後藤ひろひと大王の脚本はやっぱりすごいという話

T-Worksの「源八橋西詰」、さきほど千秋楽の幕が開いたところですかね。わたしもいくつか感想を探して読んでみましたが、大王の脚本のすごさ、ベテラン久保田さん&坂田さんの手練れぶりとともに丹下さんへの絶賛も多く、見事にプロジェクトの目的を果たしてるなーと思いました。

しかし、思い返すだに後藤さんの脚本のうまさというか…いやあれなんていうんでしょうね。トリッキーという言葉もしっくりこないし、本当に悪魔的なうまさだなと思い知らされた感じがあります。

ここから「源八橋西詰」のかなり核心的なネタバレをします。

物語の中盤、大きな核となるエピソードに童話作家の話があります。病院を思わせる人々のスケッチ。そこにひとりの女の子が出てくる。ツインテール、たどたどしい喋り方、茄子を擬人化してひとり遊びをしている。ここで観客はなんの説明台詞がなくても了解します。この少女はおそらく入院中で、その寂しさを紛らわせるためにひとり遊びをしているのだと。

そこに現れるひとりの男性。彼は女の子のひとり遊びに巻き込まれ、おとぎ話の聞き手となります。少女との会話から、この男性がおそらく童話作家なのだろうということもうっすらとわかるようなやりとりが描かれます。女の子の語り口は最初はたどたどしいが、その物語の一種異様な迫力にのまれ、聞き手である男性は涙ぐみ、最期にはその美しい結末に観客は思わず聴き入ります。

女の子が去ったあと、男性はどこかに電話をかけます。ええ、そうなんですよ、新作が書けそうなんです…え?レイコですか?元相方の?…いや相変わらずです。あの事故以来、どうも自分を少女だと思い込んでいるようで…

演劇では、「子ども」の役を、「そういうテイで大人が演じる」ことがざらにあります。それはそうです。たとえば子供時代の回想シーンでいちいち子役を出すほど小劇場界にはお金がありません。大人も子供も老人も、皆同年代の役者が演じる。よくある話です。そして、そういう人物を示す「演劇的な記号」を観客はちゃんと察知します。ツインテール、たどたどしい話し方、茄子をヒト視したおしゃべり。観客は「大人の役者が少女を演じている場面」であると飲み込み、何の違和感もなく物語の続きを見ます。

だからこそ、最後の台詞にハッとなるのです。私たちは少女見ていたわけではなく、少女となった大人の女性を見ていた、つまり、目の前にあることが目の前にあるままだったということに、そこで初めて気がつく。そして、この場面で誰一人としてこの人物を「少女だ」という認識で語った台詞がなかったことに気がつくのです。演劇とは「見立て」の芸術ですが、その「見立て」に慣れた観客だからこそハッとさせるこの展開のうまさ!

こういうのは、最後にどんでん返しの台詞を入れさえすればよいというものではなくて、緻密に、慎重に、観客をいわばミスリードしていく手管が必要です。脚本だけでなく、役者の手管も。語り手となる女性はもちろん、物語の聞き手となる男性を演じたのは久保田浩さんですが、あからさまに「女の子を相手にしている」芝居をすると最後のどんでん返しと相容れなくなくなりますし、最後の展開を意識しすぎた語り口になると、これもまたラストの展開が有効でなくなってしまうおそれがある。なんでもない顔をして幅の狭い平均台を歩いているようなものです。最初に彼女を見たときの驚き、大人なの?子供なの?ギャグのように聞こえる問いかけ…いやあうまい。うまいとしか言えない。

「源八橋西詰」ではさらにこのあと、観客をはっとさせる物語の展開がもう1枚仕込んであり、この終盤の連続アッパーカットになんというか気持ちよくノックアウトさせられたという感じでした。とくにここにあげた童話作家の話の描き方は、絶対に映像ではできない、見立てによる先入観を利用した作劇で、こういうエッセンスをさらっと書いてしまう後藤ひろひと大王の筆の冴えよ…!と思わず拝みたくなります。

昨今の「ネタバレ」を気にしすぎる風潮に首をかしげることもありますが、しかしこういう作品を観ると、容易に展開を察知させる感想を書くことの良しあしを考えさせられてしまいますね。最初に書いた感想ではそれを思って控えましたが、しかしどうしても書いておきたくなってしまったので、千秋楽ということに免じ、ゆるしていただけたらと思います。素晴らしい舞台でした。