「きらら浮世伝」扉座

江戸時代に実在した版元「蔦屋重三郎」のお話。戯作では山東京伝滝沢馬琴大田南畝ら、絵師では歌麿写楽を世に出した、実在の人物(これがすごいよな!)の生き様を描いた物語。今で言うところの、編集者ってポジションかな。で、今に置き換えるなら宮部みゆき京極夏彦と、漫画家では尾田栄一郎井上雄彦を一人の編集者が育てたようなものといえばわかりやすいか。いや、でも本当はそんなもんじゃなかったろうなあ。多分もっとすごい。

私の勉強不足で、この物語の何処までが史実にあったものなのかはわかりませんが、創作者たちの表現への飽くなき渇望とそれ故の苦しみ、そして錦絵が好きで、黄表紙が好きで、好きで好きでたまらない一人の男がその情熱のままに駆けていくさまは、ものすごく題材的にもツボで、何度か、普通の何でもないやりとりで不意に泣けてしまったり。銀ちゃん(蔦屋)が「ぼろぼろになってもどうしても捨てられない、そんな黄表紙を作るんだ」って言うところとかね・・・。あと、後の北斎である鉄蔵が「ひとつだけ教えて下さい、絵というものは、何かの役にたつものなんですか、ここまで、自分を捨てなければならないものなんですか」と言うシーンも泣けたなあ。

これは個人的な考えになるけれど、私は本も映画も音楽も芝居も大好きだし愛しているけれど、本も映画も音楽も芝居も何かの役に立つ訳じゃない、言ってみれば「なくてもいいもの」だと思っていて、それはこれらのものを卑下しているからそういうんじゃなくて、だからこそ、役に立たないものだからこそスゴイと思うし好きだし愛してもいるわけです。役に立たないものだから、価値がない、役に立つものだから、価値がある、そんなことで自分の好み決めるほどお安くないんだよとすら思っているわけです。だから将軍の絵一枚で時代をひっくり返せる、という鉄蔵に勇助が言う「一枚の絵が時代をひっくり返しちゃいけねえ。絵ってのは・・・もっと、いいもんだよ」というセリフは、もう本当に大好きでたまらないのですよ。

初演は横内さんは脚本だけで、勘九郎さんが蔦屋をやったらしいんだけど、確かに話のスケール感から言っても大劇場風味ではあるなあと。でかいコヤで観てみたくなる作品というか。転換の幕とか行燈の使い方とかはちょっと黒子の動きが目に付く感じが・・・まあおかげでスムーズに話が動くんだからいいのかもしれないけど。吉原の大門の上で銀ちゃんが独白するシーン、そこだけ浮かび上がるような照明で、「こんな時に寝てるんじゃねえ」の呼びかけが私達客席の一人一人に投げかけられているようで効果絶大だと思いましたねえ。

銀ちゃんは非常にお得意というか、かなり粋で真っ直ぐでちょっと不器用で、っていう柄にはまった役所で素敵でした!前述の大門のシーンも素晴らしかったし、作品や作者に対する愛情が節々に感じられて良かった。ヒロインは木村多江さんだったんですが、和服がきれいに似合っていて良かったなあ。歌麿がかなり重要なポジションなんだけど、佐藤さんがちょっと役に沿ってなかったような印象。「絵というものへの」「執着」の「執着」だけが異様に目立ってしまった感じ。鉄蔵役の子は最初うるせえなあ、と思ったんだけど独白のシーンは熱がこもっていて良かったんだよな。最後また「うるさい」に戻ってしまっていたけど。六角さんはもうねえ、しびれるほどうまい。切腹のシーンは息することを忘れそうな迫力。さすがです。

書くことを制限されても、描くものを規制されても、ひとが何かを書きたい、表現したいという欲望は、走り出した馬は誰にも止めることなぞ出来ないのだよなあ。あの世界で、写楽の描いたきららの錦絵が、もっと見てみたかったと思わずには居られませんでした。