「六月大歌舞伎第二部 桜姫東文章 下の巻」

人の皮がめくれるところを見てしまった。
とか言うとなんかホラーっぽいですがそんな話ではありません。四月の上の巻に続いて仁左玉コンビによる「桜姫東文章 下の巻」見て参りました。無事幕が開いたことにとりあえず安堵。

下の巻は岩淵庵室の場から大詰まで。上の巻以上に仁左衛門玉三郎ご両人の芸をこれでもか!と堪能できるすばらしい2時間でした。私がとくに感じ入ったのは岩淵庵室の場での清玄と桜姫が争うところ、清玄の喉に出刃が刺さり息絶えたあと、戻ってきた権助(この切り替わりの鮮やかさ!早替えとかそういうテクニカルなことではなく、マジで纏った空気から違う人間が出てきた!という驚き)と桜姫の去り際。権助の顔に浮かぶ清玄と同じ痣、自分を取り巻く因業因果をまざまざと思い知らされた桜姫が「毒喰わば」と叫ぶあの一瞬、一皮むける、という慣用句がありますが、あの瞬間まさに桜姫という人間の皮がめりめりと裂けて、その芯にあるものが出てくるような凄まじさを感じてふるえました。こういう瞬間に立ち会いたくて劇場に足を運んでいるんだなと思わせてくれる。

しかし今回、望みうる現代最高の布陣での南北作品を見て、南北の作品のある種の極端さ、倒錯性、フェティッシュともいうべき癖の数々、そういうものはこの磨きあげられた芸、もっといえば磨きあげられた「美」と両輪になっていてこそなんだなということを実感しました。単にそのエッセンスを現代に移してしまうとただ露悪的に陥ってしまいがちなのはそういうことなのかなと。美というのは単に容姿のことではなく、人間が人間らしくあろうとして見せる品のようなものでもあるし、虚飾と裏表の豪奢な設えでもあるし、なにより歌舞伎という芸能においては、その型がみせる一幅の絵のような完成された様式美でもある。そしてそれらがあるからこそ、南北が描いたその裏側に蠢く「にんげん」というものが、どうしようもなく魅力的に見えてくるんだなと。

岩淵庵室の場での経文を挟んでのキマリの素晴らしさ、権助住居の場で店子たちをあしらう権助の魅力、そこに戻ってくる風鈴お姫とのじゃらつきの絵になるさま、歌舞伎を見た!!とすみずみまで心が満足する2時間でした。仁左衛門さまも玉三郎さまもすごすぎる。そしてすばらしすぎる。そうそう、最後おふたりの「今日はこれぎり」を聞けたのも嬉しかった。上演すること、それ自体が有形無形のプレッシャーにさらされるこのご時世にこの作品をふたたび手掛けて下さったことに感謝しかありません。