「エトランゼ」   キャラメルボックス

私には、3つ年上の姉がいます。
彼女は小さい頃からピアノをやっていて、ピアノの先生になりました。基本的に真面目によく勉強する「良い子」で、運動神経がよく運動部でもないのにリレーの選手だったり水泳の選手だったりしたもんです。私は、姉の真似をしてピアノを習いはじめ、練習をサボりまくり挙げ句挫折してやめました。姉は構われ、私は「放っておいても大丈夫な子」でした。そしていつも言われていました。「お前は男に生まれていれば良かったのに。」

これは、エトランゼの主人公「ななえ」の話ではなく、私の話です。驚くでしょう?見たんか!見てたんか!と言いたくなるぐらいのかぶりっぷり。だから、私はこの芝居、最初の5分で泣きました。これは私だ、と思ったから。つか、思うだろ。普通。私は、姉をとても愛している。けれども同時に愛していない。DMで、成井さんが言っていた、「愛せない家族もいる」という言葉が、私にはとてもよくわかりました。だから、この芝居を実は結構楽しみにしていたのです。

最初の5分の感動(?)が持続したかと言われればその答えはNOです。というか、涙が流れたのは後にも先にも最初の5分だけでした。一言で言うならば「やりすぎ」な舞台と言いましょうか。何もかもが過剰。何もかもという言い方はおかしいかなぁ。ひとの感情の割に、シチュエーションが過剰とでも申しましょうか。

この舞台の、何をどうすれば、人に受ける舞台になるのか私はよくわかります。かずみの夫のアル中もリストラもやめ、開の「感情の色」もやめ、里奈のヒステリックさもやめ、高柴の横恋慕もやめ、八木沢とななえ、ななえとかずみ、ななえと檜原の関係性に話の焦点を合わせれば間違いなく収束力のある舞台になります。誰かが何かを越えること、誰かが何かをつかむことがクライマックスにくる割に、その「誰」が分散しているから(この場合はななえと里奈、あるいはかずみも)見てる方の気持ちも分散するんだと思うんです。わたしなんて、ななえがかずみへの嫉妬や愛情や疎外感や、そういったものをどうやって越えていくか語られただけできっとハンカチ3枚は必要だったでしょう。私に限らず、兄弟や家族の問題なんて、誰でも抱えているのです。逆に、かずみの立場から見れば何事も自由にやれるななえは羨望の対象だったかもしれない。八木沢とななえもそう、八木沢はなんであんなにななえが好きなのか、ななえは八木沢のどこが好きなのか、ついぞ語られることがありませんでした。最初、八木沢は勝手にななえに入れ込んでる大勘違い野郎かと思ったぐらい。ななえも結婚する気があると知ってある意味衝撃でした(笑)。

でーーもーーね。
あたしは悪いけど、そんなこともわからない成井さんや真柴さんじゃないだろうとも思っているんです。そんなこと言われなくてもわかってる。客がどうすれば泣いて、感動して、満足して、席を立っていくかもうわかってる。だって15年よ?じゃなきゃとっくにつぶれてますって。「散漫」「話を盛り込みすぎ」というのは「クローズ」でも指摘されたことだった。それでもあえてまた同じ指摘を受けかねない舞台をやったってことは、これが今キャラメルの、というか成井さんの、やりたいことなんだろうと思う。今まで通りの作り方、今まで通りのツボの押さえ方はもういいよ、ということなんじゃないのかなぁ。
ただし、成井さんが今までの、キャラメルの伝家の宝刀手放して、辿り着きたいのがどこかっていうのがよくわからないんだよなぁ。それがキャラメルの持つ魅力を手放してまで行きたいとこなのか?ってところもわかんない。もしかしたら本人も今それを探している最中だったりして、と思ったりするのですが。(それに観客を付き合わせるなよ、というツッコミは大いにあり。)

それともあたしが勘繰りすぎで、単に才能が枯渇したとか?そう考えるのは悲しいだろう。

最後になったけど今回、役者としてうむ、良かった!と思ったのは近江谷さんのみ。西川さんはキャラクター自体が意味不明すぎてちょっと気の毒だったかな。

個人的にはこのあたりから、キャラメルの新作でズバ抜けて、ってやつが無くなっていく印象。タイトル聞いても、芝居の中身が思い出せない。