「バイオーム」

  • 東京建物ブリリアホール 1階E列31番
  • 作 上田久美子 演出 一色隆司

むちゃくちゃ豪華なキャストだけどリーディングか~、ということで「一旦見送り」にしていたんですが、もろもろ他の公演の遠征抱き合わせにちょうどいいかも、とチケット取ったら本命の公演が2つとも消えるという…コロナ禍あるある…そんなあるあるいやじゃ…。

拝見したのが千穐楽というのも関係あるのか、リーディング…?とは?みたいな顔になるぐらいほぼほぼリーディングじゃなかったですね。普通にストレートプレイでしたね。代々議員を輩出しているような世襲政治家の巨大な邸宅、その庭の一隅にある小さな森、黒松、セコイア、ばら、りんどう…。「ずっとそこにいる」植物たちの視点と、因業因縁渦巻く人間たちの視点が重なり、役者はその双方を演じるという趣向。

物語の印象として、「偉大な政治家の父をもった心弱い子ども」を描いた「パードレ・ノーストロ」をまず思い出しました。それから吉野朔美さんの「カプートの別荘においで」もかな。「パードレ・ノーストロ」も実際には会うことのなかったローズマリーケネディの姉)とアルド(トリアッティの息子)が天国の門のまえで語り合う芝居なので、ルイとケイが語り合うこの芝居と構造も非常によく似ていると言える。

出のシーンでキャストがそれぞれ植物として語る場面では譜面台のようなものに台本が置かれていましたが、終盤になるにつれ誰もホンを持っていない状態のまま進行してましたね。それで面白いなと思ったのは、演劇ってやっぱり見立ての芸術だなってところでもあるんだけど、観客は演者が舞台のうえで台本を手にしていても、「そういう趣向」としていったん飲み込むとそこに違和感を感じないように脳の回路ができあがるんだなってこと。変な話、台本を持たずに台詞を間違える役者と、台本を持ったまま流ちょうに台詞を言っている役者がいたら、前者を「不自然」と処理するというか。岩井秀人さんがハイバイの公演かなにかで、急遽代役で出るときに台本を持ったままやらせる、という手段をとったことがありましたが、あれはかなり観客の心理を読んだ選択肢だったんだなあと。

終盤に一家を襲う悲劇と言うか、今までのため込んだ因縁の爆発というか、ファーストシーンでのルイと黒松のやりとりを思えば運命は見えているんだけど、あそこで盆栽となった小さな黒松が「助けたいと思うなんて」という台詞がすごくよかったのもあり、どうにかならないか、と思いながら見てしまった自分がいます。まあしかし、どうにもならなかった。上田久美子さんさすがに容赦ない。そういう一見美しい自己犠牲によってコーティングさせてしまうのはちがうでしょ、と言われている気持ちになったし、よくよく見ればチラシにも「一つも美しくない物語」と書かれていて、あ、はい、すいませんとうなだれる我。

個人的にはセコイアの上からの景色とか、あそこまで具体的に見せてくれなくても良いのよ、というのは思ったかな。実際に見せられちゃうと、人間あれ以上のものを見ることはできないけど、見せないことで何倍もすごい景色を脳内に描き出すことができるのが演劇の特権でもあるわけでね。

本読みのような部分と本意気のぶつかり合いをいったりきたりするぶん、役者は大変だろうなーという気がしましたが、まあ揃いも揃って演劇偏差値が高い人しかいないので、どの場面もクオリティ高く仕上がっていてさすがでした。麻実れいさま、もはや麻実れいしか勝たん、と言いたくなるほどの圧巻ぶり。モノローグでもダイアローグでも他を圧するあの空気、台詞の聞き取りやすさ、立ち居振る舞いの美しさ堂々ぶり。まさに舞台の芯たる役者とは!こう!という感じでしたね。いやキャストは本当に全員よかった。歌のうまいキャストが揃っていたのも何気に効果的だった。今回の勘九郎さんはかわいい系勘九郎さんだったのでうむうむかわいいかわいい、と愛でつつ成河さんのエロ電話(言い方)にニヤニヤしてしまった私です。成河さんいつ見てもしどころしかない役やってて本当にすごいしちょっとうらやましいぞ。

そういえば初ブリリアでした。席もよかったので噂の劇場座席ガチャ試練は感じられず。しかし池袋がいつの間にか劇場大密集地になってて隔世の感だよ。劇場と映画館を今一番効率よく回れるのは池袋では?