芝居とは関係のない話ですが

パラドックス定数の今回の芸劇シアターイーストでの公演、私は劇団先行予約でチケットを買い、開演の45分前には劇場前にいたわけですけど、そこで見ていて思ったことをちょっと書かせていただきます。

なぜ45分前に行ったかというと、チケットには「開場時間より整理番号順でのご入場」とあり、チケットには整理番号が印字されていたんだけど、同時に「受付開始は45分前、開場は開演の30分前」という案内がチラシや公式HPなどでなされていて、この「受付開始」とは何…?というのがいまいちよくわからず、45分前に到着するようにしたわけですね。で、結局のところ45分前から開始されたのは、当日券及び当日精算券を持っている方の受付だったわけなんですけど、同時に「劇団先行予約特典のおまけの引き換え」も同じ列で処理されてたわけなんですよ。
これはよくない。
ただおまけを引き換えるという工程の少ない作業と、予約を確認し、お金を払い、お釣りを渡し…という工程が発生する(つまり、かかる時間がまったく違う)客を同じ列で捌くのはマジでいたずらに行列を長くさせるだけでなんのメリットもないです。

劇団の名物といえば名物なので継続するという方針に否やはないけれど、チケットすら自分でもぎらせようかという昨今の事情の中でおまけの受け渡しをどうするか、というのはもっと練られてよかったのではないかと思いますし、できれば先行予約済の客には改めて「受付」の必要はなく30分前から番号順に入れる、会場前に人をたむろさせないためにも開場時間ぴったりを目指してきてくれ、ぐらいのアナウンスがあってもよかったのではないでしょうか。

おまけの引き換えは入場後でもできる、とスタッフの方に聞いたので私は列から離脱しましたが、列ができてしまうと「よくわからないが並んでおこう」という心理に働きかけちゃうし、もうちょっとやるべき作業と集まるキャパをふまえたオペレーションをした方がよかったのではと思いました。

「プライベート・ジョーク」パラドックス定数

パラドックス定数が芸劇シアターイーストに!勢いを感じる。今回の上演にあたって劇団がyoutubeチャンネルで2018~2019にシアター風姿花伝で連続上演した一連の「パラドックス定数オーソドックス」を無料で公開したのもかなり集客に奏功したのではないでしょうか。

とある学生寮に住む3人の若者。ひとりは文学(劇作)を、ひとりは絵画を、ひとりは映像作家を志しているらしきことがその会話の端々から読み取れる。そこにあらわれる2人の天才。ひとりはどうやら絵画でその道を究め、もうひとりは天才物理学者であることがわかる。

当日パンフのキャスト紹介には役柄それぞれの頭文字しか振られていないが、野木さんはいつも参考文献を当日パンフに掲載されるので、そこにある書名でその頭文字が誰なのかは推察することが可能。しかし、Das orchesterのときも「フルトヴェングラー」という名前は一度も呼ばれなかったように、今回も入念に、丹念に彼らの固有名詞は台詞から取り除かれている。名前を呼んだ方が絶対に楽だし自然だとおもう場面であっても、慎重に回避されている。それによって若者3人が「まだ自分が何者でもない」という焦燥に身を置いていることにリアリティを持たせたかったのかもしれない。現れる天才2人は「闘牛(つまりスペイン)」「ノーベル賞」というヒントも多く、何より「天才」のアイコンになるような人物なので推測も容易であり、すでに「何者かである」存在として現れるのもよい対比だった。

私は今回当パンを読まずに作品を見たので、だんだんとヴェールがはがれるように人物の推測をしながら見るのも面白かった(とはいえ詩人は最後まで具体的名詞が思いつかず)。3人の友情、というか束の間の連帯というか、それに罅が入っていく描き方や、3人の生きることへの覚束なさが、どこか倦んだような天才2人に波紋を投げかけるさまをぐいぐい台詞で描いていくところ、野木さんらしさが爆発してたな。あと同じ場面で違う時限にいるキャラクター同士が会話をする場面が複数あったんだけど、こういう舞台だからこそできるトリッキーな表現が大好物なので、そういう新鮮さも楽しめてよかった。

個人的にはパリに行った画家と映像作家が学生寮に戻ってきて、そこで「出て行ったときのままそこにいる」かのような作家と起こす軋轢のヒリヒリ具合が好きだったな。その前の場面の、学者との「自然界で動かないでいることの不自然さ」という会話がよく効いていた。でも誰しもああいう、自分の足元を見ていることしかできない時間というのはある気がする。

シアターイーストの広い間口をむちゃくちゃ小さく区切っていたので思わず笑ってしまったんですけど、折角の広いコヤなのでそこでしかできない表現というのがあってもよかったよなーとは思いました。キャストの皆さまはもう安定のクオリティ。植村さんの声の良さ、今回も冒頭から大爆発。ありがとうございます。次回公演はしばらくお休みしてからお知らせしますとのこと。楽しみに待っております!

「フリムンシスターズ」

コクーン芸術監督になった松尾スズキさんの新作ミュージカル?いや音楽劇といったほうがいいのかしら。大阪公演はオリックス劇場というコクーンに比べるとかなりの大箱。しかしありがたくも最前列で拝見させていただいたのです。最前とはいえ舞台ツラからは2メートル以上離れてるんですけどね。

しかし、こんなにめぐまれた席で見ていても、なんかいまいちぐっと舞台の圧を感じるような瞬間のないままラストを迎えてしまったという感じがあった。沖縄から身ひとつで出てきて、自分の芯を持たないまま、漫然とコンビニで働き、給料はもらえず、ときどき店長と寝て、それを店長の妻も察していて…という、主人公の置かれた環境の「ぬるい地獄」さ、主人公だけでなく松尾さんのよく言う「人間性をはぎ取られたところ」に置かれた登場人物がどんどん出てくるのも、松尾さんらしさは満開だと思うのだけど、しかしどうも切実さを感じることができなかった。

この、ちひろのような登場人物を舞台のうえで描くという点において松尾さんはまさにパイオニア的存在だったといっていいと思うんだけど、今そこに松尾さんの興味というか、切実さがあるのかな?という感じがしてしまった。それは秋山菜津子さんのみつ子とサダヲちゃんのヒデヨシの関係にしてもそう。「命、ギガ長ス」なんかは、そのピントの合いようがそら恐ろしいぐらいだったので、松尾さんももう少し先を書きたい欲があるのではないのかなあなんて思ったりしてしまった。

まあ、わたしが基本的にミュージカルを得意としていないってのもあるんだろうけど。あと舞台ツラで役者に何か食べさせて噴き出させて…っていうシーンは、いかに皆川さんの愛嬌をもってしても、このご時勢前方席の客を引かせる効果しかないと思う。ささいなことだけど。

長澤まさみちゃん、コンビニ幽霊というには輝きがすぎるきらいがありましたが(できればラストシーンのようなスタイルでもう1,2曲ぐらいあってもよかった)安心感のあるセンター。あとはオクイさんの仕事っぷりがやっぱりすばらしかったね。2役目であの弟がきたとき心の中で「待ってました!」って快哉をあげたもんね。皆川さんもとてもよかった。サダヲちゃんと秋山さんのコンビをたくさん見られたのもありがたかった。サダヲちゃん、ほんと舞台に彼が出ているときはそっちしか見られなくなるマジック健在すぎる。無事快復されてこの舞台の幕が上がってよかったです。そうそう、史上最短のカーテンコールもいい!あれは継続してもらっても一向にかまわない(笑)。

「獣道一直線!!!」

ねずみの三銃士、企画第4弾。なんとなくこういう企画ものって「3」で打ち止めみたいな気に勝手になっていたので「続くんかい!」とツッコミつつも楽しみにしておりました。今回は木嶋佳苗の事件をモデルに売れない役者3人の人生とひとりの女性を描く構図。このねずみの三銃士、第2回から一貫して女性を真ん中に置く構図になってますよね。古田新太生瀬勝久池田成志という3人の猛者を芝居の中で配置するのに、その方が書きやすいってことなのかな。

今回その芯になったのは池谷のぶえさんなんですけど、いやもうこれでのぶえさんが今年の演劇振り返りで名前が上がらなかったらウソだ、というほどに無双、無双of無双、光り輝いてました。すごい。古田・生瀬・池田を前にしてなにをやっててものぶえさんが輝くあの存在感。もちろん、この構図をちゃんと把握してどの場面でも絶妙な塩梅で芝居の押し引きを決めてる三銃士のお三方もすごい。冒頭、これ完全につか芝居だろ!というテンションでちょっとぞくっとしたよね。そこにしっかり異物感のある宮藤さんと山本美月さんというコンビが入るのも効いてた。

木嶋佳苗の事件をモチーフとするときに、ある種のルッキズムに触れずに展開させていくのは難しいというか、事件の概要を聞いたときに人が心の中に描くファムファタールな像と、ニュースで知らされるそれに多かれ少なかれ乖離がある、乖離があるからこそひとはこの事件を取り上げたがる…という部分が絶対ありますよね。なので、宮藤さんとしてもそこは慎重に書かなきゃいけないところだという自覚はありつつ、しかし反対に抉らなさ過ぎても成立しない、というところがあり、難しい綱渡りだなと思いながら見ていました。「私はあなたがたの想像力を軽く超えていきますから」って台詞は、そういう綱渡りのことを思うと、これ以上に作中の彼女の本音を現しているものはないのかもという気がします。

序盤、ヤりたい一心の男の目にはこう見える、というようなネタ的に見えた入れ替わりが、事件にのめりこんでいく妻と、その事件を語る女が最終的に入れ替わることで、彼らの主観を通して見る像のゆがみ、あやふやさ、頼りなさを突きつける構図になっていたのもよかったです。あと、3キロ太っちゃった、という妻の言葉に夫が慰めの言葉をかけるんだけど、そのあとの妻の返しが、これは今までの宮藤さんからは出てこなかった台詞だなー!と思って面白かった。

あちこちに差し挟まれる笑いのネタがんまーよくウケていて、最初は私もあんまりアハハと笑わない方がいいのかな…とか気にしてましたが、けっこう声出して笑っちゃってたな。蜷川さんもその灰皿は投げてない!とか。笑わせて笑わせて、最後あの冗談みたいな歌でぐっと落とす。河原さんの演出も派手さはあるのに無駄がない、信頼のクオリティでした。そうそう、「魔性の女」のナレーションが橋本さとしさんで、内容も相俟って最高のいい声無駄遣いだな!って感じでよかったです。

「真夏の夜の夢」

言わずと知れたシェイクスピア原作の有名なこの作品を、野田秀樹さんが潤色・演出して上演したのが1992年。28年前…遠い目になるな。この時期、東宝主導で野田さんに商業ベースの大きな舞台をやらせようムーヴが続いてて、「十二夜」や「から騒ぎ」も上演してましたね。今回の演出はシルヴィウ・プルカレーテ。

枠組みはシェイクスピアの「夏の夜の夢」ではあるけれど、その後「三代目、りちゃあど」らと一緒に「廻しをしめたシェイクスピア」として戯曲にまとめられたように舞台の置き換えが行われていて、料亭の跡取り娘(ときたまご)とそれを慕う板前(ライとデミ)、その板前の一人を慕う娘(そぼろ)という登場人物になっている。それだけでなく、原作にはいないメフィストがもうひとりのトリックスターとなり、この世界を破滅に導こうとする…という脚色がなされているので、原作のテイストが残るのは最初と最後だけ、といってもいいかもしれない。そして、この作品における「野田秀樹テイスト」がもっとも色濃く表れているのは、メフィストが「人間が飲み込んだコトバ」によって行動し、しかし最後にはその「コトバ」の再構築によって鎮められる、というところじゃないだろうか。

なので、ラストのそぼろが今までの「コトバ」で紡ぎ直していくところは、野田戯曲のエモが集約されたシーンでもあるので、そこはもっとエモエモしくやってもらうほうがわたしの好みだったなーとは思いました。とはいえ、パックとメフィストを対のトリックスターに配し、白と黒のスタイリッシュな衣装でみせるところ、その他のセットのクールさもあわせてそこは戯曲の魅力が倍掛けで活きていたなーと思います。

特にパックに手塚とおるメフィスト今井朋彦をもってきたあたりがすばらしいとしか言いようがなく、この2人にやらせたら間違いない、というキャストでもはや見応えしかないという感じでした。特に今井さんのメフィストは、あの独特のイントネーション、立ち居振る舞いの優雅さ、舞台に出れば誰よりも場をさらう圧倒的な存在感で、これぞ「この役者を見るためだけでもチケット代の価値がある」というやつだったなと。

「リチャード三世」で組んだ役者さんを多く起用されていて、演出との相性も良く、かつ実力のある役者がすみずみまで出ている感がありました。あと鈴木杏の強靭さね。どんな舞台で見ても鈴木杏の身体が雄弁でなかったことなどないと思うし、終盤の牽引力はさすがのひと言でした。

ラストの、有名なパックの台詞。お気に召さずばただ夢を見たと思ってお許しを、つたない芝居でありますが、夢にすぎないものですが、皆様がたが大目に見、おとがめなくば身のはげみ…。いつ聴いてもこの台詞は最高に好きだけど、今この時だからこそより打たれるものがありました。そのあと、キャスト一同が手を繋ぎ、ゆっくりと舞台奥から歩いてカーテンコールの拍手に応える演出も、すばらしかった(この時の鈴木杏よ!これぞ女優という風格)。旅公演の大千秋楽まであと少し。無事に旅を終えられますように!

「羅小黒戦記 ぼくが選ぶ未来」

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字幕版が日本公開されたのが昨年でしたか、その時はタイミングが合わず涙をのんだのですが、なんと吹替え版となって超拡大再公開!!ありがとうございます!!もとはwebアニメとして公開されていて、この映画はその前日譚にあたるらしいのですが、そのあたりの前知識は何も入れず徒手空拳で見てきましたよっと。私の見た回、なんと満席!1席飛ばしじゃないよ!スゴイ~~~

黒猫の妖精シャオヘイは自分が住んでいた森を森林開発によって追われ、「人間の街」であてどなく暮らしていたが、同族の妖精フーシーに助けられる。フーシーの仲間たちと楽しい一夜を過ごし、ここが自分の居場所だとおもうシャオヘイ。しかし、翌朝圧倒的な強さを誇るムゲンがフーシーを捕らえにやってくる。フーシーをかばい、そのために彼らと離れ離れになったシャオヘイは、ムゲンとふたりで館までの旅をすることになるが…という筋立て。

とにかくシャオヘイの造形がかわいいので、猫のときも変化しても人形でも最高にかわいいので、はーかわいい、シャオヘイかわいい…とか思ってたらだんだんアレ…これなんか…X-MENぽくない…?ってなってきて、妖精と人間との共存か、断絶かってのもそうだし、それぞれの属性で能力がわかれるのもそうだし、しかもその能力者同士のバトルへのストーリーテリングがむちゃ巧みだしで最高だった。最高の強者同士がその力を尽くして戦うに至る過程に無理がなく、しかもその能力バトルによる他者への被害という点においてもちゃんとストーリーの中で解決したうえでみせていて、隙がない~~!って感じでした。

フーシーはこの映画においてはヴィラン的な立ち位置になるかもしれないんだけど、ヴィランというには純粋な青年でありすぎて、ううう、お前さんにも幸せになってほしい…と思わずにはいられませんでした。とはいえ、目的は手段を正当化するか、という、古今東西手を変え品を変え問われてきたテーマがここにもあって、そしてフーシーは自分がいちばん忌み嫌った「力で他者から奪う」ことをシャオヘイに対して実行してしまっているので、そしてそのことをフーシー自身が誰よりもよくわかっているので…だからこそ「言い訳はしない」「考えたさ」なんだろう、なっていう…ていう!!!

ムゲン師匠とシャオヘイのふたりの道中はもう最高に夢しか詰まってないし、というかこのふたり、基本的に夢しかつまってない。料理の下手な師匠むたくた笑いました。落下するシャオヘイを師匠がノールックでつかんでそっと襟を直すとこむしょうに好き。これが前日譚ってことは「この先」がすでにあるってことなんですね…なんてことだ…マジで夢しか詰まってねえ…。でもフーシーや仲間と過ごした一夜にも、その刹那だからこその夢が詰まってっけどな!

終盤一気にいろんなキャラクターが出てきて、おおおなんかこれは…掘り甲斐のありそうなひとが…どんどこでてきてもうこっちキャパオーバーです!ってなったけど、その壮大な世界観がうかがい知れるところも含めて楽しかった。吹替えキャスト陣も満を持して!という盤石の布陣で最高でしたね。面白かったです!!

「『見えない/見える』ことについての考察」

森山未來くんのソロ公演。ジョセフ・サラマーゴの「白の闇」のリーディングに未來くんのパフォーマンスが重なり、さらにモーリス・ブランショの「白日の狂気」がメタテキストとして絡まってくるという構造。1回に入れる客の人数をかなり絞っていたと思います。これは入場時にイヤホンガイドのようなものを渡されるので、その数までしか入れない(入れられない)ということなのかなと。

こういうタイプの公演は得意な方じゃない(何しろ台詞で圧される芝居が大好物ですからして)けど、森山未來のパフォーマンスを間近で見られるということには代えがたい。これだけの至近距離で、自分の肉体だけで観客の前に立っても、観客に居心地の悪さを感じさせない、圧倒的な「身体の力」がある。鍛錬が表すものの誤魔化せなさよ。

リーディングテキストは「ある日突然失明する集団」が出て「原因は不明」、「感染をおそれて隔離」される…という、実に今日的なテキスト。白い闇というその表現を、カメラのストロボライトのきわめて強い明かりが具現化していて、あらためてステージパフォーマンスにおける「照明」の効果の大きさ、ある意味もうひとりの出演者といってもいいほどの存在感があるなと思いました。

イヤホンガイドでは未來くんの声が文字通り耳元で聞こえてくるという体験ができて、いやー彼の身体と声を堪能しちゃったなと。こうした時期に身ひとつで全国を回り、まさに「見る」ことのひとつの形を示してくれたことに感謝しております。