「イェルマ」ナショナル・シアター・ライブ

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今の住所に引っ越してきてから縁遠くなっていたナショナルシアターライヴ。遠征の合間の時間に見に行ってきました。時間が短い(約107分)のも助かった。

ロルカの戯曲を現代のロンドンに置き換えた脚色がされており、その脚色が実に見事。水槽のような透明な仕切りの中で客が両サイドから見るような形で、舞台の床面が絨毯、芝生、泥とあっという間に入れ替わるのが魔法みたいだった(家具や木のセットもしかり)。なんか、油圧式で上下する装置を使っているらしいんだけど、暗転の間になにげなーくつるっと入れ替わっているので逆に最初はあまりすごさに気がつかないぐらい。

理解し合えるパートナーがいて、仕事も順調で、家を買い…と人生のステージを順調にあげていく主人公が次に夢見るのは「子どもといる自分」。それを手に入れるために彼女は力を尽くす。一身に尽くす。すべてをなげうって尽くす。

私には彼女の「自分の子どもを持ちたい」という願望は理解できないが、彼女が「子供を持つ自分」という物語を思い描き、その物語から外れることがどうしても許せない、受容できないという心情はわかる気がする。そう思ったのは彼女が自らの子どものことを思い描き、「大丈夫よ」と語り掛ける自分(これはそうされなかった自分の人生のやり直しでもあり、だからこそ強固な願望なのだともいえる)を具体的に思い描くシーンと、養子という選択肢を示されて「そんなことをしたらこの両手が凍ってしまう」と激昂するところからだ。こうでありたい、こうでなければならない、という夢ほど人間を内側から喰い破るものはない。

ラストシーンには、なんというかホッとするところもあった。彼女の夢が他者を害する方向へ行かなかったことの安堵もあるし、もう夢を見なくていい、という解放感もあった。幕間に示される月日の経過とそれぞれのシーンを示す言葉が印象的(不穏な音楽も効果的だった)だが、中でも姉の流産を知る場面でのキャプションが「HOPE」だったのがぞっとした。そしてその心情をブログに書いてしまう彼女。夫との性行為(彼女にとってはそれはもはや生殖のための一過程にすぎない)すらも、つまびらかにブログに書いてしまう。このあたり、SNS時代をうまいこと汲み取った展開で唸らされます。

三年子なきは去れではないけれど、子がいない、ということ自体にプレッシャーのあった時代から、現代の「彼女(役名はない、HERとだけ書かれる)」が抱える様々な問題にシフトして描き、私たちの物語として手渡す脚本・演出も素晴らしかったですし、主演のビリー・パイパーも圧巻の演技で堪能しました。面白かったです。