「セルジオ&セルゲイ 宇宙からハロー!」

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アメリカ・キューバ・スペイン合作映画、エルネスト・ダラナス・セラーノ監督。「実話をもとにした架空の物語」で、「最後のソビエト連邦国民」とも言われるセルゲイ・クリカレフをモデルに「あったかもしれない」物語を描いております。

なんで「最後のソビエト連邦国民」なのかというと、宇宙飛行士として宇宙ステーション「ミール」に滞在している間にソ連が崩壊してしまったから。宇宙に行っている間に国がなくなる…ってすごい話だけど、そのソ連崩壊のあおりをうけて地球への帰還の見通しが立たなくなったセルゲイ。かれは無線マニアで、宇宙から発信したその通信をキューバアマチュア無線愛好家である大学教授が受信する、そのふたりの交流を軸に話が進んでいきます。

おもしろいのは、この映画の主軸はキューバに暮らす教授一家にあって、かれらはかつてソ連の同盟国としてそれなりに豊かな暮らしをしていたわけだけれど、社会主義国家への逆風吹き荒れる中、世界からも孤絶し、生活が立ちいかなくなってしまう。マルクス主義を専攻しソ連に留学までしたセルジオも、その職では「どうにも食えない」ところまで追い詰められてしまう。とはいえこの映画に悲壮感が蔓延しているわけではなく、どこまでも「くるしいけれどもやっていかなくちゃ」という前向きのトーンがあって、それが宇宙でただひとり、帰還のあてもなく時を待つセルゲイとの間になんともいえない連帯感を生み出していくところがとてもよかった。

「あったかもしれない」という意味ではおとぎ話のような部分もあって、個人的に自分が映画を見慣れていないな!と思うのはこういうときの処理、処理って言葉が正しいかどうかわかんないけど、自分の中で飲み込む作業が途端にスムーズにいかなくなるところ。これの…意味は?とか考えちゃってダメですね。あと、無線を通じていっとき魂の交流をした彼らは、実際のところそれ以上のドラマチックな展開にはいたらない(ラストにそれを匂わせて終わる)んだけど、ああ~~品がある~~と思うと同時に、でもベタベタのベタにふたりが初めて会うとこも見たかった~ってなるので私の嗜好も相当ベタ好きなんだな…と実感しました。

アメリカにいるアマチュア無線家をロン・パールマンがやっていて、CIA絡みの怪しげな本を書いているって役柄がぴったりすぎました。あとモールス信号じゃない、初めての音声通信のときにセルジオに言うセリフよかった。セルジオのむすめちゃんが超絶かわゆく、大人になった彼女目線でナレーションが入るので、それも映画のトーンを明るくしてくれた一因だったように思います。

「十二月大歌舞伎 夜の部」

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「壇浦兜軍記 阿古屋」。歌舞伎座で玉さまの阿古屋だー!今月はAプロで玉三郎さん、Bプロで梅枝さんと児太郎さんが阿古屋を初役でつとめるという(しかも岩永が玉三郎さん)、松竹がもうこっちの財布カッスカスにしてきやがりますよっていう配役。私はAプロしか見られないんですけど、梅枝さんの初日も児太郎さんの初日もぜったい独特の雰囲気になるだろうなー!と思うし、ファンならその場に立ち会いたい!って思っちゃいますよね~。

さて阿古屋、今Eテレでシリーズを不定期放送中の「伝心~玉三郎女方考」でもとりあげられていて、その時の玉さまのお話がむちゃくちゃよかったので、次の玉さま阿古屋絶対行く!!と決意を固くしておったのです。いやー見られてよかった。景清との恋のなれそめを語る時の台詞ほんといいよね、羽織の袖のほころびちょっと、時雨のからかさお安い御用、雪のあしたの煙草の火…。玉さまが義太夫の文章がすごくいいのでって仰ってたのでがんばって聞くようにしてきた。やっぱりああいうガイドがあるとこっちの集中力のものすごい助けになる。

楽器の演奏から心理戦を汲み取る、ってのは観客側にもなかなかのハードルですけど、これ楽器を演奏するっていうベクトルと役を演じるっていうベクトルって実のところ結構真逆だな~というのを今回見ながらしみじみ思いました。箏であれ三味線であれ胡弓であれ、演奏に入り込めば込むほどどこか陶酔というか、我のない状態に入っていくのが音楽だとしたら、演じるって陶酔の一歩手前で手綱を操る、みたいな行為なわけでね。入り込んだ方が「いい演奏」はできるだろうけど「阿古屋としてのいい演奏」からは遠くなるというか。そのあたりの兼ね合い、役と役者の駆け引きの面白さを存分に楽しませていただいた気がします。

あと単純に観客としては、箏の演奏のアグレッシブさ、胡弓の音の叙情とその弾き方の面白さが目に楽しい!という感じもありました。いやはやそれにしても観られてよかった。玉三郎さん、出の瞬間から観客の視線をぐぐぐっと引きつけて離さない。貫禄十分の遊君阿古屋でした。そしてこれを見てしまうとますます初役組が観たくなる罠…!

「あんまと泥棒」。中車さんと松緑さんで楽しい一幕。文字通り「したたか」なあんまと、ワルぶってはいるけれどどこかに純朴なところのある泥棒の一夜の邂逅なんですけど、中車さんのあんまも松緑さんの泥棒も文字通りはまり役で、こういう「一癖も二癖もある」役をやらせると中車さん本当に輝いてます。松緑さんの人の好さもよく出ててよかった。最後はまあこうなるだろうな!という展開なんですけど、その予想もふくめて楽しく拝見できました。

梅枝さんと児太郎さんで「二人藤娘」。「藤娘」自体は最近七之助さんで観ているけど、逆に七之助さん以外で見るのが、あとチョンパがちゃんとできる劇場で見るのが久しぶりだったので、新鮮に見られました。さっきの阿古屋の余韻もあるのでどうしてもお二人に熱い視線を注いでしまう(笑)。梅枝さんのたおやかさも絶品でしたが、いやはや児太郎くん、ここんとこもう観る度きれいになってるつーか、役者がおおきくなってるつーか、9月よりも10月、10月よりも11月、11月よりも12月、と階段を一足飛びに駆けあがっていくように魅力大爆発してる感じがある。すごいね。まだ24歳でほんとすごい。阿古屋がんばって~!(ここで応援してどうする)

「ロミオとジュリエット」

M&O play produceってことで宮藤さんが演出に専念したロミジュリです。脚本は基本的にそのまま、とはいえもちろん宮藤さんがやるので一言一句変えてないというわけではなくて、細かいいじりはありますが、逆に言えば細かいいじりしか変えてないです。変えてないのに休憩なしの2時間10分でコトを収めることができるのは、台詞を聞かせることよりも畳みかけること、畳みかけて勢いを殺さないことを重視したつくりになっているからだと思います。

シェイクスピアの嘆き節をすべからく「あ~あ」というセリフにその時々の温度を濃縮させちゃうのすげえなーと思いました。ああいう思い切りは宮藤さんだなーという感じ。セットがどこかおままごと風の積み木を形を変えて使うようになっていて、おとぎ話ふうでもあり、ふたりの幼さが際立つ見せ方になってた気がします。立ち回りも割とあるけど、スペースがそれほど広くないのであれは結構大変そうだな。ティボルトとマキューシオの決闘のところで勝地マキューシオが剣を取り落としてしまい、そのあとの別役でのシーンでさんざんいじられるという事態に(笑)グイグイいじる今野さん、落ち込む勝地くん(舞台上で落ち込むな)、かばう皆川さんというトライアングルに楽屋内勢力図を見たかもしれない。

本当にものすごくまっとうにロミジュリだったので、どこか宮藤さんならではの脚色があってもよかったなーと思ってしまうのはしょうがない。いやホント、ドストレートでしたもんね。この戯曲を上演するときに必要なのは何よりも「青さ」なんだなーと思いましたし、「あっという間に50になる」(いやもうなってるけどね)三宅さんがその青さを体現できてるのがすごいよ。森川葵さんのジュリエットも、台詞の立て方とか正直全然ダメなんだが、青さのあるジュリエットという一点で及第点だったのであまり気にせずに見られた感じ。

勝地くんは演出家の求めがあってゆえとは思うも、ちとうるさい(笑)いや、どれだけうるさくてもいいんだけど、そのぶん三幕一場をキメてほしい俺がいる(前半のフリはめちゃくちゃ笑いました)。あそこで最後まで「これは堪える」と言いながら「なぜ止めた、おまえの腕の下から刺されたんだ」「モンタギューもキャピュレットもくたばるがいい!」ってところ、ハイライトなんですよ。私の。誰もが思うであろう諸悪の根源ロレンス神父がトモロヲさんで、二人の結婚のときもジュリエットの薬を思いつくときもなぜか悪魔憑きみたいなアクションになるのがおもしろかった。いや確かに悪魔の思いつきなんよね、結果あいつのやることって…。

そういえば音楽が向井秀徳さんでした。最後の最後で気がついた。なんという贅沢な!

いわゆる「イケメン」じゃないロミオではあるんだけど、今回の芝居でそういういじりというか、ギャグというか、そういうものは一切入れずに、恋するふたりの青さとばかばかしさとだからこその幕切れの切なさに全振りした見せ方だったのがすごくよかったと思いました。

もう、帰るところがありませんから

昨日の公演をもって野田地図第22回公演「贋作・桜の森の満開の下」無事大千秋楽、おめでとうございます、そしておつかれさまでした。東京、パリ、大阪、北九州をめぐってまた東京へ。

結局、東京での初日を拝見したあと、大阪新歌舞伎座で1回観劇して、最初の頃は11月の東京公演をもう一回ぐらい観たいなあと思い、当日券がんばろうかなと思ってもいたのだけど、10月に新歌舞伎座で拝見したときの体験があまりにも自分の中で清冽に響きすぎて、ああもうこれでじゅうぶんでございます、という満ち足りた気持ちになり、そこからチケットを手に入れる努力を放棄してしまったし、開けてあったスケジュールも他の芝居で埋めてしまった。

大阪で初日ぶりに観た桜の森は、海外公演直後ということもありことのほか芝居の幹が太くなっていて、これは以前、海外公演を経験した他の劇作家も言っていた言葉なのだけれど、言葉が直接的に作用しない場で公演を重ねると、表現が深くなる傾向にあるというまさにそれだなあなどと思ったりした。当たり前だけれど初日はいろんなトライアルをしてみる場でもあるので、ああ、ここはもうちょっと…と思っていたところが見事にスッキリしていたり。たとえば、ラストで耳男が夜長姫の身体に桜の花びらをたくさんたくさんかけるのだけど、今回はセットで紙を使用しているのもあって、初日ではその沢山の紙もまるで落ち葉のように夜長姫の身体に重ねていた。しかし、これをやってしまうと、最後にさっと着物を取る場面で桜の花びらがうまく舞い上がらないのですね。あそこで裾を引きずるように着物を取り払うことで桜の花びらが一陣舞い上がる…というのは、むちゃくちゃ美しいシーンなので、これこのままでいくのかなと思っていましたが、新歌舞伎座で拝見したときにはちゃんときれいに舞い上がっていた。

最前列、ど真ん中という席での観劇で、なんというか…ごほうびかなこれは、ここまで思い続けたことへの、なんて思ったりしながら、あの美しいセット、桜の花びらが見えていないときでも、うっすらと影絵のように花びらが見えていて、そういう景色を堪能できたのもよかったし、すばらしいキャストの演技を文字通り目と鼻の先で拝めて、古田さんなんて、初日と比べて別人かよ!?ってぐらい仕上がったマナコだったし、何より深津さん、深津さんの夜長姫がほんとうにほんとうに素晴らしかった。こわいけれども見つめてしまう存在そのものだった。

この日の芝居の出来が完ぺきだった!とかでは全然なくて(というかこれだけの集団にもはやそんなこと思う方がおそれおおい)、結構ミスもあったりしたのだけど、それでも私にとって忘れがたい観劇であったことは間違いない。それはこの場所がもともと近鉄劇場のあった場所で、自分の中にそういうしんとした心構えができあがっていたことも無関係ではないだろうと思う。結局のところ、いつだって観客は観客の文法でしか芝居を観ることが出来ない。

この芝居が好きすぎて、何度も何度も何度も戯曲を繰り返し読んだり映像を飽くことなく見返したりしてきた人生だったから、いつもどこかに過去の亡霊を抱きかかえながら観ていた部分があったけれど、なぜかこの日はそういうことを思い出さず、頭の中で過去をリフレインさせることもなく、初めてこの芝居を観た日のようにぜんぶの台詞、ぜんぶの場面を観られたことがなによりもうれしかった。

東京の初日では、カーテンコールで恒例でもある野田さんがひとり舞台の中央に座して一礼する、ということがなくて、観劇後に友人たちと、今回はやらなかったね、と残念がっていたりもしたのだが、この日は3度目のカーテンコールで、野田さんがひとりで出てきて、舞台の中央にちょこんと座った。その瞬間、わたしと、わたしの隣にいた年配の男性がはじかれるように同時に立ち上がって拍手を送って、その寸分たがわぬ反応にもなんだか、時代を共有したひとと隣同士で観ていたのかな、なんて妄想を抱くことができて、それも幸せだった。

カーテンコールが終わった後、足もとの花びらを拾うふりをしながら、私は実のところ立ち上がれないぐらい泣いていて、この涙はどこからくるのか、ちっともわからない、でもつまるところ、これはやはり人間の持つ「ただ寂しさ」で、こわいけれどもみつめてしまう孤独の果てで、そうしてそういうところがないと、やっぱり人間は生きていけないということなのかもしれないな、とぼんやりと考えたりもした。終演後、誰かと話したいような、ひとりでいることがありがたいような、そんな相反する気持ちのまま上本町の駅から難波行きの電車を待っていると、過去にこのホームに立って抱きしめてきたいくつもの観劇の余韻までがよみがえってくるようで、また泣けた。

野田さんはこれで5度この戯曲を演出してきたわけだけれど、またこうして拝見するときはくるのだろうか?ということも、やはり考える。正直わからない。これが最後なのかもしれない。しかし、なんというか、誤解を恐れずにいえば、わたしはどこかすがすがしいような気持ちでいる。30年にわたってずっと好きでいさせてくれただけでなく、大きな夢まで見させてくれた。その夢には勘三郎さんという存在が深くかかわっていたわけだけれど、これほどまでにわたしに執念と妄想を抱かせた戯曲はたぶん、ほかにはない。今回の上演には、「伝説の」という枕詞がついたりしたが、伝説を伝説たらしめたのは、この戯曲そのものの力だけでなく、この戯曲に妄想をいだいてきた私たち観客の妄想力もその一端を担っているんじゃないかとおもう。これから先の30年間この戯曲を伝説たらしめるのは、これから先の観客の仕事といってもいいかもしれない。そうなってくれれば、私はまたふたたび、あの桜の森の満開の下に帰れるのかもしれない。そうなってくれればいいと心から思う。けれども今はしばしさようなら、またいつか、もう帰るところのない私たちのこの寂しさが、ふたたび桜の森の満開の下で会えることを願って。

「修道女たち」KERA・MAP #008

6人の修道女の祈りから舞台は始まる。彼女らは巡礼の旅の準備をしており、その会話から修道院の運営が困窮していること、この1年の間に43人もの仲間が非業の死を遂げたことがわかる。亡くなった修道女の兄と称する人物が訪れ、彼女らの巡礼の出立をねぎらうが、妹の墓参りをするという彼が実は妹の墓に花を手向けていないことをひとりの修道女が口にする。6人のうち2人はこの困窮した修道院をわざわざ訪れ、多額の寄付をしあっという間に請願を立てて修道女になった。親子であるふたりのうち娘の方は母の気まぐれにつきあいきれない。彼女らは決して一枚岩ではない。

以前、小沢健二さんのライヴでだったと思うけど、「信じる」というキーワードについて彼がリーディングしたことがあって、信じる人、を英語ではBelieverというけれど、それを訳し直すと「信者」となり、なんだか(特に日本では)遠巻きに見られるような感覚になる、と言っていたことがある。実のところ、信仰というものへの「信じる」行為には、私もどうしても距離を置いてしまうところないとはいえない。信じること自体が悪ではないのはもちろんだが。

物語の中で彼女らはそれぞれの罪を抱えていることが明かされるのと同時に、国家から「迫害」を受けている存在であることがわかるのだけれど、修道女たちの巡礼を心待ちにする村の女の子と、その子に恋心を抱く青年がいて、あの閉鎖空間の中でお互いの信心が互いに牙をむいたりするのかなという予想は全然外れました(女性ばかりの閉鎖空間、で『すべての犬は天国に行く』を私がどこかで思い出しちゃってたからかもしれない)。山荘の管理人とテオにはそうした殺伐さがあるんだけど結局殺していなかったし、こうした閉鎖空間で登場人物の直接的な「死」が舞台上で展開しないというのはちょっと意外で面白かったです。

葡萄酒を前に、そこに自己防衛という名の毒が入っていることを予期して、つまりは相手を疑って安全な道をとるか、善き心を信じてその葡萄酒を飲むか…。修道院長が蓄音機から流した曲は白鳥の湖だった。スワン…スワン・ソングをどうしても連想させるし、その時点でこの顛末が予想できる(スワン・ソングは生前最後に成し遂げる仕事のことをいう。白鳥が死の間際に美しい声で歌うという伝承から)。とはいえ、彼女らのもとには魂の列車が訪れ、自分の欲望のために罪を犯し孤独に侵された青年はその道行をただ見つめることしかできない。そう考えると、信じることのどうしようもなさとともに、だからこその救いを描いているようでもあるなと思った。

キャストはもちろん皆さん素晴らしかったです。ケラさんの会話劇の巧みさを巧みと感じさせないまま物語の世界に連れて行ってくれる巧者揃い。杏ちゃんのオーネジー緒川たまきさんのシスター・ニンニ、あの紅茶のシーンめっちゃよかったな!めっちゃよかった…「どっちが甘いか気になるのね?」めっちゃよかった…(反芻)。犬山イヌコさんと伊勢志摩さん、何気にありそうでなかった顔合わせで、二人とも強力な磁場の持ち主だけど絶妙なバランスで引き合ってる感じがあってスリリングだったなー。最高でした。みのすけさん、集団に対する有象無象の「外圧」を一手に引き受けててすごい。善にも悪にも読み取れそうな佇まいが一貫してて物語の緊張感をしれっと握っている感、さすがです。

「ボヘミアン・ラプソディ」

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クイーンのボーカリストフレディ・マーキュリーにスポットをあてた映画。クレジットはブライアン・シンガー監督ですが、この映画も製作段階でいろいろあってシンガー監督は途中で交代したんだけど映画がほぼ完成していたので監督としてはシングルクレジットになってるみたいです。後を引き継いだのはデクスター・フレッチャー。製作にブライアン・メイロジャー・テイラーの名前があります。

むちゃくちゃよかった、むちゃくちゃよかったんですが、その「よさ」はなんというか映画そのものというよりも、この映画が掬い取ることに成功しているクイーンの、ひいてはロックバンドの持つきらめきとせつなさにあって、どうにも見ているひとを巻き込んでしまうところにある気がします。クイーンを知っていても、知らなくても、今までいちどでもロックバンドというものに深く思い入れ、そしてそれを喪ったことがあるひとには、これを知ってる、この風景を知っている、と思わせるし、その風景の先にある「たくさんの希望と絶望と興奮」を思い出させるし、だからこそこの映画がたどり着く最高の瞬間に巻き込まれずにはいられない。

ロックバンドにどんな物語を見るか、というのは100人いれば100通り、1億人いれば1億通りあると私は思っているので、それは同じものを見ていてもそれだけ「自分がそのバンドに見る物語」は千差万別だと思っているので、実際のバンドの、しかも早逝したヴォーカリストを擁したバンドをこうして映画化するということはものすごい困難を伴う作業だと思うし、実際にこの映画において時系列が圧縮されていたり、「いやここはそうではない」って部分が飲み込めないひとがたくさんいても、それはもっともなことだろうと思います。そして逆に、たとえそういう部分があったとしても、これが自分の見たかった物語だ、とおもうひとが沢山いたとしても全然不思議ではない。映画のクライマックスをライヴ・エイドに持ってきて、しかもあの20分間のステージをほぼ完全に再現する、というのが降板したブライアン・シンガーの仕事なら、かれは文字通りこの映画の監督としてシングルクレジットされるに相応しい。あの20分間はなんというか、結局のところ、あのステージにすべてがあった、ということなんだと思う。ブライアン・メイロジャー・テイラーは、クイーンをこうやって憶えていて欲しい、ということなんだと思う。そしてこのふたりは、こういう形でクイーンの物語を紡ぐ資格のある数少ない人間のうちのふたりなんじゃないかと私は思います。

バンドがスターダムを駆け上がっていくのも、フレディ・マーキュリーの人生も、駆け足みたいな描写ではあるけれど、それでもなおそのひとつひとつに説得力を持たせる楽曲のパワーたるや。名曲「ボヘミアン・ラプソディ」を、名盤「オペラ座の夜」を生み出す前夜の彼ら、あの全能感に満ちた彼ら、正直もうここで涙の海に沈められた私だ。しかもそれを録音するスタジオを訪れたときの描写が、ってこれもう完全に映画の感想から離れちゃってるけど、私の好きなバンドが5枚目のアルバムを録ったとき(なぜ固有名詞を出さない)(いやなんとなく…恐れ多くて…)のスタジオ、リッジファームにすごく似てて(実際にオペラ座の夜のリハでリッジファーム使ったらしいですね)、まさに「前夜」の興奮のさままで思い出させて、これは…これはあかんやつー!この後起こることを知っているだけにあかんやつー!ってなりました。もうそこからホントぜんぜん映画と距離をもって冷静に見ることができなかった。

そんなんだからフレディがソロとして契約をした、という話をメンバーにするところも、ああこれ…自分をクビにしてくれとかいいだす空気…とか、妥協って言っちゃった…とか、逆にもういちどバンドとしてやりたい、って話をするところとか、なんならライブエイドでメンバーがドラムを囲むシーンですら、全部がわたしにとってあるものを思い起こさせるんじゃー!ってこれは完全に余談でした。

映画の感想で根っからのクイーンマニアな人たちも、メンバーの再現ぶりを軒並み称賛されていますが、いやほんと、物語や音楽に感動するのと、「それにしてもそっくりだな…」っていう感嘆が交互にやってきて忙しかった。ブライアン・メイはマジで途中から「これはもはや本物のブライアン・メイなのでは…?」と思うほどに似てる。すごすぎる。顔もそうだけど表情とか仕草がもう全部あれ。でもロジャー・テイラーもジョン・ディーコンもめちゃ似てます。ライヴエイドのあのジョンのシャツほんとどこから持ってきたんだろう…まさか作ったのか今回のために。あとブライアン・メイがフレディに「きみも髪を切れ」って言われた時「生まれたときからこれだ」って返すのめっちゃ好きでした。「コーヒーマシーンはやめろ!」も楽しかった、ああいう密なバンドの空気が色濃く感じられたのも入り込んだ理由のひとつだと思う。キラッキラのロジャーや、ジョンの絶妙なバランサーぶりも好きだったなあ。ラミ・マレックのフレディ、すごくすごくよかったです。言うまでもなくいちばんの難役だし、あれだけのロック・アイコンを演じるのって並大抵じゃないけど、孤独に蝕まれていくさまも、ステージの上での圧巻のパフォーマンスも、本当に説得力があった。あ!あとねこがめっちゃいい仕事してます。

いやしかし、あの最高の風景にたどりつくまでに身を絞られるような思いをするのに、それをわかっているのに、どうして「もういちど」って思ってしまうんでしょうね。この映画も全く同じで、やっぱりあの最高の瞬間を味わうためにもう一度足を運びたくなってしまう。そういう意味では、この映画にはまさにロックバンドが私たちにかける魔法そのものが備わっているんじゃないかと思いました。ぜひ、音響の良い映画館で楽しんで下さい!

「遺産」劇団チョコレートケーキ

  • すみだパークスタジオ倉 E列17番
  • 脚本 古川健 演出 日澤雄介

第二次世界大戦下の満州で、表むきは関東軍防疫給水部として活動していた「731部隊」を題材にした作品。先だって公演された「ドキュメンタリー」からつながる物語でもありますが、直接的な続編ではないので、同じ登場人物が出てくるわけではありません(終盤、ドキュメンタリーで語られた物語の顛末のようなものがさらっと出てくる程度)。

731部隊で陸軍技師として数多くの人体実験に関与したひとりの医師が、自分の死を契機にその「遺産」を白日の下にさらすことを望む、その相克と、その意思を受け継ぐべきだと考える青年を主軸に、過去と現在が交錯する物語です。語られる物語はあまりにも凄惨で、非人道的、という一語に尽きますが、では我々と彼らの何が違うのか、同じ状況に置かれた時に、自分は彼らと同じことをしないと言えるのか。普通の人間がいちばんおそろしい、それはこの劇団が積極的に取り上げているナチスのあの狂乱の時代にも共通するもので、亡き医師の残したファイルを受け取った青年の「ぼくも同じことをやるだろう、だからこそ心底おそろしい、だからこそこのファイルを埋もれさせてはいけない」という台詞にこの芝居の心臓が集約されているような気がしました。

しかし、この731部隊の行ったことについて、ある程度漠然とした知識は共有していても、これだけのことをしたにも関わらず、戦犯として処罰されることもなく、なんらの清算を行うこともなく、ただただ戦時下での異様な規律だけが生き続け(石井四郎の「決して口外するな」という命令に皆死ぬまで逆らうことができない)てきたことにはなんというか、どうしようもない居心地の悪さが残ります。医学の発展にはこうした犠牲がつきものであるというその考えのもとに、我々は今この国で西洋医学の恩恵を受けているのではないかというような。

そういう意味では、「ドキュメンタリー」のミニマムさ、インタビューという形式をとりながら一本の芝居としてそこから観客に「何か」を見つけさせる巧みさは、今思っても出色だったなーと振り返ってみたり。

女性の「マルタ」が言葉を積極的に覚え、それによって自分が人間であるということを自分を取り囲む人間に思い出させていく演出は出色でした。あの最後のダンスも。人間であること、語ること、そして、踊ること。彼らは人間だった。彼らを人間として扱わなかった人もまた、悪魔ではなく人間だったのだ。そのことが何よりも胸に残る観劇でした。