「日本文学盛衰史」青年団

高橋源一郎さんの原作を青年団が舞台化したもので、2018年の初演のときにも拝見しており、その年のほぼベストに選んだほど好きな作品でした。伊丹公演があるって直前まで知らなくて、うーむどうしよう、再演だしな、ジョン王とハシゴになるしな…と逡巡したのですが、せっかく伊丹で公演を打ってくださるのだから!と足を運んできました。

私はどうしてもこと演劇においては「見たことないものを見たい」欲が強いあまり、作品の選択肢が初演>再演になりがちなんだけど、そういう自分の嗜好にダメを出したくなるほど、「観に行ってよかった……」と思えた作品でした。再演だからこそ、さらに受け取れたこの作品の凄み、ブラッシュアップの巧みさに気がつけた部分もあったし、なによりも再見に耐えうる強度を持った作品でしたね。
初演の感想はこちらに。
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全体を4場に分け、北村透谷、正岡子規二葉亭四迷夏目漱石の葬儀の場に絞る脚本構成の巧みさや、時事ネタともいうべき現在の価値観を絶妙にブレンドしてくるところとか、この作品の骨格の良さは初演を拝見したときに書いた通りで、脚本の力、演出の力量を存分に堪能させてもらいました。でもって、その骨格としての良さだけではなく、ここで描かれる100年前の、その後文豪と呼ばれる彼ら彼女らが何と格闘し、何を得ようとしていたのか、その姿にむちゃくちゃ心を打たれてしまったんですよね。

幸徳秋水の「なぜ我々は弾圧されるのか」という問いに夏目漱石が答える、書かれていないことを読み取ることへのおそれ、そして「椅子に座った女性」が語るもの…。あの演出は素晴らしかった。あれこそ演劇にしかできない「語り」だ。一切の説明がなくとも、観客はそれが何を語っているかを一瞬にして共有する。しびれました。

擬人化、という言葉を借りれば、この作品に出てくる作家らはある意味擬人化なんですよね。人が人として出てくるんだから擬人化じゃねえだろと思われるかもしれないけど、なんというか、作品の擬人化、そう、作品を人に「見立て」てるんですよ。だからこそこんなに演劇との相性がいいんだと思う。森鷗外役の山内健司さん(最高!)を始め、男女の別なく演じられる各文豪が絶妙にハマるのも、作品を人物に見立てているようなところがあるからじゃないかなあ。

夏目漱石の葬儀でとうとう姿を現す坪内逍遥の言葉、太宰・織田・坂口の無頼派トリオ漫才からの未来の予言、森鷗外が問いかける「では日本は一度、滅んだんだね?」「はい。」「でも日本語は生き残った?」「はい。」島崎藤村田山花袋に「…泣いてるの?」と尋ねた時、わたしもまさに劇中の田山花袋のように、まっすぐに自分の眼から涙が流れているのがわかって、まるで私に向かって問いかけられているような気さえしました。ある作家の言葉が頭をよぎりました。小説が書かれ読まれるのは、人生がただ一度であることの抗議からだと思います。

改めて、「言葉を奪う」っていうことがどういうことなのか、そういう意味でもあの森鷗外の言葉には背筋が伸びる想いがしました。当たり前のように使っているこの言葉が、いま生き残っているのは、決して当たり前のことではないのだ。同化という言葉のおそろしさよ。

キレッキレのミルクボーイ風社会主義漫才、演劇ネタをふんだんに取り入れた笑いの数々、ラストシーンでスカ風の泳げ!たいやきくんで踊り狂う面々と、スパッと幕引きに至る演出、すべてが見事。青年団の良いところはレパートリー化した作品を何度も再演してくださることだと思うので、また上演の機会があれば、未見の方はぜひ足を運んでみてほしいです。「言葉を獲得すること」の長い長い旅路の果てに今自分もいるのだということを思った夜でしたし、こういう芝居が観られる限り、私は演劇に絶望しないでいられるだろうなと思う夜でもありました。