「ガーディアンズ・オブ・ギャラクシー:リミックス」


イェア!初日に行ってきましたよーん!本当はIMAXで見た後おかわりで4DXっていうプランだったんですけど、時間の都合上やむを得ず逆パターンに。ちなみにジェームズ・ガン監督はIMAXも4DXも激推しだそうですよ奥様…(誰)。

ということで例によってここからネタバレです。これから見る予定の人はここで回れ右が推奨!(マジで!)見ようかな〜と思ってる人は、できればまず1本目を見て、そして公式サイトの予告編を見て、よっしゃ銀河をノリで救うぜ!ってテンションで観に行ってほしい。ほかの沢山あるMCU作品はいったん外においといて大丈夫です!いやマジで無印GotGもおすすめだし今回のvol.2(リミックス)もうちょうおすすめなのでこの機会に!ぜひ!映画館で!(必死か)

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「五月花形歌舞伎 夜の部」

  • 松竹座 1階左列9番

「野崎村」。七之助さんのお光で野崎村観るの初めてだっけ…(お染は何回か見てる)と思ったらあれか、お染の七役のときにお光もやったからなのか勘違いしてたのかな…ってそんなわけある!?ということでたぶん七之助さんのお光初めてです。むっちゃかわいくてむっちゃいじらしい。ただ、個人的に野崎村ってすごくハマって見ちゃうときとそうでもないときがあって、今回はなんだか座組として最後まで乘れずに終わってしまった感がありちと残念。

怪談乳房榎」。勘九郎さんで拝見するのも3度目になるのかしら。新橋演舞場歌舞伎座と比較すると松竹座は間口が小さいのだけど、その一回り小さいコヤがこの演目にすごく合っている気がしました!あと大阪のお客さんこういう芝居やっぱ大好きだ。勘九郎さんも初めてやったときと比べてもぐっと余裕が出てきているのもあるし、その余裕がまた早変わりの凄さとのギャップでより鮮やかに見えるし、相乗効果ってこういうこと?っていう。早替わりのたびに観客がわっと浮き立って、それがあのクライマックスでだんだんと「自分が今誰を観ているのかもはやわからない!」みたいなカオス状態に陥っていくの、演ってて最高に気持ちいいだろうな〜!なんて思いながら見ていました。

でもって、あの花道での三次と正助の早替わり、左列だったので目の高さでばっつり見たわけなんですけど、ちょっとわかった気がしたけど、逆に言うとここで見てもちょっとしかわかんないっていう。マジックか!マジックかよ!三次が正助を追ってぽーんと花道に飛び出していくときの跳躍とかさ、もう文字通りわっ!って沸いたもんね…あの身体能力の高さ…!

今回は猿之助さんが浪江ということで、こーれがまた新鮮でよかった。でもって、ここぞ、というときの押し出し力がすごい。もう、ぐいぐいくる。色悪、というよりもふとした瞬間に芯からこわい男、というような佇まい。華があるよねえ…(ぽわわわわ)

正助と三次って、ほんと真逆の役なのに(いわばカツアゲする側とされる側)、早替えってだけじゃなくて人まで変わったように見える瞬間がいくつもあって、そういう振り幅も含めて楽しみました!やっぱりこういう趣向をふんだんいこらしてもてなしてくれる演目は大阪でぐっと客を掴むんだな〜と改めて実感!

「五月花形歌舞伎 昼の部」

  • 松竹座 1階右列6番

勘九郎七之助兄弟に猿之助さまががっつり絡む!見に行かないでか〜!ということで昼夜通し。
まず「戻駕色相肩」。勘九郎さん、歌昇さん、児太郎さんで駕籠かきと禿ののほほんとした雰囲気…と思わせておいて最後に実は、な展開が入るところがすごい。勘九郎さんは実は、で石川五右衛門の姿になるんだけど、ぐーーっと大きく見えて素敵でした。今回1階の右列(歌舞伎座でいうところの桟敷)だったので、足元がよく見えて嬉しかったな…やっぱ舞踊は足元が見えないと楽しさ半減だとおもうの…!

「金幣猿島郡」。三代猿之助四十八撰、猿之助さんの宙乗りがみられますよー(つい先日無事宙乗り1000回の記録達成!おめでとうございます)。猿之助さんは名前も知らぬ男に恋をして、会えないつらさに泣き暮らすあまり盲目となり、この世に何の望みもないと将門の妹である七綾姫の身代わりとなろうとするんだけど、急転直下の展開で目が見える!しかも恋した男が目の前に!さらに七綾姫はそいつと言い交わした仲!これで身代わりとか冗談じゃねー!と「恋しさあまって憎さ百倍」のパターンになる役と、逆に七綾姫に入れ込むあまり鬼となる男の二役を演じていらっしゃいます。

いやはや、しかし、清姫のあの心変わりの場面、変わり身の早さに観客もちょっと笑っちゃってるし、猿之助さんも若干それを煽るようなお芝居をされてるところもあるんだけど、すごいのはどれだけ客席の空気がふわっとしても「恨みはらさで…」でもう、音がしそうなほどに観客を、劇場を飲み込んでいくところ!ほんっと、ねじ伏せるよね…!あたし、ねじ伏せられるの、だぁい好き!(目がハート)
やっぱり猿之助さんの瞬発力というか、一瞬で空気を変えていくのってすごいと思うし、やっぱりちょっと勘三郎さんを彷彿とさせるんですよね…。だから勘三郎さんが猿之助さんのことを「すごい」そして「俺に似てる」とおっしゃったのもわかる気がするな〜と思ったり。

勘九郎さんと七之助さんのカップルぶりもすごくほほえま〜だったんですけど、あの花道の船の上での口移し、ああいうのはなんかニマニマしながら見ちゃいますね(それじゃエロ親父だよ)。あと、今回勘九郎さん頼光だったじゃないですか。猿之助さんが蜘蛛絲梓弦をやったときも勘九郎さん、源頼光だったよね…あの四天王従えた姿ちょう好きだったわ…とかいうことまで思い出して、勘九郎さんのお姿にときめきまくりました。あと、双面道成寺猿之助さんの三ツ面の踊りを真横で観ている勘九郎さんの顔がなんつーか「あーーーー踊りてエ!」って顔に見えて、んもー踊っちゃえヨー!と心中思った私である。勘九郎さんと猿之助さんでがっつりの舞踊見たい。見たいの見たいの!(願望は口に出していくタイプ)

「ディファイルド」

この戯曲は2004年の、大沢たかおさんと長塚京三さんのコンビ、スズカツさんの演出で上演されたものを観ています。今回は戸塚祥太さんと勝村さんの顔合わせ。かっちゃんの芝居観るの久しぶり、いつ以来かなと思ったら2年ぶりぐらいだった。そんな久しぶりでもない…?(笑)

13年ぶりに観るということは、もちろん私も13歳年を重ねるわけで、そうするとこれは時間が経てば経つほどハリーの年齢から離れ、ブライアンの年齢に近づいていくわけです。そのせいなのか、演出のプランなのか、はたまた上演台本の変更?のせいなのか、自分のスタンスが驚くほどブライアン側になっているということになんだかちょっと愕然としました。

いや、というか…やっぱり脚本のカットがあるような気がするんですけど、どうなんでしょう。確か前回上演時間が2時間はあったと思うんですよ。今回は1時間40分。あと、印象的だった台詞、がなかった、気がする…(記憶違いだったら申し訳ない、鱒の台詞ってありましたっけ?)

最終盤でブライアンはハリーに向かって「現実ってやつを教えてやる」と言い放ってしまうわけなんですけど、その言葉は迷える若者には有効かもしれないけれど、例えば明日、命が終わると知って祈りを捧げている者にとってはなんら有効なものじゃないじゃないか、そう感じたことをすごく覚えてるんです。でも実際、そのブライアンの語る「現実」に頷かざるを得ない私がいましたし、今回はハリーに身を寄せて考える前に終盤の展開がきてしまったという感じでした。

あと、勝村さんがやってるからというのもあるかもしれませんが、どこまでがブライアンの「交渉術」なのか?ってことを割と考えましたね。おそらく、ブライアンにとっての計算違いは最後にハリーがブライアンだけを外に出して図書館の中に戻ってしまったことだけなんじゃないだろうか。つまり、一旦出て、銃を持ち帰り、形勢を逆転させ、交渉に失敗したと思わせて最後の妥協案を出す…ハリーが本を探しに行ってる間の無線を通じての「成功しました。これから出ます」のトーンの一種冷酷さ、しびれました。そしてハリーは逆に、どうにかしてブライアンを外に出す、ということをきっと考えていたんだろう。奥さんの声を聴きたがったのも、そのためなのかもしれない。そう思うと切ないですね。

勝村さん、いやー、さすがにうまい。見ている間、うんまいなあ…と感嘆しっぱなしであった。この戯曲の設定にある「ブライアン」のような、定年間近の老刑事にはちょっと見えないのが難といえば難だが、それを補ってあまりあるうまさである。東京でやった劇場よりもブリーゼは数倍大きいが、きちんとコヤのサイズに合った芝居をしてくるところもすばらしい。硬軟自在にもほどがありました。戸塚くんももちろん悪くはないが、しかしどうしても球種の少なさが目立ってしまうかなあという感じ。行き過ぎた思い入れ、がサイコパスめいた台詞回しに流れそうになるのが惜しいなと思いましたし、ブライアンに詰め寄る時の芝居ももう少しパターンがあった方がいいかなと。姿勢や身のこなしが美しいのはさすがですね。電話越しにイタリアの小さなカフェの話をするときのトーンはとてもよかったです。あそこいいシーンだよね…。

コンピューター、スターバックス、画一化されていく世界、副題のように「飼うのに都合のいい短毛種の犬」が世界を覆っていく。そのうち誰もが本当の「ユニーク」を忘れ、役立たずのものは排除される。そんな世界への反旗を翻したかった若者像を舞台上に結ぶことができていたか、という点では演出面も含めてもう一声!という感じはありましたが、脚本そのものの強さというか、この構図が訴えかけてくるものの不変さというものを改めて感じることができた気がします。

「フリー・ファイヤー」


(このポスター好きなんすよ…てへへ)
おおおおおもしろかった!!!!アーミー・ハマーさんが出てるというので知ったのですが、予告見ても好きそう要素しかない!と思って里帰りにからめて見てきました。上映館少なめなのがかなしいけど見に行けそうな方は是非!

深夜の人気のない倉庫で行われる銃取引。ライフルを買いたいアイルランド生まれの男たちと、売りつけたい南ア育ちの男。何でもない取引のはずだった、しかし少しずつ歯車が狂い始めてしまう…!

銃取引が行われる古びた倉庫、銃と金を挟んで向かい合う者たち、このワンシュチュエーションで90分間見せきります。なにしろ売るほど(not比喩)銃があるわけだから、もっと激しい撃ち合いの乱戦になるかと思いきや、うまいこと武器が双方に配分されていて(それも前半で無理なく描かれている)、リソースに限界があるところ、でもって一気に衝突!ってなるんじゃなくて潮の満ち引きのようにヤバい空気とそれをなだめる空気を見せていくのがすごくうまい。こういうの、最初に引き金を引いたやつが「単にバカ」みたいな感じで描かれそうなところ、アーーッこれは引いちゃう!ダメだけど!ってなるものなあ。

銃を買い付けるほうは1978年、アイルランド、というキーワードからもおそらくIRAがらみと思われ、思想的に(そして血のつながり的にも)一枚岩と言える一方、売り手はブローカーに仲買人にスキあらば買い手の目を誤魔化したい者にと、敵と味方が瞬時に入れ替わってもおかしくない構成なのも展開の多彩さに拍車をかけていたと思います。

あと、銃で撃たれる、というアクションをことさら引き立たせて見せてないというか、「ビックリさせるための演出」に使ってないのがすごくいいなと思いました。撃たれるときはなんのドラマ性もなくあっさり撃たれるし、撃たれてもまだ生きてるし、これは死ぬな!というときはちゃんと観客にもそうわかるように死んでいく。死をむりやりドラマにして引っ張らなくても物語の吸引力がまったく落ちない。

アミハマさんの演じたオードくん、もふもふおヒゲの伊達男で、終始冷静に「生き残り」を視野に動いているのがめちゃんこかっこよかったです。しかし背ェたっかいな!キリアン・マーフィーと並んだ時のサイズ感の違いに改めて感心しました。どっちかというとオードくん目線で見てたけど、電話をめぐるクリスとフランク、そしてヴァーノンの攻防は見応えあったなー!あの電話の小道具の使い方とかほんと唸るよね(だからこそ、年代は「今」じゃできないのよね、携帯電話があるから)。

オードの台詞(それだけ撃たれても1時間30分は持つ)や映画冒頭の監督からのメッセージ(FBI云々…)でもあるとおり、人間はなかなか死なず、しかし死ぬときは死に、あの箱庭的世界でその円環がうつくしく閉じられるのが個人的にめちゃんこツボでした。面白かったです!

「ムーンライト」


本年度アカデミー作品賞!ということで公開も早まり規模も大きくなり、おかげで見ることができました。

すごい、なんというか…映画らしい映画でした。こういう映画を見ると、当たり前だけど物語(script)よりもキャラクターよりもなによりも、映像でいちばん多くを語るのが映画なんだなーと実感します。リトル、シャロン、ブラックと孤独な少年が出会った人間と、それによる作用反作用が丁寧に描かれていて、だからこそ最後のダイナーのシーンはなんともいえない緊張感がありました。あそこで、一瞬あのビーチを彼が振り返るところがすごく良い。

宣伝美術のショット、3人の顔で構成されているのが一瞬わからないほどで、すばらしいセンスだなと思いました。

「トレインスポッティング2」


オリジナル(という言い方がいいのかどうか)の公開は1996年。日本でもいわゆるミニシアターで公開され異例のロングランとなって話題を呼びましたが、本国イギリスにおけるこの映画への特別な感情ってのは絶対あるんじゃないかなって推察します。それこそ、あの当時のおおくのひとが「おれたちの・わたしたちの映画だ」と思ったんじゃないでしょうか。ちなみに私はその頃全く映画を見る趣味はなかったのですが、好きなバンドのPVが雰囲気似てると言われ、マジ?とレンタルビデオで見た口です(チョロQよりチョロイ)。

そのトレスポが20年の時を経てオリジナルキャスト、そして監督ダニー・ボイルで帰ってくるという!めっちゃ楽しみにしていました。日本公開のタイミングで引っ越してしまい、残念ながら引越し先では上映されていなかったのですぐには見ることができませんでしたが、出張にかこつけて無理やりねじ込みました。いやー、すごくよかった…。続編となると、1本目を観客が見た前提にするのか、見てない客でもついていけるツクリにするのか、見てても見てなくても関係ないツクリにするのかパターンはいろいろだと思いますが、基本的に「見てる」前提でぐいぐい話がすすんでいくし、あの頃の「おれたち・わたしたち」の地続きを描いて容赦ないし、容赦ないんだけど、絶望を見せるだけじゃないし、自分も画面の中の彼らと同じ年月を重ねてきたからこそ、「人生の負けが込んでいく」さまにむしろあの頃よりものめりこんで見たような気さえします。

中でも、CHOOSE LIFE、前作でのあの印象的なフレーズをきっかけに、レントンがヴェロニカに対していうCHOOSEから始まるフレーズの羅列はすばらしい!見事の一語に尽きます。ここは字幕ではなくあの言葉のリズムも含めて堪能したいと思わせます。久しぶりに長台詞の高揚感とテンションに酔わせてもらったし、これをものするユアン・マクレガーもさすがです。個人的にここだけでもお金を払った甲斐あったなと思わせてもらいました。

レントンに人生を狂わされたという執念から自由になれないベグビーの二人の対峙、あそこ…ベグビーは自分の首を絞めているようでもあるよなあなんて思いました。彼が息子を自由にしたことにすげえほっとしたな…。スパッドが「書く」ことで自由になろうとするのもよかった。でも「書く」ってほんと、何かに対する「喪の仕事」としては相当な機能を果たすと思うので(人物に限らず、事象でも、時間でも)、そこから物語が大きく展開していくのもうまいなと。

時折「あの頃」の彼らの姿がインサートしますが、中でもレントンがフロントガラス越しの自分を見る瞬間なぜだか猛烈に胸に迫って泣けてきて参りました。すごく誠実な「続編」だったと思います。