「アユタヤ」MONO

MONO新作。前々日ぐらいにツイッターで公演情報見かけて週末行けるな…と衝動的にチケット買いました。MONOもなにげにごぶさたしちゃってましたね。

タイのアユタヤ王朝下にあった日本人町を舞台にした作品。かつては栄えていた町も、王朝との軋轢や内部での格差問題などで不協和音が大きくなっている。貿易商を営む兄妹はなんとか日本人町の体制改善を行おうとするが、なかなかうまくいかない。そんな兄妹のところに、長崎から渡ってきたひとりの日本人が逃げてくる。町の権力者に反抗的な態度をとったために追われているというその男を兄妹は匿うことにする。

舞台は17世紀のタイですが、たとえそれが弥生時代であっても(裸に勾玉ですネ)そこにいる「人間」はわれわれと大きく違わない。「時に古今の差なく、国に東西の別はない。観じ来れば、人間は始終同じ事を繰り返して居るばかりだ。今から古を見るのは、古から今を見るのと少しも変りはないサ。」と言ったのは勝海舟だが、土田さんの作品にはそれをさらにミニマムにした世界観があるような気がする。

「純粋な」日本人であることを意味もなく尊ぶ風潮、「異人」を蔑む空気、「ハーフ」を排斥し、「現地生まれ」にマウントを取る大人たち…。いや本当に、いままさにSNSで繰り広げられていることと何が違うのかという。途中、登場人物のひとりがかなり強烈なレイシズムを見せるところがあって、そこはなんというか、むちゃくちゃキツい。

今回は、今まで土田さんが見事に描き出してきた、そういった誰しもが持つ人としてのいやったらしさよりも、同じように誰もが持つ、誰かが誰かを助けようとするときの気持ち、というものに焦点を当てていたように思いました。ラストシーン近くの一之介とハツとの対話。事なかれ主義のようにも見えるのに、ある一線では決して体制に流されない兄にハツが聞く、兄の信念はどこにあるのか、と。一之介は信念なんてものではないと答える。知っているひとのことはよくわかるだけだ。そしてこうも言う。正義を言葉にしすぎると、そこからこぼれるものがある。言葉にした正義と違うことがゆるせなくなる。そうしてどんどん、許せないことが多くなる…。

シリアスな場面の重さはしっかりと手渡しつつ、絶妙な会話と間で笑いを見せていくのはいつもながらお見事でした。それぞれのお国言葉が飛び交うのもいいよね。

個人的には最後の「行く・行かない」はなくてもよかったかなと思うけど(というかあんなこと言い出すこと自体がむちゃくちゃ信用ねーなって感じでがっかりしちゃう)、出てくる登場人物のバランスを取るためには奏功しているのかな~という感じでした。あとカボチャがまさかのカンボジア(カンボジャ)由来の言葉だったとは…!

MONOは2019年に30周年だったということで、記念冊子も販売されていました。劇団を30年継続する、しかもその間ほぼ新作を上演し続けているって本当に口で言うほど簡単なことじゃないですし、それをひそやかにやり遂げて、やり遂げたことに一抹の含羞があるのがまた、MONOの品だよな~としみじみ思います。これからの作品も楽しみにしています!