あなたの人生の同僚

フィフティ・ピープル (となりの国のものがたり1)

フィフティ・ピープル (となりの国のものがたり1)

テレビ東京プロデューサーの佐久間宣行さんがおすすめされていて、気になっていたのでこの連休に読む候補として買っておいた本。
ひとことで言えば、「すばらしい」、それに尽きる。
べつにネタバレをおそれるような話ではないので、いろんなレビューを読んでみてから手に取るのもいいが、そのままなんの予備知識もなしに飛び込んでみてほしくもある。

タイトル通り、50人(以上)の人生の一瞬を切り取っており、その連作短編という形なので、各章ごとは非常に短い。連鎖しているが、連続しているわけではないので、何日かかけて少しづつ読み進めていくのにもぴったりだろうと思う。

それぞれの人生の一瞬、その断面図みたいなものの切り取り方が、常に違う角度なのが、とにかくすごい。何回読んでも思わず笑ってしまう章もあれば、出だしからよくできたサスペンスのように息が詰まるものもあり、思わず落涙してしまうようなエモーショナルなものもあり、バラエティに富んでいる。「人生の同僚」とは、訳者の斎藤真理子さんのあとがきに書かれた言葉だが、どんなひとでもこの中に自分の人生の同僚をみる想いがするだろうと思う。

各章のタイトルが人名なので、カタカナでのイメージがしにくい読者を想定してイラストを付けたのは訳者のアイデアらしい。これもよかった。ちなみに巻末に人名から逆引きできるようになっていて、親切(最後に気がついたので、再読するときは活用したい)。あと、翻訳が本当に最高で、この小説の入り口の風船を大きくすることに貢献している気がする。*1

この小説は、「どうにもならなさ」も描きながら、でもそこから「どうにかしたい」という人間の、なんというか、あがきみたいなものが掬い取られていて、そのかすかな灯りみたいなものに、何度も胸を打たれた。ビビビック(韓国の「あずきバー」)を探すチェ・エソンの章は何度も読み返してしまった。わたしたちもいま「あずき」を必要としているなあとしみじみ思う。そういった作者の姿勢は個としては最終章のソ・ヒョンジェの章におけるシュークリーム教授との会話に集約されていて…いや、まあとにかく読んでみてください。一部を引用しようかと思ったけど、どこも切れなかった。

そういえば、もともとは「みんなが踊る」という構想で書かれていたらしい(あとがきより)。なので踊るシーンがたくさんある。「踊る」という言葉で「ジョジョ・ラビット」を少し連想したし、実際に作品のトーンも似ているところがあるようにおもう。そういえば、かのカート・ヴォネガットもこう言っていたな。「われわれはダンシング・アニマルなのだ。起きて、外に出て、何かするというのはすばらしいことではないか」…。

ここのところ集中して本を読み続けるってこと自体から遠ざかっていて、いやもう読書が好きですとか言えたタマかよというぐらい本を読んでいない、読む力が落ちたと自分で痛感していたのだけれど、この本の章立ての巧みさに引っ張られて、ぐいぐい読めた。この「ぐいぐい読める」感覚も久しぶりで、なんというか、読書の愉悦を久しぶりに味わった感じだ。読んだ人同志で、あの章のここが好き!と語り合いたい気持ちにさせられた。

最後にイ・ソラの章から、すごく好きな部分を引用する。この本を読みたい、と思わせる扉になってくれることを祈りつつ。

寄付金を公正に使い、その使途を可視化して詳しく記録し、それを公開するうちにまた1年が過ぎるだろう。肉が裂け、骨が折れ、傷ついた動物みたいになって運ばれてくる女性たちや子供たちに、もうあんなことは終わったのよと言ってやりながら。そんなときでもばかみたいなことを言う人間はいるだろうし、それに根気強く答えていくことで1年の幾分かはつぶれてしまうだろう。いちばん軽蔑すべきものも人間、いちばん愛すべきものも人間。その乖離の中で一生、生きていくだろう。

*1:「入口の風船のような作家でありたい」とはチョン・セランさんの言。

「ハーレイ・クインの華麗なる覚醒 BIRDS OF PREY」

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DCエクステンデッドユニバース作品、監督はキャシー・ヤン。時系列としては「スーサイド・スクワッド」のあと、ハーレイ・クインがジョーカーと別れてからの物語を描いています。ハーレイ・クインはもちろん、マーゴット・ロビーが続投。

完全なるガールズ・エンパワメント・ムービーという作りで、「ジョーカーの彼女」として庇護下にあった(どんだけしたい放題しても誰も手が出せなかった)ハーレイが、破局によって四方八方から命を狙われるというストーリーラインと、大富豪の隠し資産の秘密が隠されたダイヤを巡る争奪戦が絡み合っていくという筋書き。わりと時系列が飛ぶし、ハーレイの一人称で語られる場面も多いので今までのDCEU作品とは毛色が違った感じで面白かったです。

見ながら思ったのは、ここまで女性キャストが徹頭徹尾「自分の好きなカッコするんだもんね」が貫かれているのはなかなかすごいなってこと。本当に、一瞬たりとも、いわゆる「男ウケ」のする格好をしているシーンがない。あと、DCっていうかワーナー的にどうだったんでしょうね、どこかいい場面でDCの有名なキャラクター登場をさせたい横やりとかなかったのかな。ハントレスもモントーヤもハーレイも、別に全然「いいひと」じゃないのもよかったです。連帯するけど甘くない。あのお化け屋敷?ビックリハウス?でのアクションシークエンスはアイデアに満ちててよかったなー!あそこで「髪の毛しばるのある?」みたいなむちゃくちゃあるある!なやりとりが行われてるのもすごく効いてた。

ヴィランユアン・マクレガーが文字通り嬉々として演じていて、かなりゲスofゲスなのがまたよかったです。あの忠犬ならぬ狂犬ハチ公みたいな部下との絡みも面白かった。

実際に映画館で見たのは3月中旬で、今のところこのあと映画館に行けていない状態が続いています。早く映画館に行けるようになりたいな。

「チャーリーズ・エンジェル」

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何を隠そうテレビシリーズも(再放送だったかもしれないけど)好きで見ていた世代です…チャーリーズ・エンジェルと特攻野郎Aチームとナイトライダーが私の海外ドラマ原点かもしんない。ザ・時代。チャーリーズ・エンジェルは以前キャメロン・ディアスドリュー・バリモアルーシー・リューでも映画化されましたね。今回の監督はエリザベス・バンクス。出演もされてます!

昨今の新型コロナウイルスを巡る「諸般の事情」に私も例外なく叩き込まれており、すでに中止となった芝居のチケットが4枚、この先1か月の間の現時点で先行き不透明なものが6枚あり、かつ映画も新作映画の封切りが大作であればあるほど(映画館が混雑するから)見送られていて、普段水面から口だけ出してエンタメの空気をぱくぱく吸っているような身からすると切実に自分を取り巻く空気が薄い、そういう毎日を過ごしております。映画館のリスクは寛容なものからそうでないものまでいろいろありますが、満員札止めというわけでもないかぎり(前後左右に人がいないようであれば)まあいいんじゃないか…というのと、もうとにかく何も考えなくても飲むように物語とエンタメ要素が摂取できるやつ一丁お願いします!な気持ちだったので、わりと観た方の評判がよさげだったこの作品を選びました。

そういう気分で臨んだので、最初のショットから最後のショットまで一分の隙なくキラッキラに輝いたクリステン・スチュアートの問答無用夢女子量産みたいな姿とか、エラ・バリンスカの等身どうなってんスか!?!?みたいなスタイルとかっこよさ、ナオミ・スコットの決してドジっ子ではない(大事)キュートさを鼻からいっぱい吸い込むことができて大変満足しました。いやまじでサビーナが同じ高校にいたらバレンタインにトラック2台ぶんくらいのチョコレートもらうだろうしわたしもあげてる。クリステン・スチュアートの最高の姿をフィルムに残したという点でもうこの映画にはじゅうぶん価値がありますよ(ぐるぐる目)。

物語の展開としてはクライマックスに行くにつれ詰めが甘いというか、最後の対決に向けての緊迫感が保てていないのがちょっとなーというところ。緊迫感のある中であのふたりのダンスがあったらあそこはさらに最高の場面になるところだった。最初にサビーナにこっぴどくやられる「横領犯」の処遇もすっきりしない。カリスト自体のパワーも、一度マックス発動させたら二度と使えないって設定もうまく活きてなかったなと思う。

絶対的に信頼できるボスレーにパトリック・スチュワートをキャスティングしているので、そこのどんでん返しをもっと鮮やかに決めてもらいたかったなという気はしつつも、初の女性ボスレーを配して「彼女が裏切ったのかも」と対比させるのは面白かった。最後に「エンジェル」たちの特訓のシーンが流れるのが昔の妄想が具現化した!みたいな気持ちでアガったなあ。オープニングといい、監督がこの映画で何を見せるつもりか、って意思が現れた部分ですよね。

私はこういう、「決してウェットなものではない強固な信頼関係に基づいたチームもの」に目がないので、こうしたリブートであってもこのフォーマットが活かされるのは嬉しいし、それこそ男性版エンジェルがあってもいい時代じゃないですか。でもって女性版Aチームがあってもいい時代じゃないですか。そういう作品が気楽にぽこぽこ生み出されるようになるといいなと思っております。

どうかあなたも生き抜いて

野田さんが言ってくれた、という気持ちと、
野田さんに言わせてしまった、という両方の気持ちがある。

「今般の社会情勢に鑑み」、演劇やライヴやスポーツイベントや、その他さまざまなものが中止・延期の事態になっている。わたしもすでに手持ちのチケットが4枚、非日常への切符ではなくただの紙になってしまった。わたしがツイッターでフォローしているのはライヴであれ演劇であれ、実際に足を運ぶひとが多いので、皆少なからずその打撃を受けている。

昨日東京芸術劇場の芸術監督をつとめる野田秀樹さんがNODA MAPのサイトに意見書を出された。もともと野田秀樹に興味のあるひと、演劇に興味のあるひとだけでなく、インターネット、SNSの波にのっていろんなところにその意見書は届いているようだ。それは演劇に興味のあるひともない人も引っかかってしまうような表現があちこちにあるからでもあるとおもう。「演劇の死」というのは野田さんにしてはかなり強い表現だ。実際、いままで演劇にとって追い風が吹く時代も向かい風ばかりの時代もあったが、野田さんは「演劇が生き残る」ということについて一種確信めいた発言をしてきた人なので、それを想うと今回のこの表現の強さには若干の違和感をおぼえる。

「演劇は観客がいて初めて成り立つ芸術です。スポーツイベントのように無観客で成り立つわけではありません」というのは、いかに野田さんがスポーツに興味がないかというのをある意味露呈しているといってよく、勝敗さえ決められれば成立するんだろといわんばかりの物言いは敵しか作らないのではないかと、それなりの野田シンパらしきことを長年している私でも思う。野球であれ、サッカーであれ、ラグビーであれ、その他多くのスポーツイベントを、観劇を自分の人生の生きる糧としているわたしのように心の縁にしているひとは沢山いて(というか、おそらく観劇人口よりもたくさんいて)、かつその興行収入が彼らと彼らを取り巻くスタッフの生活を支えているのである。

それに何より、実際にそれなりの規模の(ここの定義は人によって異なるだろうが)人数が一堂に会し、会話や飲食はしないまでも一つの空間に一定時間束縛される観劇という行為をやるべきなのかどうなのかという問題がある。だが、正直、この答えは私にはわからない。わからないし、きっとその人の持つ経験や知識、健康状態、精神状態によって求められるラインも異なり、それがいっそう事態を複雑にしているんだろうと思う。

だから野田さんのあの意見書に、賛同できない、という人がいてもぜんぜんおかしくない。

でも、わたしは、どこかで野田さんの言葉を待っていた。東日本大震災のあと、上演を再開したときの口上のように、野田さんが何を言うのか、何を言ってくれるのかをどこかで待っていた。私の手元にあったチケットのうちの1枚は東京芸術劇場のもので、その1枚の趨勢が決まるのがもっともおそかった。これが芸術監督の抵抗によるものだったのかどうかはわからない。ただ東京都歴史財団を運営母体としている以上、中止やむなしなのではないかという覚悟はうっすらとしていた。実際に、その1枚も中止となった。全公演が中止。ここまで稽古してきたキャスト・スタッフの日々は、観客の目にふれることなく消えた。

野田さんの意見書は間違っているだろうか?そうかもしれない。でも私は「やめるな」と言ってくれる野田さんを待っていたような気がする。やめるなと言ってほしかった。それが間違ったことでも、あなたからは、やめるなという言葉を聞きたかった。

でも、同時に、いつもこうして野田さんに言わせてばかりだなとも思ったのだった。彼はもうすでに功成り名を遂げたひとであり、文字通りいまだ現代演劇界のトップランナーであり、今後野田さんが作品を発表する場がなくなるということは考えにくいので、ここで沈黙をつらぬいたとしてもあまり累は及ばなかっただろう。実際、この意見書が芸術監督を務める東京芸術劇場からではなく、自身の主宰するNODA MAPから出されていることからも、これを出すのを良しとしないという意見が少なからずあったことが想像できる。

だからこの言葉は、野田さんは純粋に彼の後に続く若い世代に、そして演劇そのものに想いをかけて言っているのだと思う。あのひとはほんとうに演劇を愛していて、演劇の力を信じていて、だからこそ、自身の立場よりも、「やめるな」という言葉を残したかったのではないか。

エンタテイメントの息をミーと吸い、ハーと吐いて生きてきたわたしにとっては、何が正解かわからず、自分が正しいと思うことさえ毎時毎分毎秒揺れ動くようないまの状況は、正直つらい。命には代えられない。そのとおりだ。ひとの命より尊重されるものはない。たとえそれが演劇であれ、音楽であれ。ただ苦しい。「正しさ」とはまったくべつのところで、私はただ、苦しいのだ。

でも私はこの現実をやっていく。家にはトイレットペーパーがあと3ロール、ティッシュケースがあと2箱、マスクはない。満員電車に乗る。手を洗う。仕事をし、人と話す。手を洗う。うがいする。今日は牛乳を1パック買った。わたしはやっていく。この現実を。

そうしてかならず、劇場に還る。当たり前にチケット買い、当たり前に劇場に通っていた日々に、私は還る。

だからその日まで、演劇よ、どうかあなたも生き抜いて。

「FORTUNE」

脚本は「ハーパー・リーガン」「夜中に犬に起こった奇妙な事件」のサイモン・スティーヴンス、演出はショーン・ホームズ。なんとサイモン・スティーヴンスの新作を本国英国に先駆けて日本で上演!え!?すごいな!?主演は森田剛さんです。パルコ公式サイトにもあるとおり、「ファウスト」を現代ロンドンに置き換えた物語。だからタイトルも英語で「幸運」という意味の「FORTUNE」(ファウストラテン語の「幸運」)。

ファウスト博士ならぬフォーチュンは映画監督という設定なので、いろんな映画絡みの単語が飛び交いますが、パディ・コンシダインの名前が連呼されるのちょっとドキドキしちゃったし、パディの顔がここで思い浮かぶのわりと得した気持ちだなと思いました。フォーチュンの前に現れる若く、美しく、才能のあるプロデューサー。フォーチュンと同じくチャップリンを愛する彼女。ふたりの距離を縮めようとするフォーチュン、けれど彼女にきっぱりと拒絶されてしまう。フォーチュンはその夜、「秘密のサイト」を訪れて、そこに現れるルーシーという悪魔と契約を交わしてしまう。

個人的には二幕が圧倒的に面白くて好きでした。二幕のフォーチュン、しどころしかないといった感じで役者の力量でぐんぐんもっていくのが気持ちよすぎる。あの箱の中の刑事たちとのシーンのキマりにキマったあの構図、独房のなかでの覚束なさ、時間を示す砂、最後の演出の圧巻ぶり、いやー満足度高い。あの独房のなかでのフォーチュンの独白がすごくよかった。世界を語る彼に胸掴まれるものがあった。本当に剛つんはああいう台詞で得も言われぬ抒情をたちのぼらせるからすげえよ…。

ろくろくクレジットを見ないで行ったので、演出家…誰だっけ?と観ながら考えてたんですけど、あのぱっきりした装置や無機物な感触、あと「部屋」の見せ方とかが「これ向こうの人っぽいな」と思ってたらやっぱりそうだった。ああいう演出する人私の通ってきた日本人演出の芝居ではあんまり見ない。でもって、キャストもあんまり把握してなかったんだけど、んまーー田畑智子さんがすごいことすごいこと。もってく!板の上での球種が豊富で見ごたえある。そしてすべての姿勢がキマってる。かっこいい!吉岡里帆さんは立ち姿って点でちょっとスッキリしないところがあるのが気になった。声はよく通って聞き取りやすくてよかったです。菅原永二さんや平田敦子さん、根岸季衣さんや市川しんぺーさんはさすがの安定感。

タイトルロールの森田剛は圧巻の仕事ぶり。剛つんて、それこそ舞台の上で球種が多い方じゃないと思うんだけど、とにかくここぞという大事な一点でむちゃくちゃ届く。その距離がハンパない。それは「いろんな球を投げれる」よりも実は難しいことのように思います。

「二月大歌舞伎 昼の部」

二月の昼の部は十三世片岡仁左衛門追善興行として、当代仁左衛門さまが菅丞相をおつとめになる菅原伝授手習鑑の半通し。なんと!わたくし、加茂堤から筆法伝授、道明寺まで、すべて初見でござる!観たことなかったんかい!なかったんだね!

久しぶりに全く見たことない演目のしかも通し(半分だけど)、ちゃんと予習していこ…話についていけるかな…とドキドキしておりましたが、全然大丈夫だった。大丈夫どころか、すごく面白かった!特に道明寺!!

まず加茂堤では勘九郎さんが桜丸を。桜丸、公務の途中なのに若い二人を引き合わせちゃうわ、若い二人にあてられてさかるわ(言い方)、なるほどこういうキャラクターなのね本来は、という得心感すごい。車引だとどうしても線の細いタイプがおやりになることが多いからさ~。孝太郎さんの八重も素敵でした、こんなおかしみのある場面だとは知らなかったな。

筆法伝授がこれまたむたくた面白くて、菅丞相からの筆法伝授を受けるのはおれにちがいない、とおごる左中弁希世と、勘当されてお顔を見ることもかなわなくなった源蔵がじきじきのお呼び出しに期待と不安がないまぜになった面持ちでやってくるのと、この対比がずーっと効いているうえに、伝授がかなったけれど勘当ゆるさぬ、となったときの源蔵のあの嘆き!源蔵にとっては伝授が叶う、それはすなわち勘当も解けるのではという期待があったからこそだったのに…!っていう。戸浪が園生の前の着物の影から見送るところも切ないし、なによりこれ、この段を知って寺子屋を観るのと知らないで観るのとは全然違うのでは!?と思うくらい、源蔵と戸浪の物語が凝縮されてますよね。この流れで寺子屋見たかったわー!

そうそう、筆法伝授の途中の舞台転換面白かった。精進潔斎中の菅丞相のところに行く場面で、回り舞台のセットをそのまま歩いて続きの部屋に入るという。鳴子廻しというそうですね。スペクタクル!大劇場ならではの愉悦のある転換でした。

そして道明寺。近鉄南大阪線が身近なものとしては「土師の里」も「道明寺」も「はいはい駅名駅名」って感じなんですけど、いろいろとなるほどそういういわれがー!な部分も楽しかったですし、何よりドラマが濃厚!これめったにかからないの、そりゃ菅丞相をやれる役者がそうそういないとはいえ、も、もったいない…!という気がしてしまいます。いやだって道明寺がめったにかからないってことは覚寿チャンスもめったにないってことになるじゃないですか。覚寿、最高じゃないですか。娘の仇に気がついて、そこで騒がず、いやワシの手で、とかいって刀を受け取り、真の仇にぶっ刺すとかマジすごい。

奴宅内(勘九郎さん!)のおかしみある場面もありつつ、最後の苅屋姫と菅丞相の別れの場面の抑えに抑えた情の表現たるやですよ。仁左衛門さま、とにかく筆法伝授も含めて出てきたすべての場面で説得力が段違い。このひとのために梅王丸や源蔵やまわりのひとが動く、このひとのためにやらなければと思う、そのエナジーの根源にこのひとがいるのだ、というその存在感。ほんとね、拝みたくなります。マジのガチで拝みたくなります。

しかし繰り返しますけど、とにかくドラマとしてむたくた面白い。いつか昼夜通しやってほしい。丸一日この物語に喉まで浸かってみたいです!!!

「1917 命をかけた伝令」

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サム・メンデス監督作品。今年のアカデミー賞で撮影賞ほかを受賞。撮影はあのロジャー・ディーキンスだよ!14回目のノミネートでようやくオスカー受賞叶ったのも記憶に新しいところだけど、今までごめんやでといわんばかりの連続受賞マジでおめでとうございます!

第一次世界大戦下のヨーロッパ、西部戦線におけるドイツとの攻防。ドイツ軍の撤退を知ったデヴォンシャー連隊は追撃をかけるべく進軍する。しかし、それは連隊をおびき寄せる罠だった。デヴォンシャー連隊の総攻撃を停止させるべく、2名の歩兵が伝令となる。

物語の構成としては非常にシンプルで、伝令を受け取った地点Aから、それを伝える地点Bへの移動、それだけです。この、移動を一つの大きなストーリーテリングとするというのは、実は映像だからこそできるというか、映像に圧倒的な強みがありますよね。ロードムービーというジャンルがあるのもその証左だし、演劇でもそういう「移動」を見せるものがないわけじゃないけど、色合いはかなり違ったものだし。

なぜそう思ったかっていうと、この作品は一つのカメラでワンカットとして撮った形で映像が編集されていることが話題になってるんですが、もちろん実際のワンカットではない(物理的に考えてこの規模をマジのワンカットワンシーンで撮るのは無理)。実は三谷幸喜さんはその昔「ショートカット」というWOWOWのドラマで、マジのワンカットワンシーンをやったことがあるんですよね。言うまでもなく演劇って「究極の長回し」だから、舞台演出家でもあるサム・メンデスがそういった「究極の長回し」に類したことを映画でやり、でもその物語のフォーマットはもっとも映像に強みのある「移動」を描いているっていうのが非常に面白いなと。

カメラは常に伝令となったふたりの兵士に寄り添い、彼らの見たもの「しか」描かれないので、没入感がすごいです。ドイツは撤退したとの情報があるとはいえ、それがどの程度正確なものかわからないままあの無人地帯を進んでいく。ひとも動物も皆息絶えており、腐り、その形をとどめない。その容赦のない描写がまずすごい。ドイツ軍の塹壕でのワイヤートラップ、ヒィ!って思わず声が出たわ。中盤、意識を失ったスコが見る夜の教会の光と影の鮮烈さ!あの橋をわたるシーン、銃撃戦、その中の母子(ではないけど)との場面、となんだか夢を見ているような酩酊感があって、ホントあの世界に完全に持ってかれちゃってましたね。

キャストの要所要所に綺羅星のごとく英国俳優陣を配しており、指令を託すコリン・ファース、現場指揮者のアンドリュー・スコット、途中でスコフィールドを助けるマーク・ストロング、指令を伝える先はベネディクト・カンバーバッチで、しかも最後にリチャード・マッデンまで出てくるという。英国俳優双六でもありましたな。

トムの運命も、まさかあんなことで…っていうあっけなさで、それがリアルで、ウィリアム・スコフィールドが(彼の名前、最後のシーンで名乗って初めてわかるよね。トム・ブレイクは最初に呼ばれるけど。トムは「スコ」としか呼ばないし)助からない、と静かに告げるのも含めてどうしようもなくやるせなかった。そういえば、この物語は最初と最後が同じ、私の大好きなループする構図ですね。木の下で居眠りをしていたスコフィールドが起こされるところから始まり、また彼が木の下で目を閉じるまで。ご覧になる時は、ぜひ大画面で没入感を味わっていただきたい作品です。