「パ・ラパパンパン」

藤本有紀さん脚本、松尾スズキさん演出。まずいの一番に言いたいこととしては、こういう試みをどんどんやっていってもらいたいってことです。小劇場界から出てきた人たちは、自身の劇団で作・演出を兼任してのし上がってきたひとが多いというのもあるけど、作と演出を分担することが少ない。あっても、過去の脚本や海外の作品を引っ張ってきて演出だけする、みたいなパターンが多い。でも、演出って経験を積み重ねることでうまさが増していく、できることが増えていく、って部分あるけど、脚本ってどんどん頭を「今」にしていかないとあっという間に観客に追い越されると思うんですよ。作・演出の兼任ほんとこだわる必要ない。もちろん、作家と演出家の信頼関係がないとできないから、一朝一夕でいい組合せが見つかるわけじゃないと思うけど、できるだけ「今」を書ける人に書いてもらう、そして舞台で仕上げるテクは思う存分発揮してもらう、というのはすごくいいトライアル。

書けない作家とその書けない作家に書かせたい編集者が、クリスマス・キャロルの世界を借りて「クリスマスに起こった事件の謎」を解いていく…という縦糸と、作家自身がかつて悪意なき悪意にさらされた、その枷を解いていくというのが物語の横糸。

松尾スズキさんと藤本有紀さんといえば、名作ドラマ「ちかえもん」をまず思い浮かべますが、あの精神がしっかり息づいてるなと感じました。当たり前だけど、物語の納め方がむちゃくちゃ達者。唸りましたね。第一幕、作家が一見傍若無人といってもいいほどに「クリスマス・キャロル」の世界に茶々を入れていくけれど、第二幕では作家自身がその物語の中に入って、むちゃくちゃに思えた謎もしっかり解決していく(それが得心できるトリックであるのがまた、すばらしい)んだから、筆の冴え~!ハンパない~!と驚嘆するしかない。

なかでも、あとで困った時のために生かしておいちゃおう、と言っていたスクルージの生存が、絶体絶命の作家を救い、まったく同じセリフを返すところ、しびれたなんてもんじゃなかった。何か困ったことが起こった時のために、生かしておいてくれたんだろ?さようなら、ファンによく似たお嬢さん…。藤本さんが「物語の中で生きる人」にどういう視線を持っているか、がこんなにも発揮された名場面ないとおもう。

誰かを傷つけるつもりじゃなくて、ただ、おもしろいからやった。誰でもよかった。そういう、悪意なき悪意に苦しめられる、なんで私なのか、と思い続ける作家の苦しさを、苦しさとして表出させない見せ方も、よかった。ところどころに差し挟まれたキレッキレのギャグ、役者陣を遊ばせて、でも物語のスピードは殺さない演出などは、松尾さんの手腕だよなあと唸る。蜷川芝居の大東くん、ちょう笑った。空の上から御大の灰皿飛んできてない?大丈夫?いやなんならちょっと、飛んできてほしいけどね。

あとは何と言っても役者陣の隙のなさ、この充実ぶりよ。小松和重さんと菅原永二さんの並び、私にとっては大御馳走だし、自ら積極的にゲラって、でも収拾つかない一歩手前で職人芸のように本筋に戻すマイラブ小松さんの本領発揮を見れて嬉しいったらなかった。あと、筒井真理子さん、つーか真理ちゃん、マジでぜんぜん変わらない、なんなのその美しさの秘訣は。オクイさんももちろんよかったし、自由な皆川さん大好きだし、小日向さんが輝いてるのなんか言わずもがなだし、はーあもう全員最高だったよ。

そして芯をとるお松と神木きゅんのすばらしさね。いやもうお松を見ていて、心底、国の宝やんか…とほれぼれしてしまったおれだよ。芝居のうまさ、声の強さ、硬軟自在の演技、あの皆川さんを前にして絶対に落ちない心臓、そして歌声。すべてがキラッキラに輝いてたし、その国宝級のお松の輝きに神木きゅんが負けてないから参っちゃう。舞台の上の居方みたいなものはもちろん他のキャストに一日の長があるけど、芝居勘のよさでここまで渡り合えちゃうのがまずすごいし、あと持てる武器が多い。伊達にこの世界でトップに居続けてない。

最後の歌とダンス、オンシアター自由劇場な方々を筆頭とした演奏も最高だったし、あのどセンで踊るお松の輝きたるや…!欲を言えば筒井さんにも踊ってほしかった、第三舞台ファンとしてはねー!しかしフルートで参加ってのもなにげにすごいな。

大阪は師走の公演で、街の空気と芝居がハネたあとの空気が絶妙にリンクして、なんとなく誰かにメリー・クリスマスの言葉を送りたくなる、そんな作品でした。堪能!

「リーマン・トリロジー」ナショナル・シアター・ライヴ

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ナショナルシアターライヴで最初にかかったのはもうずいぶん前ですが、当時コロナ禍に突入する直前ぐらいで、梅田での上映があったんだけどその後に神戸でもかかることが決まってて、日程的に神戸の方が合わせやすいな…と思って梅田の上映を見送ったのが運の尽き。その間にあっという間に事態が急転し、緊急事態宣言が出て、神戸での上映も延期、となってしまった。

先に観ている人たちの絶賛に次ぐ絶賛、うーん観たい、観たいったら観たい、お友達の感想読んでても好きな予感しかしない、うわあああああんあの時無理して梅田の上映で見ておけばこんなことにはー!という後悔をずっと抱えておりました。その後の上映もタイミングが合わず、今回名古屋でのアンコール上映、土曜日にリーマン・トリロジーがかかる!というので、ここを逃したら次のチャンスいつになるかわからーん!と出かけてきました名古屋まで。

いやー素晴らしかったね。
こんなにも「素晴らしい」言い甲斐のある作品もそうそうない。開始10分ぐらいでもうすでに「いやまてこの時点でもう最高に面白いんだが!?」ってなるほどでした。2回の休憩合計30分を含む計3時間40分のまさに長尺ですが、いやもう全然観てられる。観てられるどころか、ずっと観ててもいい。映像で見てこれなんだから、劇場で実際に観たらどんな体験になるんだろう。そんなことを思って休憩時間中に映し出される観客に思わず嫉妬しちゃいそうになるほど圧倒的でした。

日本では「リーマンショック」という彼らの終焉にまつわる単語の方が有名ですが、一時は文字通り世界にその名を轟かせた「リーマン・ブラザーズ」の160年間を3部構成で描いた作品で、演じるのは3人の役者のみ。最初の3兄弟、3代にわたる物語、3部構成…と「3」をキーに構成されていて、キャストの会話がダイアローグになることはほぼなく、基本的にそれぞれのモノローグで通されるのがなにげにすごい。セリフ劇でモノローグ一辺倒なんて、へたしたら秒で寝るやつですよ。でもそうならない。台詞ひとつひとつのセンテンスがそれほど長くなく、かつ繰り返しが多用されてどこかマザーグースのような独特のテンポをもたらしている感じ。一度その波に乗ったらもう最後まで一気呵成。

ヘンリー・リーマンがドイツのリムパーから45日間の船旅を経てNYの港に着いた風景の、短いけれど的確な描写、震える彼の手、モンゴメリーで開いた小さな店の看板。そこから、まるでアメリカ近代史を輪切りにしていくように、リーマン兄弟とその子らの人生が描かれていく。大火事、南北戦争、ブラックサーズデー。リーマン・ブラザーズが直面し、同時にアメリカが直面した「激動」が見事な演出によって観客に迫ってくる。

なかでもブラックサーズデー、暗黒の木曜日の描き方は印象的で、それまでは何の変哲もないいつもの木曜日、フィリップは新聞を買い…だが、すべてが一瞬で変わる。世界史のひとつの知識としては知っていても、これがひとつの「アメリカの夢の終焉」だったということをここまで腹落ちさせた表現は見たことないかもしれません。相場は常にあがり続ける、アメリカは強大になり続ける…そんなことはないとわかっているのに、わかっていた人もいたはずなのに、大勢がその見果てぬ夢の眩しさにくらんで、あの暗い木曜日の穴に落ちていく。いやはやすさまじかったです。

あと、「買う」とは何か?という3幕にある場面、あれも忘れがたい。現代において、買うことは勝ち負けだ。買えたあなたはこの勝負に勝っている。買えなかったあなたは負け。必要だから買うんじゃない。欲しいから買う。それが消費社会。必要だから買うという人間がいなくなる世界。折しもブラックフライデー真っただ中、ネットを開けば踊るセールの文字。買えたら勝ち。この感覚がこうした巨額のセールを支えてる。別になにか欲しいものがあるわけじゃなくても、この中で何も買わずにいるのは負けだというような感覚。これはどこから来ているのか?それとも、これも誰かに植え付けられたものなのか?考えさせられる。

舞台美術がまたすばらしく、ガラス張りの区切られたオフィスがなんにでも姿を変えてみせる、まさに演劇の見立て、万歳!というような見せ方。バックの映像は決して出過ぎず、しかし効果は絶大。何度も何度も書き替えられる看板(このくだりも繰り返される)の文字、リーマン・ブラザーズ・コットン、そのうちコットンが地に落とされてBANKにとって代わる。ガラス張りのセットに書き連ねられる沢山の数字や文字、しかし最後には、そこからLEHMANの文字だけがかき消される。地に落ちたコットンも銀行もまだある、が、LEHMANはそこから消えていく。

最後には、劇中のシーンと同じように、LEHMANそのものが弔われる。伝統に則って。やっぱりちょっとマザーグースみたいだ。ソロモン・グランディ、月曜日に生まれた、火曜日に洗礼を受け…日曜日には埋められて、ソロモン・グランディは一巻の終わり…

3人のキャストの素晴らしさはもはや言葉に尽くしがたい。サイモン・ラッセル・ビールの変幻自在さと質実剛健ぶりが共存する奇跡の演技!んもう!!!ベン・マイルズもアダム・ゴドリーも、ありとあらゆる瞬間が最高過ぎた。ひとつの巨大企業の誕生から死までの160年間を、3人のキャストで3時間で見せるなんて、これこそ演劇にしかできないこと、演劇だからこそできることがぎゅうっぎゅうに詰まりまくった作品でした。いやもう、本当に観ることができてよかった。素晴らしいエンタメを全身に浴びた時の、あの細胞が活性化するような感覚を久しぶりに味わいました。マジの、マジの、マジで、掛け値なしの傑作です!!!!

「いのち知らず」

  • シアタードラマシティ 2列27番
  • 作・演出 岩松了

岩松了さん新作。勝地涼、仲野太賀、光石研と良いキャストが並んでいたので見に行ってきました。

例によってなかなか一筋縄ではいかない台詞回しが序盤からポンポン飛び出し、振り落とされそう…と思っていると突然ピタッと照準が合ったみたいにすべてがクリアになるっていうこの感覚、岩松作品だなあ~~と実感。そして、岩松さんの作品(だけじゃないけど)に出ている岩松了さんご本人を見て、いや結局アンタがいちばんうまいやないかい!って舌を巻くやつも出ました。ほんとにうまい。なんなんでしょうあの人。

わりと共依存ぽい関係にある若者ふたりが、住み込みで働いている医療施設で行われている「非人道的な実験」の噂を耳にし、そこから二人の運命がわかれていく…という展開なんだけど、表面の事項を愚直に信じるか、はたまた陰謀論的なものに振り回されて軸足を見失うのか、あれ、わりと今だな…と思う展開になったりしたのが印象に残ってます。あと最初のシーンで舞台の下手側に立っている太賀くんを溶暗させるあの演出、あれすごかったな。紗幕みたいなものをうまく使ってるんだと思うけど、映像でよくある、背景に人物がとけていくような感じ。間近で見てあの効果だから、後方の人にはほんとにゆっくり背景に溶けていったように見えたんじゃないか。

ちょっとクールめな勝地くんにストレートな太賀くん、という役回りで、太賀くんは今こういう役やらせて右に出るものなしぐらい、ニンだなあという感じがありましたね。

カーテンコールでキャストからひと言ずつご挨拶があり、勝地くんは新感線の公演で大阪にきたときの成志先輩が酔って電柱にぶつかり電柱に平謝りしたというエピを紹介し「ぼくもこんな演劇人になるのかなと思った」と仰ってました。そして岩松さんは「もう40年ぐらい大阪に芝居を打ちにきている」と。「昔大阪でカーテンコールのときに『つまんねえぞ!』ってヤジが飛んで、それ以来カテコ恐怖症に」「大杉漣さんが『声が小さい!』って客席から怒られたり。ぼくが声張らなくていいって言ったばっかりに、悪いことした」などなど楽しいエピソードを披露され、「それ近鉄小劇場での話なんですけどね」。近鉄小劇場、の名前がでた瞬間の客席の声ともいえない声、空気のゆれ、よかったなあ。みんなの心にまだあの劇場があるってことだよね。ちなみに岩松さん、40年前からって話をキャストにしたら、太賀くんに「その頃新幹線あったんですか?」と聞かれ、劇団のことかと思ったら走る新幹線のほうだった!そんな昔じゃない!とすべらん話を披露しておいででした。

「藤原HINOMOTO-The Squad Announcementー」THE ROB CARLTON

THE ROB CARLTON新作。平安時代に蹴鞠の日本代表を選抜することになり…ってもうイントロから私の好き要素しかない。こういう、歴史の中にあった(かもしれない)ことを描くって、勝海舟の名言「今から古を見るのは、古から今を見るのと少しも変りはない」ことを感じさせてくれる、私の大好きな設定・構図です。

帝の前での蹴鞠(天覧試合っすな)をやるにあたって、日の本一の鞠足を集めよ…という勅命に悩まされる4人の登場人物による会話劇なんですが、要所要所で古い単語をそのまま活かしつつ、軽妙なやりとりがまさに蹴鞠の如く続くのが大変心地よし。あっ、つい口調がうつってしまった。

この劇団の皆さまの出自がラグビーにあるというのは小耳に挟んだ記憶はあったんですけど、蹴鞠というとどうしてもサッカーに意識が向いちゃって、でも途中摂津国まで選手…いや鞠足のスカウトに行った話で「だんのかーたー」「いにのえすた」って名前にむちゃくちゃ笑ってしまったし、そうやんな!フットボールやもんな!ラグビーもありやんな!*1ってなってみると…もしかして…魚連ってウォーレン!?ウォーレン・ガットランド!?んじゃこのスコッドアナウンスメントって今年のブリティッシュアイリッシュ・ライオンズの選抜になぞらえてたりとか!?*2とひとりで興奮しました。でもって帰宅してから調べてみたら、暮雅(くれが)はグレガー・タウンゼント、丹射(にいる)はニール・ジェンキンズ、そして捨武(すてふ)はスティーブ・タンディとバッチリ今年のBILのコーチ陣の名前だったのでうひゃうひゃ言って喜んじゃった。ダンとイニが「誰よりも早く練習にきて誰よりも遅く帰る」とか、ご本人エピソードあざまーーす!ってなったし、いやはやもうすべての要素が俺得すぎたよ。

それ以外にも色んな要素がもちろん取り込まれてて、源和(みなもとのかず)はキング・カズをモチーフにしてるんだろうし、代わりに軒(キャプテン)に任命されたあらんうぃんはBILキャプテンのアラン・ウィン・ジョーンズさんだしで、これラグビーファンの人にも見てもらいたいわあ(笑)そういえば魚連が心を落ち着かせるために笛で奏でるのがワールド・イン・ユニオンだったし、んもう小ネタ拾いきれない!

最初はただ実力のみで選抜することを考えればよかったのに、権力者からの横槍、袖の下、上層部の顔色窺いと「今ナウ起こってることやんけ!!!」感がぐいぐいくるところ、まさに「今から古を見るのは、古から今を見るのと少しも変りはない」ことが言葉にせずとも立ち上がってくる、まさに醍醐味というやつだなと思いました。あそこで「実力がないからこそ袖の下を送ってくる、我々が選抜した者たちとは格が違います」とキッパリはねのけるの、胸がすきましたね。現実もそうあってほしいものだよ。

選抜会議といっても口角泡を飛ばすという感じではなく、粛々としつつ、突然深いこと言ったり急に夢の話を挟んできたりする面々の軽妙な会話、非常に心地よく楽しかったです。1時間45分の上演時間もすばらしき!よしなによしなに!

*1:ダン・カーターは一時期神戸製鋼に所属したオールブラックスのレジェンド。イニエスタは現在もヴィッセル神戸に在籍する言わずと知れたサッカーのレジェンド

*2:4年に1度結成される、イングランドスコットランドウェールズアイルランドから選抜される、いわばラグビー版ドリームチーム

「エターナルズ」

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MCU新作。監督は「ノマドランド」でアカデミー賞受賞したクロエ・ジャオ。当たり前だけれどそのはるか以前からオファーして新作撮影していたわけで、MCUのこのキャストよりもなによりも監督を青田買いしていく姿勢すごいなと思います。すでに功成り名を遂げた監督よりもマーベル側が作品のコントロール権を維持しやすいっていうのもありそうだけど、それにしてもこんなに正しいカードばかり選べるのはすごい。

MCUの今までの作品と世界観はもちろん共通してるんだけど、「続き」じゃなくてオリジンストーリーなので、ここからだけでも全く問題ないやつでした。というより、そもそも物語の設定が太古というか原始というか、そもそも宇宙は…みたいなところにあるので、ちょっとスケール感がちがう。地球をディヴィアンツという生物から守るためにセレスティアルズ(という、すごく大きい創造主みたいなやつ)(雑な説明)に派遣されてきた10人のエターナルズたち。彼らにはそれぞれ異なった能力が与えられており、ディヴィアンツを滅ぼしたあともそれぞれが地球を見守っていたが、それには違う目的があった…という筋書き。

私は自分のことを根っからの「物語好き」だと思ってるんだけど、その素地は子どものころからいろんな神話にまつわる物語を読むのが本当に大好きで、山室静さんのギリシア神話北欧神話の本は表紙が擦れてボロボロになるほど読み込んでたところにあると思う。神話に出てくる神様たちが、これ以上ないくらい人間くさい(神様なんだけど)のが素晴らしいんですよね。だからこのエターナルズの10人が、これ以上ないくらい「人間くさい」のもムフフと嬉しくなっちゃったし、エターナルズのひとりであるスプライトが語った数々の物語が、今神話となって生き残ってる…みたいな描き方はむちゃくちゃツボでした。

そんなこんなで面白かったか面白くなかったかでいうと勿論面白かったし、違う能力の10人が何千年も時を超えて一つの任務を遂行するなんて、ちょっとサイボーグ009ぽくてそんなん大好物に決まってますやんかだし、10人もいるからこそのそれぞれの人間関係、力関係、その縺れ、みたいなのも俄然美味しくいただけちゃうのだが、しかし根っこのところでこの物語にぐっと引っ張られるものがあったかというと、ぬぬぬとなってしまった感じ。

自分でもその原因みたいなのがよくわかってなくて、スケール感がでかすぎてついていけなかったのか(地球が新セレスティアルの繭つって、ほんとにガヴァーーーと出てくるとか、その地球のコア的なそういうアレはなかったことに…?)、最終決戦前に両天秤にかけられるものがこれからの宇宙(新セレスティアルズ)と我々が愛した地球っていうのも、いや小を切り捨てて成り立つ大義などないみたいな理論はもちろんなるほどなんだけど、とはいえ天秤の片方の秤がでかすぎて飲み込みにくいっすわーーという部分があったりとか、あとやっぱりこれ、愛の物語っていうか、愛に帰結させたところがあるじゃないですか。セルシとイカリスがってだけじゃなくてさ。多分そこにスンとなっちゃったんじゃないかなってところはある。

エターナルズの面々はさすがに豪華キャスト揃い踏みなだけあって、全員文字通りキャラが立っててよかった。私のお気に入りはドルイグだよおおマッカリにだけちょう甘いっていうのがまたいい。マッカリもドルイグのその優しさを受け止めてるのがめっちゃいい。最終決戦でイカリスにキレるマッカリ最高にかっこいい。セナとギルガメッシュ共依存ぽい関係もよかった、マ・ドンソクさん輝いてたなー。セルシの元カレがリチャード・マッデンで今彼がキット・ハリントンなの、いや…男の趣味一貫しすぎ侍!!ってなりませんでしたかなりましたよね。イカリス、最終決戦でドルイグをボコるときに「もっと早くこうしておけばよかった!」みたいな怒りを見せるけど、「任務」に忠実たれという彼にはドルイグは理解できない存在だったし、殴りてえ!と思ったことも一度や二度じゃないんだろうなっていう、ああいう葛藤が見えるシーンは燃えちゃいましたね。あと個人的に一番ぐっときたのはキンゴの付き人のカルーンさんの、あの別れの挨拶。あれは美しかったな。

ギリシア神話メソポタミア神話から元ネタをとっているのはもちろん原作コミックあっての話だけど、なんかこう、神話は著作権フリーだから!!みたいな姿勢がなきにしもあらずという気がしたり、神話といってもいろいろござんすなんだから、もっといろんな世界のいろんな神話を引っ張ってもいいのになあ~と思ったり、まあそれは原作ありきとすれば難しい話か。しかし、例えば日本にももちろん神話と言われるものはあって、こういう作品に素戔嗚とかが出てきたりすることがあったら、ワーイうちんとこの神話だぞ!と思うのか、それとも、いやなに勝手に使ってくれちゃってんの!?と思うのか、難しい話だなと思ったりして。

「最後の決闘裁判」

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リドリー・スコット監督。マット・デイモンベン・アフレックの幼なじみコンビが久々に共同脚本として名を連ね、ニコール・ホロフセナーも加えて3名が脚本を担当。予告編見て「苦手そう!スルーかな」と思い、上映時間の長さを聞いて「長い!スルーかな」と思っていたんですが、見た方の評判がいい、というか評が熱いというか、あと三者が三様の真実を語っていく藪の中スタイル(映画の羅生門見てないので…だってもとは藪の中じゃん!)っていうのが背中を押しました。押されました。

登場人物3名、カルージュ、ル・グリ、マルグリットの、それぞれの視点での出来事が描かれるということは、つまり3度同じ時系列を繰り返すことになるわけですが、この切り取り方と、何を見せて何を見せないかの選択がすさまじくうまくて、繰り返されることに一瞬たりとも倦んでる暇がないという構成のうまさに唸りました。そしていつ、どの瞬間を切り取ってもキマりにキマった画面であることが客の集中力を次につなげる。ハーア匠の仕事やねえ~~!!と感心してしまった。

ル・グリ視点での性暴力行為とマルグリット視点でのその埋め難い差、あの靴のところぞっとしたな。あんな風に見えるとしたらもうどうすりゃいいのよ。あと、あの部屋の中でテーブルを挟んで逃げるマルグリットを抱えて…のところ、第2幕の序盤にピエール伯との爛れた遊びの中でまったく同じことをやるじゃないですか。ル・グリにとってはあれと同じ、ということは、あの女の子ももしかしてマルグリットと同じなんじゃないかって思うわけです。あのシーン、彼女がこの遊びを受け入れているのか怯えているのか、絶妙に近接した表情を撮らずに見せててよけい怖かった。

カルージュの、自分という人間を大きく見せることしか考えていないふるまい、友人と口で言いながらその粗野なカルージュを蔑んでいるル・グリ、それを煽るピエール伯、粗野な男が手に入れた美しい「戦利品」を我が物にすること、がこの男たちの間に起こったことだけれど、その戦利品はものを見、考え、自分の足で歩くことを知っている人間で、その人間から見たこの空疎で振ればカラカラと乾いた音しかしない「男のメンツ」の行き着く先があの決闘だという、この皮肉。それはそれとして、決闘の描きっぷりの微に入り細にわたる感じもすごかったね。あのとどめの刺し方…すごかったね。

決闘シーンの群衆の描き方、あ~「研辰の討たれ」じゃん、と思ったな。仇討ちがなによりの娯楽だった時代の、人々のさあ討て、ヤレ討てのあの視線。ひとの命をかけたやりとりを見ることが間違いなく一種の娯楽だったのだろう。それらのすべてにただひたすらに冷めた視線を送るマルグリットの表情が強く心に残りました。

「狐晴明九尾狩」

新感線フルスペック新作!告知から初日までがやけにあっという間だったように感じてたんですけど、無事東京公演終えて大阪までようこそいらっしゃいました。特になんのねたばれも踏まずにマイ初日を迎えられてなによりでござる!

安倍晴明が活躍していたとされる平安の世を舞台に、異国から襲来してきた「九尾の狐」と安倍晴明が対峙するという、筋書としてはきわめてシンプル。脚本としてはそのど真ん中の背骨に、狸と狐の…ではなく、狐と狐の化かし合いを絡めて描いているので、中島かずきさんにしては物語の枝葉が少ないですよね。タオとランが枝葉と言えば枝葉ですが、大きくそれることはないので、このシンプルさがフルスペックであっても上演時間をギュッと濃密にできたポイントなのかなと。

晴明と、その竹馬の友というべき賀茂利風のふたりが、お互いを「読み」合う、という展開が積み重なるわけですが、その決着のつけ方が実にうまく、しかもちゃんと序盤に前振りを効かせてからの種明しとなるのが非常によかったです。総じて晴明と利風のストーリーラインは筆が乗ってるなー!という印象がありました。

拙者何を隠そう(隠してない)かつての同志が袂を分かって命のやりとりをするのが三度の飯より大好き侍ですからして、中盤以降の展開、なにもかも美味しくいただくでござる~!という感じでしたね。こうなってほしい!と思う方向に物語が転がる楽しさよ。愉快愉快。今際の際に一瞬利風の声を聴くのが、本当にそう見えててもいいし、そう思いたいという彼の心が見せたものでもいいし、いやーあれは何度でもしがめる。

しかし、中村倫也はうまいね。役柄的に殺陣の見せ場はもちろんだけど、呪を唱える声の押し出しの強さが求められるところだけど、彼、声を張っても滑舌が乱れないというか、張れば張るほど滑舌がいいというか、むちゃくちゃ聞き取りやすい。そのうえただ声を張る、というだけでなくて色合いをちゃんと使い分けてる。うめえのう…としみじみ感心しながら観ておりました。向井理も非常にイキイキと悪役を演じており、かつての友の顔を見せる場面では持ち前の清潔感が最大限に仕事をしていて良い配役だったと思います。ランとタオはかわいい&かわいい姉弟早乙女友貴の殺陣のうまさを特に何の意味付けもせず「ただやたらに腕が立つ」で片付けてたの最高でした。

浅利くんの一本気検非違使、殺陣で川原さんとガチでやり合いかつ一太刀入れる役という、めっちゃええとこもらってるやん…と思ったし、粟根さんがこれぞ粟根さん!という酷薄な役柄で末路もすさまじいのもポイント高かった。ちゃんと妖たちに序盤で「臭う」と言われているので腹に一物あるのは明かされているものの、想像を上回る腹黒さで、粟根さんの力量が輝いてらっしゃったなと。あと千葉さんの蘆屋道満もまさにナイスキャスティング!食えなさ感と同居する愛嬌、絶対腕が立ちますよねー!と思わせる佇まい、千葉さんが出てくるとちょっと安心するもんな~。

悪平太の役どころとか、中島さんの手癖だな~と思う部分もありつつも、ストーリーラインがぴしっと締まっているおかげで3時間一気に走り抜けたような感覚でよかったです。カーテンコールでは新感線本興行のどセンターに立つ倫也くんの姿に「立派になって…!」と勝手に親戚のおばちゃんの気持ちにもなってみたりして、楽しい観劇でした!