「フェイブルマンズ」


スピルバーグの自伝的映画、監督もちろんスピルバーグ、脚本はトニー・クシュナースピルバーグ。早撮りで名高いスピルバーグ、いつも製作の第一報から完成までのタームが短すぎて驚きます。ハリウッド大作ってたいてい「今撮ってますよ」の2年後ぐらいに公開じゃない?まあCG含む編集の処理が多いものほどそうなんだろうけど。スピルバーグは「ペンタゴン・ペーパーズ」の時もそうだったけどほんといつの間にか完成してていつの間にか賞レースに顔出してる感すごい。

GG賞も受賞してたりしたけど、いやもうスピルバーグほど功成り名遂げた人の自伝…うーむ食指が動かない!と思ってたんですが、公開されるとそれなりに評判がよく(これもいつものパターン)、そんなに言うなら…と見に行ってきました。

ハリウッドで成功していくスピルバーグの成功譚ではなく、彼がいかにして「表現する人」になったか、といういわばオリジンストーリーで、かつ彼の家族がその表現の形成にいかに深くかかわっているか、ということを丹念に洗い出すような映画でした。

本当につくづく映画がうまいというのはこういうことか、という場面の連続で、大叔父との束の間の交流の中で「表現」から逃れられないことのしんどさを、転校してユダヤ系だという理由でいじめられていた学校で、記念日のムービーを撮ることで評価を得る一方で、「本当はそんな人間じゃない」という偶像化へのおそれを、これ以上ないぐらい最小限の台詞と場面で見せて伝えきるのがすごいっすよね。特にあのジョックの男の子が「どうして俺をあんなふうに見せたんだ」と泣くシーンは心に刺さるものがありました。家族同然だったベニーおじさんと母の浮気、母がとうとう家族と離れ私にはベニーが必要だと泣く、いわば修羅場のシーンで頭によぎる、その泣き崩れる母を回り込んでカメラで撮影する自分の姿…。あそこまでの監督になっても、いやなったからこそか、表現というものは諸刃の剣だということを身に沁みてるんだなって思いました。柄本明さんが「表現なんてしないですめばそれに越したことはない」って仰っていたのを思い出したな。

しかし、この映画の読後感…じゃないけど、後味を決めているのはなんといってもラストシーンじゃないでしょうか。仕事にはつながらないけど会っておくといい、と言って連れてこられた小部屋。いったい何のことだか全然事態がつかめないが、その部屋に貼られたポスターを見ているうちに気がつく。駅馬車わが谷は緑なりき、リバティ・バランスを射った男…。かの巨匠、ジョン・フォードとの一瞬の邂逅。そしてスタジオを歩いていく一人の青年の後ろ姿。カメラの位置は大丈夫?あー、あのラストショット、ほんとにおしゃれで粋、愛嬌があって、あれだけでこの映画を好きになってしまう力があったな。ほんとうにつくづく映画がうまい!