「TERROR テロ」

面白かったです!!!これまた今年のベストに間違いなく食い込んできそうな作品。もともといわゆる「法廷もの」ジャンルが大好きで、L.A.ロー、ザ・プラクティスボストン・リーガルなどなどを好んで観ていたわたくし。証拠調べ、証人喚問、そして最終論告、評決。まさか劇場でその一端に加わることができようとは!

原作者であるフェルディナンド・フォン・シーラッハは「犯罪」での鮮烈作家デビューから好んで読み続けているのですが、こちらの原作本は未読です。もともと刑事弁護士というだけあって非常に硬質な文章を書く作家で、それがこの舞台でも色濃く出ていました。

観客は「参審員」としてこの裁判に立ち会い、最後に有罪か無罪か投票を行う。与えられた命題はこうです。「ミュンヘン発ベルリン行きのルフトハンザ旅客機がテロリストによってハイジャックされた。乗客は164名。コックピットを占拠したテロリストから、イングランド対ドイツのナショナルサッカーチームの試合を行っているスタジアムに飛行機ごと突っ込むと予告される。スタジアムの観客は7万人。ドイツ空軍パイロットであるコッホ少佐は、マニュアルに定められた警告と回避運動を尽くしたうえ、最終的に旅客機を撃墜する。164人を殺し、7万人を救った彼ははたして、有罪か?無罪か?あなたはどちらに票を投じますか?」

裁判官を今井朋彦さん、弁護側代理人橋爪功さん、検察側を神野三鈴さんと、名前を並べただけでも「こんだけうまい人そろえてどうするつもり!?」って顔ぶれですが、大仰なセットもなく、感情的な台詞のやりとりもなく、旅客機に搭乗していた客の遺族の証人喚問でさえ極力淡々と描こうとする中、なるほど確かにこれはうまいひとにやってもらわないと観客がしぬやつだわ…と舞台を見て納得。終始落ち着いた語り口の今井さん、深みのある声で淡々と証人を質す神野さん、のんしゃらんとしていながら最終弁論において圧倒的な畳みかけを見せる橋爪さん、いやはや、堪能しました。堀部圭亮さん、前田亜希さんもよかった。夫を喪った妻の、あの靴のエピソードを語る場面はまちがいなくこの舞台で観客の心を強く揺さぶる一瞬でした。

正直なところ、どちらにも理があるが、完全な理ではないので、振ろうと思えばどっちにも旗が振れるな〜と思いながら見ていました。もし無罪とするのであれば、弁護人の最終論告であったように、航空安全法は違憲であるとの判断はなされているが、それに反した場合(航空安全法に則って「小さな危険」を排除したとき)にだれが責任をとるかは明示されていないというところが焦点になりそうだなと思いましたし、有罪となるのであれば、軍の命令に反して人命を奪った事実、それが7万人の危機の前であっても、人命を数ではかることはできないという道義的な判断になるのかなと。舞台は最初に証拠調べと証人喚問(1時間20分ほど)15分の休憩をはさんで最終論告、評決の時間が10分とられて、最後の20分ほどで判決とその根拠が示されます。私の見た回は有罪311対無罪331。思わず、客席もこの結果にどよめきました。まさに観客を二分するといってよいこの結果に私も思わず興奮してしまいました。

先入観を持たず、ここで見聞きした情報だけで判断するようにという裁判官からの前置きがあって、この結果です。同じものを見、同じ情報を共有しても、これだけ判断が分かれる!これはとりもなおさず、命題を提示した作者の狙い通りともいえるのではないでしょうか。とはいえ、ヨーロッパ各地で上演されたこの戯曲、圧倒的に結果が無罪に傾いているんですよね。たとえばロンドンは33公演行って有罪はなんとゼロ!すべての回で無罪の評決になっているわけです。それは「テロ」が身近なものであるからということもひとつの理由かもしれませんが、「大きなことを成し遂げるときに犠牲はつきものである」という精神がどこかにある、大義というものを重んじる、そういう国のなりたちもあるのかなと思ったりしました。しかし日本では、結果はほぼ半々。おもしろいですよね。私たちの何が、コッホ少佐を「有罪」と思わせるのでしょうか。

法律論からいえば、おそらく無罪の適用だろうなと思いつつ、検察側の最終論告で検察官が語った、ひとの「倫理」などあてにならない、という言葉には深く頷かされるものがありました。法律はわたしたちより賢い。私もそう思います。ひとの「倫理」に重きと信頼を置きすぎることはとても危険だと思いますし、その最終手段が実質ゆるされるとあっては、それ以外の緊急避難措置が形骸化してしまう可能性も秘めているのではないかと思いました。今回のケースにおいてスタジアムからの避難が行われなかったように。そしてまた検察官が引用した、ドイツ連邦共和国基本法第1条が「人間の尊厳は不可侵である」と定めているという事実。ドイツという国が自らの法の基礎をそこに置いたという、その思いを考えると不覚にもここで涙がこぼれそうになりました。法律はとっつきにくい顔をしているかもしれませんが、その実、あれほどシンプルで、無駄のない言葉はないとときどき思うことがあるのですが、このシーンもまた法律の美に触れたような気持にさせてくれるシーンでした。

もうひとつ、今回、700人近い観客がいて、文字通り真っ二つに議論が分かれました。これはいわば「私と違う考えのひと」を目の当たりにする機会でもあったわけです。インターネットはすばらしいです。けれど、インターネットは「知らないことは探せない」。ネットの海では他者に出会えるようでいて、実のところ非常に近しい他者にしか出会えないものなのかもしれません。SNSはそれを加速させているといっていいでしょう。だからといって、ツイッターで自分と気の合わないひと、信条のちがうひとをわざわざフォローするなんてばからしいと私は思います(ネットの世界ぐらい、すきなものを見て過ごしたいと思うのは当然の心理ではないでしょうか?)。しかし、それでも、他者はいるのです。あなたと同じ芝居を見たこの客席の中にも、同じものを見て、ちがうことを考える他者が。

感謝をもって、証人の任を解きます。裁判長によって二人の証人にかけられた言葉が、最後はわたしたち観客にかけられます。感謝をもって、参審員の任を解きます。これにて閉廷。その瞬間の、ほっと肩の荷をおろしたような、おろしたようで、別の何かを受け取ったような、なんともいえない感覚。それをわすれないでいようと思える芝居でした。すばらしかったです。

「アンチゴーヌ」

  • ロームシアター京都サウスホール B4列12番
  • 作 ジャン・アヌイ 演出 栗山民也

最初は見る予定じゃなかったんですが、東京公演をご覧になった池田成志さんの感想がなかなかよさげな感じだったのと、観た方が皆「生瀬さんがかっこいい」というので、そうですか、なるほど、それはそれは…と東京帰りに京都で途中下車して見て帰るという変則的なことに!

オイディプスのふたりの息子がテーバイの覇権をめぐって戦い、相討ちとなって死んだ後、兄のエテオークルが英雄となって祀られる中、他国の勢力(テーバイ攻めの七将)の力を借りて攻め入ろうとしたポリニスの遺体は野ざらしのまま放置され、埋葬することを禁じられる。オイディプスの娘、兄弟の妹でもあるアンチゴーヌは、ポリニスの遺体に土をかけてやり、そうして時の王クレオンに捕らえられる。

冒頭にこの劇の登場人物たちの立ち位置を序詞として説明していくのがなかなか面白かったです。その説明も単に役の立ち位置というものではなく、それを演じる役者の心情も交えていて、どこか入れ子構造を感じさせるものでした。タイトルロールであるアンチゴーヌを蒼井優さん、クレオンを生瀬勝久さん。十字型に組まれたセットで、序盤こそゆっくりと物語に入りますが、ことが露見してからはとにかく二人の対話、対話、対話です。

クレオンは尊大な、権力を振り回す王というよりは、どこか国と国民の間にたつ中間管理職というか、パストラルなものを愛しながらも、義務をなおざりにすることを良心がゆるさない、という人物造形で、かつ!それをあの美声&うなるほどうまい芝居で生瀬さんが演じるので、もうクレオンに引っ張られる引っ張られる。っていうか最初の第一声からしてもう、いい声爆弾が炸裂しすぎてて、これこのトーンのでずっと!?いくの!?私の心臓保つ!?と真顔になるほどでした。いやーかっこよかったね。膨大な台詞の中に、オイディプスの一族の「ドラマに酔う」性質を痛烈に批判するところがあって、あっすげえ!いいセリフ!メモりたい!とおもった。「法」が出来る前は権力者の指先ひとつで左右できたかもしれない運命も、法の前ではそれは叶わないのだ、というところ、アンチゴーヌに対し、自分の役回りを「損な役回りだが、私の役だ」と語るところもよかったなー。

アンチゴーヌの兄の埋葬に固執する心情が、人間性や倫理観というよりも、個人的な感情に端を発しているように思え、それはそれで説得力があるんですが、そうするとクレオンとアンチゴーヌの対話が「公と個」の論理になってみえてくるので、個人的にどうしてもアンチゴーヌのほうには引っ張られづらい…という部分はあったかな。いやなものはいやだというべきだ、という言葉に快哉をあげられるほどには私はもう若くはないというだけのことのような気もしますが。

梅沢さん、佐藤誓さんなど、良い役者をそろえているので、全方位安心して見られた感じがあります。全方位と言えば、変形舞台を客席が囲む形でしたが、偶数列が段差のないところに設置されていて、かつ前列との感覚が狭いので、低く作られた舞台で低い位置の芝居(寝たまま芝居をする、座り込むなど)が続くと、わあ不思議!こんなに近いのに何にも見えない!みたいなことになってたのがかなりストレスだった。役者と近くなくて全然いいから2階席に行かせてくれ!と思ったぐらいだ。終盤の音楽の使い方も個人的にはしっくりいかなかった感が残った感じはありました。とはいえ、あの生瀬さんの超弩級のかっこよさで十分おつりがきますけどね!ええ!

「ヒッキー・ソトニデテミターノ」

2012年にパルコプロデュースで初演。今回はハイバイ公演として、初演で登美男を演じた吹越満さんに代わり、岩井さん自身が登美男を演じる。

自分でこういうのホンット厚顔無恥とはこのことかって感じなんだけど、初演を見た後で書いたこの芝居の感想がすごく気に入ってて(自分で言うな)、よく書けてるな…と思っていて(自分で言うな)、たまに読み返したりしているのですが(自分で…もういい)、それはとりもなおさずそれだけこの芝居が私をおおきく揺さぶったからだろうと思う。ちょうどPCが壊れて修理に出しているときで、でも一刻も早く感想を書きたくて会社の帰りにネットカフェに寄って一気に書いた。そのときの、「熱い塊をのみこんだ後のような気持ち」を残しておきたくて。

今回、古舘さんの急病により急遽松井周さんが代役に立たれるということで、初演の古舘さんがすばらしかったので残念な気持ちもありつつ、松井さんの出演も楽しみにしていたんだけど、まず前説で岩井さんがいつものごとく出てこられて、「僕らレベルになると2日もあればかんぺきに台詞を入れられますが、今回はあえて松井さんに台本を持ちながら演じてもらいます」でまずどっとウケる観客。しかし、しかしです。実際に松井さんは台本を持ったまま演じていたのですが、これがめちゃくちゃ刺激的だったのです。まず和夫は「世界」に対して完ぺきな対応をしたい、それができるまでは家から出られないと思い、毎日出張おねえさんと「外に出たとき」のシュミレーションを繰り返している。その「想定される台本を何度も返す」行為がまさに「台本を持った立ち稽古」そのもので、その説得力がその後ずっと台本を持つ和夫に「意味」すら与えているような。

でもって、よく演劇の感想で「あんなに台詞を覚えられてすごいですね」っていうのを目にすることがあるんですけど、すごさは「台詞を覚える」ことではない、というのがこの松井さんの芝居を見ているとよくわかる。いやホント、いちど「みんな台本持ったまま芝居をする」って演劇を見てみたいと思うぐらいです。

初演では和夫の母親だったのが父親に代わっていたんですけど、あの「最後の方は人生らしくなっていたと思います」って台詞、聞きようによっては「外に出るまで」を「人生ではない」と言っているようにも思え、初演の時にすごくつらい台詞として記憶に残っているのですが、今回の再演で父親が重ねて言う、あんな表情をするなんて知らなかった…という述懐があることで、印象としてはかなり違ったものに感じました。

和夫や登美男たちと私たちに違うところがあるとすれば、世界のイレギュラーに対処する方法を正確に知らなくても、きのこたちの冒険を食べられるし、恥ずかしさで死んだりしないし、そんなに傷つかずに鈍感に生きていけるということを知っているってだけのような気がする。毎日外に出て、会社に行って、「シャカイジン」をやっていても、世界のイレギュラーに対処する方法を知っているわけじゃない。この扉を出て、まっすぐ、玄関から外へ出る、窓から落ちるのではなく、外に出る、それが繰り返せなくなるのは、和夫だけではないかもしれない、わたしかもしれないし、あなたかもしれないのだ。

でも、だからこそいつも「そんなの、これから知ればいいことでしょうが!だろ?」って言葉を世界のイレギュラーに対して言い放っていきたい。あのシーンがほんとうに好きだ。先、行ってまっせー!

登美男を吹越さんが演じた初演と比べ、岩井さんがやることでぐっと重さが増したというか、「地続き感」が強くなった感じがありました。もちろん初演もリアルではあったんだけど、それにも増して自分たちのこととして突きつけられるような何かがあった気がします。それにしても、急遽の代役をああいう形で成立させる岩井さんの演出家としての冴え、決断力にほとほと唸りました。公演中止となってもおかしくないところを、ひとつのアイデアで作品としてより魅力を発揮しちゃうなんて、数少ない遠征チャンスに賭けている地方民としては感謝しかない。よいものをみさせていただいた!という気持ちでいっぱいです。

「二月大歌舞伎 夜の部」

「熊谷陣屋」。幸四郎さんの襲名演目。芝翫さん(当時橋之助さん)と吉右衛門さんの熊谷直実を観たことがあります。直実、義経、相模、藤の方の心理戦というか、台詞に出てこないやりとりに面白さがあるので好きな演目。二月は昼の部の大蔵譚といい、どちらかというと播磨屋さんのイメージの強い演目が並んでるのも面白いところですね。
幸四郎さん、一月の時にも思いましたが、ほんとぐい、ぐいと芝居が大きくなっていて、こういうときを追いかけてみていくのってたまらないものがあるよなーと思いましたし、襲名興行ならではのまさに大歌舞伎!な顔合わせでものすごく充実感がありました。2階席から観ていたので、袴の捌きや制札の見得の型の美しさにうっとり。

「壽三代歌舞伎賑」木挽町芝居前。揃いも揃ったりという大幹部の皆様がずらりと並んで壮観な一幕。二八(ニッパチ)は興行の枯れ月ともいわれますが、そのせい?そのおかげ?で今月の歌舞伎座は過去最高の出演者数だそうです。そりゃそうですね、だって一月は歌舞伎座新橋演舞場国立劇場に浅草公会堂加えて大阪松竹座でも興行を打ってたのにひきかえ、今月は歌舞伎座博多座ぐらいしか大きな座組はないのでは?ということで、高麗屋さんの三代襲名をお祝いする豪華な一幕でした。男伊達と女伊達の掛け合いのとき、仁左衛門さまがにこにこと上下を交互にご覧になっていたのと、床几から立ち上がる時、隣の吉右衛門さんの裾をささっと扇子で直されてたのがなんかむやみにときめきました。この日は新橋の芸者さんが総見でいらしていて、「新橋の姐さん方」へのお言葉もあり、なんとも豪華な気分を満喫。染五郎くんが「巷では美少年と言われておりますが…」とかましたときの幸四郎さんの顔芸も楽しかったです。

仮名手本忠臣蔵祇園一力茶屋の場。演目が発表になって、平右衛門とお軽を偶数日が海老蔵さん菊之助さん、奇数日をなんと仁左衛門さん玉三郎さんで交互に出演されると判明して文字通り阿鼻叫喚…になったのかな。私は最初は日程が合わないかな〜と遠巻きに観ていたのですが、もしかしたら観られるかも?チケットが戻れば?みたいな状況になり、でもってまあ、戻りますよねそりゃ。何枚かは。ということでめでたく奇数日に観劇して参りました。いやはや…観てよかったなああああああああ!!!と心の底から思います。

10年ぐらい?もっと前?に、仁左衛門さまと玉三郎さまのお軽勘平で五段目・六段目を見たことがあって、でもってそのちょうど同じ月に(ってことは正月だ)浅草で勘九郎さん七之助さんのお軽勘平(これ交互にやってたんじゃなかったかな?)を見る機会があって、そのときに、わたし勘九郎さん(当時勘太郎さん)のこと大好きだけど、これはさすがに一軍と二軍ぐらいちがうわ〜〜って思ったことがあったんですよね。

一力茶屋自体、芝居としても華やかな場面も多く、それでいてそれぞれの役にハラがあって心理戦が繰り広げられるところも面白いし、人気があるのも頷けます。白鸚さんの大星由良之助がよかったのも勿論なんですが(あの六段目のやるせない思いが七段目の最後の大星の台詞でやっとカタルシスを得られるあの感じ、たまんないですよね)、あの平右衛門とお軽のやりとりのすべてが、面白さもありながら、ここぞという場面での芝居味をたっぷり味わわせてくれ、かつ文句なしに目の大御馳走ともいうべき佇まい。これ正直何度でも観られるやつやな…と思いました。でもって、その10年前にね、おふたりの六段目を観たときに、玉三郎さんのお軽が外で待っている源六に煙草盆を持っていく、戸を閉めるときのこの戸を閉めたら別れの挨拶をしなければならない…という哀しさ、それを表に出せないつらさ、そういうものが所作ひとつで立ちのぼってくるようで、泣けて泣けてしょうがなかったんですよ。でもってこの七段目でそのお軽が、勘平の身に起きたことを聞いたときのあの衝撃、わたしゃどうしよう…という嘆きが、まさにその10年前の舞台と完全に地続きに感じられて、その芸の確かさ凄さに心底打たれました。なんかもう、ちょっとしたタイムマシンのように感じられましたよ。

しかし、この二月ぐらい役者が集結した状態で、仮名手本忠臣蔵全段通しとか見てみたいですよね。長すぎるっていうなら二日に分けてもいい。どの段にもしぬほどうまい役者しか出てない!みたいなそういう…松竹さんぜひご検討を!

「スリー・ビルボード」


…人間とは多面体であって、鯨を保護した同じ手で便所の壁に嫌いな女の電話番号書いて…

マーティン・マクドナー脚本・監督。おもしろかったです!!!間違いなく2018年のベスト級に残ってくる作品でした。幕切れのその一瞬まで私にとってはほぼ完ぺきともいえるようなタイミングでした。いやーよかった。

冒頭に引用したのは松尾スズキ作「キレイ」の劇中のナンバー「ここにいないあなたが好き」の一節だが、私はこの映画まさに、人間とは多面体であるという映画だと思った。当たり前のように思えるかもしれないが、映画でも、演劇でも、テレビでも、「ドラマ」にはどこか型にはまった人物像が連なることが多い。そこから自由になって物語を紡ぎながら、しかもそのストーリーテリングの威力は衰えない!すごすぎます。「こうなると思った」という予想、ある意味では気持ちよさを手放しながらも、「こうなるとは思わなかった」が決して唐突には思えない。なるべくしてなっているのに、物語の転がる方向が予測できない。いやはや、素晴らしいとしか言いようがない!どんなシーンでも基本的に「会話」で構成されるのは、戯曲を書く人ならではだよなーと思いましたし、そういうところも自分のツボだったのかもしれません。

物語の発端は、自分の娘がレイプされ焼き殺されたひとりの母親が、町はずれの道路沿いの大きな3枚の看板に警察を糾弾する「広告」を掲載したことから始まる。だがこの作品は犯人捜しをするわけではない。娘を殺された母親が権力を糾弾、その発端から誰もが想像する展開には流れない。母親であるミルドレッドは確かに悲劇に見舞われ、鋼鉄の意思をもっているかのように見えるが、すい臓がんを患っている警察署長の喀血に動揺し、看板を燃やされたことに対してあらぬ方向に報復し、そして娘との関係性においても彼女は自分自身に深い疵を持っている。

警察官のディクソンはレイシストで、すぐにキレ、持っている権力を暴力という形で揮う最低の人間だが、彼は燃え盛る火の中から捜査資料を救い出し、ボコボコに殴られながらもレイプ犯を捕まえるために爪の先でひっかいた皮膚のかけらを証拠保存キットに保管する。署長のウィロビーは署員のよき理解者で、良き夫、良き父であるが、同時に自分を襲う悲劇に耐えることができない。ミルドレッドの前夫チャーリーは家を出て動物園に勤めている若い女の子と一緒に暮らしている。ミルドレッドはチャーリーをDV夫と言うが、子どもたちはそれに一方的に賛同しているわけではない。レッドはミルドレッドの払った広告代金を「あれは前金扱い」と言い、広告を維持するにはすぐに金が必要であると言い出したりするが、全身をやけどで覆われた男のために、オレンジジュースを入れてやる。

怒りは怒りを来す。チャーリーの年若いガールフレンドはそう言う。この物語も、文字通り怒りが怒りを来して転がっていく。しかし、それと同じように、赦しが赦しを来すこともあるのだ。炎の中から救い出されたファイルが、きまぐれに顔を見せた鹿が、オレンジジュースのストローが、だれかを赦す。

私たちはみんな、誰かをゆるし、そして同じだけ、誰かにゆるされながら生きている。そのことをつい忘れそうになる。ツイッターでは、どこかのだれかの行いを、140字で断罪し、それをみなボタン一つで広めていく。でも140字で何かが「わかる」ことなんて本当にあるだろうか?どこか道路沿いの大きな看板に書かれた文字と同じように、人生も人間もそれだけではないのではないだろうか?ディクソンは最低の人間で、ミルドレッドは善良な悲劇の母親で、警察署長は無能な権力者だったのか?ほんとうに?

最後のシーンのディクソンとミルドレッドは、まるで迷子のようでもある。来された「怒り」の行き場を探し当てるが、ふたりともそれほど気が進まない。ディクソンは自分の顔を焼けただらせた女のことを、とっくにゆるしている。二人はこれからすることを道々考える。そうして、この物語の幕は閉じる。私たちも道々考えよう。来された怒りを、どこかで赦しに反転できることがあるのかもしれない。ないのかもしれない。けれどいつか、赦しが赦しを来す、そういう連鎖がある、きっと。道々考えながら、そう願おうじゃないか。

「バーフバリ 王の凱旋」


S・S・ラージャマウリ監督、インド映画です!1作目の「伝説誕生」も日本でちょっと話題になりましたが、2作目はそれを上回る勢いのバーフバリ旋風!1作目はWOWOWで放送したのを録画してあったんですけど、とりあえず映画館で見るのを優先しよう!と思って「王の凱旋」から見てきました。ということで、1作目見てないからなーと迷っている方に力強くおすすめしますが、
2作目から見ても全然大丈夫です!
冒頭に丁寧な1作目のあらすじがあるというだけでなく、時系列からするとこの2作目の方が先になります。これ帰宅してから録画してあった「伝説誕生」見てほんとよくできてるなって思ったんですけど、2部作つまり2本の映画なので、単純に考えれば「起承転ちょっと結」が1本目、「ちょっと起承で転!結結結」みたいなのが2本目になるのが普通じゃないですか(しかも一種の英雄叙事詩であればなおさら)。それが「結からの承、そしてここから転!」で1作目が終わり(あの引きのすごさ…2作目から見たからあれだけどこれ1作目のあと次作の公開を待っていたひとさぞかし身悶えしたろうなー!)2作目は「起承、そしてここからすべての結!」って感じなんですよ。うまいこと見どころとドラマが分散されてて、どちらから見ても両方楽しめると思う。

映画の冒頭はなるほどこれが称えたくなるバーフバリそして象また象…とその絵力の強さに若干引き気味だったんですけど、デーヴァセーナとの絵に描いたような恋もすごければ、このデーヴァセーナとシヴァガミさまの嫁姑対決もすごいし、その合間合間にバーフバリ無双が差し挟まれるしで、しかもなんつーか、このあたりの姦計とか血のつながりとかそれよりも濃いシヴァガミとバーフバリの絆の描き方とかがめちゃくちゃ丁寧でよくできてるんですよね。シェイクスピア的でもあるし、ギリシャ悲劇的でもある。やっぱりひとつの「神話」というか、根源的な「物語の面白さ」ってこういうところに帰ってくるんだろうなーと思いました。

あと、私も実はそういうところがあるんですけど、ドラマとかでさ、恋人同士とか信頼し合う同士がなんか小さな誤解からすれ違って…みたいな展開を見るのが苦手、ってひとにぜひおススメしたいですね。なぜなら、バーフバリは絶対、自分の弱さから間違った方を選んだりしないからだ!誓いは絶対に守る!愛する人は絶対に守る!だからそういうイリイリした展開にならない。そういうイリイリしたことではないところで超弩級のドラマをぶつけてくる!そういう感じです。デーヴァセーナが自分の体に触れようとした痴漢の指を切り落とす(最高かよ)ところでまずすげえ!ってなるのに、そのあとの展開もう予想の斜め上どころか予想の真上を超えてくるもんね。

噂には聞いていたけど「ロード・オブ・ザ・リング」を彷彿とさせる場面も多くて(大平原と城塞という絵面もそうですが、個人的に一番里心が出たのは大きな象の彫像の下を船から見上げる場面の描き方…アルゴナスやーん!)、しかも最終決戦文字通りの飛び道具がバンバン出てくるし、悪役とのタイマン勝負は1に絵力2に絵力、3から5も全部絵力じゃ!ってぐらい画面の圧がすごいので、ほんと日頃のくさくさしたこととかマジどうでもよくなります。あとバーフバリも男前だけどバラーラデーヴァも男前だよね。彼は彼でなかなかつらい人生だ…(母も恋した人も皆バーフバリにとられちゃう)。あとカッタッパ推しってひとが結構多くて、私もカッタッパとバーフバリの阿吽以上の阿吽な共闘は最高楽しかったですけど(だからこそほんと最後のアレな!)、個人的に胸熱になっちゃうのはクマラです。あのぼんやりおっとりがバーフバリと出会って身の丈よりも大きい気持ちになって、なのに(だから)迎えるあの最期…!ああいうのほんとツボです。魅力的な登場人物ばっかりだったよなー。

SNSを中心に評判が拡散されていってるんで、まだまだ上映が続きそうな感じですよね。なんか景気の良い映画みたいなーという方はぜひ!あとなんかスケールのでかいものを見てスッキリしたいんじゃー!って方もぜひ!おススメです!

後藤ひろひと大王の脚本はやっぱりすごいという話

T-Worksの「源八橋西詰」、さきほど千秋楽の幕が開いたところですかね。わたしもいくつか感想を探して読んでみましたが、大王の脚本のすごさ、ベテラン久保田さん&坂田さんの手練れぶりとともに丹下さんへの絶賛も多く、見事にプロジェクトの目的を果たしてるなーと思いました。

しかし、思い返すだに後藤さんの脚本のうまさというか…いやあれなんていうんでしょうね。トリッキーという言葉もしっくりこないし、本当に悪魔的なうまさだなと思い知らされた感じがあります。

ここから「源八橋西詰」のかなり核心的なネタバレをします。

物語の中盤、大きな核となるエピソードに童話作家の話があります。病院を思わせる人々のスケッチ。そこにひとりの女の子が出てくる。ツインテール、たどたどしい喋り方、茄子を擬人化してひとり遊びをしている。ここで観客はなんの説明台詞がなくても了解します。この少女はおそらく入院中で、その寂しさを紛らわせるためにひとり遊びをしているのだと。

そこに現れるひとりの男性。彼は女の子のひとり遊びに巻き込まれ、おとぎ話の聞き手となります。少女との会話から、この男性がおそらく童話作家なのだろうということもうっすらとわかるようなやりとりが描かれます。女の子の語り口は最初はたどたどしいが、その物語の一種異様な迫力にのまれ、聞き手である男性は涙ぐみ、最期にはその美しい結末に観客は思わず聴き入ります。

女の子が去ったあと、男性はどこかに電話をかけます。ええ、そうなんですよ、新作が書けそうなんです…え?レイコですか?元相方の?…いや相変わらずです。あの事故以来、どうも自分を少女だと思い込んでいるようで…

演劇では、「子ども」の役を、「そういうテイで大人が演じる」ことがざらにあります。それはそうです。たとえば子供時代の回想シーンでいちいち子役を出すほど小劇場界にはお金がありません。大人も子供も老人も、皆同年代の役者が演じる。よくある話です。そして、そういう人物を示す「演劇的な記号」を観客はちゃんと察知します。ツインテール、たどたどしい話し方、茄子をヒト視したおしゃべり。観客は「大人の役者が少女を演じている場面」であると飲み込み、何の違和感もなく物語の続きを見ます。

だからこそ、最後の台詞にハッとなるのです。私たちは少女見ていたわけではなく、少女となった大人の女性を見ていた、つまり、目の前にあることが目の前にあるままだったということに、そこで初めて気がつく。そして、この場面で誰一人としてこの人物を「少女だ」という認識で語った台詞がなかったことに気がつくのです。演劇とは「見立て」の芸術ですが、その「見立て」に慣れた観客だからこそハッとさせるこの展開のうまさ!

こういうのは、最後にどんでん返しの台詞を入れさえすればよいというものではなくて、緻密に、慎重に、観客をいわばミスリードしていく手管が必要です。脚本だけでなく、役者の手管も。語り手となる女性はもちろん、物語の聞き手となる男性を演じたのは久保田浩さんですが、あからさまに「女の子を相手にしている」芝居をすると最後のどんでん返しと相容れなくなくなりますし、最後の展開を意識しすぎた語り口になると、これもまたラストの展開が有効でなくなってしまうおそれがある。なんでもない顔をして幅の狭い平均台を歩いているようなものです。最初に彼女を見たときの驚き、大人なの?子供なの?ギャグのように聞こえる問いかけ…いやあうまい。うまいとしか言えない。

「源八橋西詰」ではさらにこのあと、観客をはっとさせる物語の展開がもう1枚仕込んであり、この終盤の連続アッパーカットになんというか気持ちよくノックアウトさせられたという感じでした。とくにここにあげた童話作家の話の描き方は、絶対に映像ではできない、見立てによる先入観を利用した作劇で、こういうエッセンスをさらっと書いてしまう後藤ひろひと大王の筆の冴えよ…!と思わず拝みたくなります。

昨今の「ネタバレ」を気にしすぎる風潮に首をかしげることもありますが、しかしこういう作品を観ると、容易に展開を察知させる感想を書くことの良しあしを考えさせられてしまいますね。最初に書いた感想ではそれを思って控えましたが、しかしどうしても書いておきたくなってしまったので、千秋楽ということに免じ、ゆるしていただけたらと思います。素晴らしい舞台でした。