!と思いました。あと生き残るキャラ選定に因果応報律がとられていないため、なんにも悪いことしていない人でもばんばん死ぬ。しかもわりと容赦なく死ぬ(例えばジュラシック・ワールドとかはかなりはっきりとした因果応報律が敷かれてましたよね)。そういう点で誰に災厄が降りかかるか読めないところも面白かったです。とはいえまあトムヒとブリー・ラーソンはさすがに生き残るんだろうと思ってはいたけどね!

ベトナム戦争から抜け出せず敵を見出さないともはや生きていけない、形を変えた復讐を成し遂げないではいられない司令官と、それが司令官の暴走だとわかりながらその道しか見出すことができない先輩兵の行く当てのない感が印象的でした。道連れに自爆しようとしたのに尻尾で薙ぎ払われちゃうとかやるせなかったな…。そしてほんとサミュエル爺さんは!話を聞けよお!

あのガス原でのトムヒせんぱいの日本刀立ち回りは完全にこういう絵欲しさだよね!とかもありましたが(というか基本的に絵力の強さでぐいぐい引っ張るタイプの映画だった)、あのマーロウとグンペイのエピソードのぶっこまれ方がすごくて、正直後半はもうマーロウ死なないで〜とサミュエルじいさんはいっぺんしね!でほぼ感情が支配されていた感。あとコングちょうカッコいい。なんでモーニングスターってあんなテンションあがるんだろ。エンドロール後に大事なおまけあるよって教えてもらっててよかったです。なんだあの煽り方!

あとマーロウは1944年にこの髑髏島にたどり着くんだけど、そのマーロウとボートを直すシーンでジギー・スターダストが流れたの、個人的にめっちゃテンションあがりました。そういえばエンディングにヴェラ・リンのWe’ll Meet Againが流れて、この曲に一方ならぬ思い入れがあるのでうおおってなった。「東京ローズ」でも使われていたけど、やっぱり戦場から帰ってくるひとを描くという点では、この曲はある種の象徴なんだなと改めて。

「ザ・空気」二兎社

久しぶりの二兎社。いつも高レベルの芝居を見せてくれるという安心感があるのになぜかタイミングが合わない…というのは言い訳ですね!
タイトルの「ザ・空気」の空気はまさに「空気を読む」の空気。「空気を読む」って言葉、いつからこんなに市民権を得たんでしょうか。市民権どころか、もう抜けないぐらい深く根を張った言葉になってしまった。

しかし劇中で描かれるのは、はたしてこれを「空気を読む」って言葉でくくってしまっていいんだろうか?という実態で、そこがまさに永井愛さんの思うところでもあるんだろうなあ。見ながら、永井愛さんはほんとうに気骨のある作家だなあというのをしみじみ思いました。空気なんか、しんでも、読んでやらん、というような、今この事態、これから向かおうとしている事態に対する怒りがあり、それをごまかさずに板の上に乗せる筆力と気概がある。

取り上げられているのはテレビ局のニュース番組を作る編集部で、私の大好きな「ニュースルーム」をちょっと思い出したり。いやしかし、印象操作というか、元の素材が変わらなくても、何かを入れ替えたり一部を削るだけでまったく違う印象を見る人に与えることができる、その過程をつぶさに描いていて、「本当のこと」なんてそう易々と伝えられるものではないんだなと、ひとつのニュースが換骨奪胎されていくさまを目の当たりにしながら思いました。

個人的には、あそこで彼が飛び降りる、という選択にならざるを得なかったのか?という気がしており、そうではない着地点が見たかった気がします。あるものは心折れ、あるものは剣を置いても、なお、という部分が。

田中哲司さんをはじめ、精錬ばかりの5人の少人数の芝居。濃密なやりとりが隙なく成立していて、見ごたえありました。

「あたらしいエクスプロージョン」

  • 浅草九劇 C列13番
  • 作・演出 福原充則

新しくできた浅草にある劇場「浅草九劇」こけら落としでベッド&メイキングスの新作!3月のきつきつのスケジュールの中がんばって行ってきました。新しい劇場なので、トイレが少ないとかロビーが狭いとかいう前情報にどきどきしつつ、慎重派のわたしはつくばエクスプレスの浅草駅を利用(遠征組は東京から秋葉原まで移動して乗り換えなのでむしろこっちのほうが便利かもしれない)、駅のトイレをお借りして準備万端!

あの最初のシーンでいきなり本水を使ってしまうところ、演劇のお約束を逆手に取ったメタ構造のギャグ、あの狭い劇場の空気も相俟って、自分が最初に芝居を見始めたころの、それこそ扇町ミュージアムスクエアや近鉄小劇場で観た「あの頃」がなんだか匂い立ってくるようで、正直なところ芝居の中身そのものよりも「目の前にあるもので目の前にない世界を動かす」みたいなどしゃめしゃなパワーがいちばん心に残っています。息子と夫を亡くした女性の、そこにたどりつかなくても、そのぎりぎり、いちばん近いところまで行ってみたい、というあのセリフがこの芝居の世界を象徴していたように思えます。

八嶋さん、まるで水を得た魚というか、この空間を支配するパワーもテクニックも申し分なし。でもって山本亨さんがいることで出てくる「つか芝居」の空気!たまらんもんがありますね。

コヤの空気としては嫌いじゃないどころか、ああいう雰囲気にぐっときちゃうところはやっぱりあるので、あと立地がいいので帰り浅草を満喫して飲んだり食べたりアフターも楽しめるという点でも、これからいい芝居をどんどんかけていってくれるようになったらいいなと思っております。