「バイオーム」

  • 東京建物ブリリアホール 1階E列31番
  • 作 上田久美子 演出 一色隆司

むちゃくちゃ豪華なキャストだけどリーディングか~、ということで「一旦見送り」にしていたんですが、もろもろ他の公演の遠征抱き合わせにちょうどいいかも、とチケット取ったら本命の公演が2つとも消えるという…コロナ禍あるある…そんなあるあるいやじゃ…。

拝見したのが千穐楽というのも関係あるのか、リーディング…?とは?みたいな顔になるぐらいほぼほぼリーディングじゃなかったですね。普通にストレートプレイでしたね。代々議員を輩出しているような世襲政治家の巨大な邸宅、その庭の一隅にある小さな森、黒松、セコイア、ばら、りんどう…。「ずっとそこにいる」植物たちの視点と、因業因縁渦巻く人間たちの視点が重なり、役者はその双方を演じるという趣向。

物語の印象として、「偉大な政治家の父をもった心弱い子ども」を描いた「パードレ・ノーストロ」をまず思い出しました。それから吉野朔美さんの「カプートの別荘においで」もかな。「パードレ・ノーストロ」も実際には会うことのなかったローズマリーケネディの姉)とアルド(トリアッティの息子)が天国の門のまえで語り合う芝居なので、ルイとケイが語り合うこの芝居と構造も非常によく似ていると言える。

出のシーンでキャストがそれぞれ植物として語る場面では譜面台のようなものに台本が置かれていましたが、終盤になるにつれ誰もホンを持っていない状態のまま進行してましたね。それで面白いなと思ったのは、演劇ってやっぱり見立ての芸術だなってところでもあるんだけど、観客は演者が舞台のうえで台本を手にしていても、「そういう趣向」としていったん飲み込むとそこに違和感を感じないように脳の回路ができあがるんだなってこと。変な話、台本を持たずに台詞を間違える役者と、台本を持ったまま流ちょうに台詞を言っている役者がいたら、前者を「不自然」と処理するというか。岩井秀人さんがハイバイの公演かなにかで、急遽代役で出るときに台本を持ったままやらせる、という手段をとったことがありましたが、あれはかなり観客の心理を読んだ選択肢だったんだなあと。

終盤に一家を襲う悲劇と言うか、今までのため込んだ因縁の爆発というか、ファーストシーンでのルイと黒松のやりとりを思えば運命は見えているんだけど、あそこで盆栽となった小さな黒松が「助けたいと思うなんて」という台詞がすごくよかったのもあり、どうにかならないか、と思いながら見てしまった自分がいます。まあしかし、どうにもならなかった。上田久美子さんさすがに容赦ない。そういう一見美しい自己犠牲によってコーティングさせてしまうのはちがうでしょ、と言われている気持ちになったし、よくよく見ればチラシにも「一つも美しくない物語」と書かれていて、あ、はい、すいませんとうなだれる我。

個人的にはセコイアの上からの景色とか、あそこまで具体的に見せてくれなくても良いのよ、というのは思ったかな。実際に見せられちゃうと、人間あれ以上のものを見ることはできないけど、見せないことで何倍もすごい景色を脳内に描き出すことができるのが演劇の特権でもあるわけでね。

本読みのような部分と本意気のぶつかり合いをいったりきたりするぶん、役者は大変だろうなーという気がしましたが、まあ揃いも揃って演劇偏差値が高い人しかいないので、どの場面もクオリティ高く仕上がっていてさすがでした。麻実れいさま、もはや麻実れいしか勝たん、と言いたくなるほどの圧巻ぶり。モノローグでもダイアローグでも他を圧するあの空気、台詞の聞き取りやすさ、立ち居振る舞いの美しさ堂々ぶり。まさに舞台の芯たる役者とは!こう!という感じでしたね。いやキャストは本当に全員よかった。歌のうまいキャストが揃っていたのも何気に効果的だった。今回の勘九郎さんはかわいい系勘九郎さんだったのでうむうむかわいいかわいい、と愛でつつ成河さんのエロ電話(言い方)にニヤニヤしてしまった私です。成河さんいつ見てもしどころしかない役やってて本当にすごいしちょっとうらやましいぞ。

そういえば初ブリリアでした。席もよかったので噂の劇場座席ガチャ試練は感じられず。しかし池袋がいつの間にか劇場大密集地になってて隔世の感だよ。劇場と映画館を今一番効率よく回れるのは池袋では?

「トップガン マーヴェリック」感想その1~ネタバレなし編~


オリジナル、無印トップガンの公開が1986年だから、もう36年前になりますか。本当なら2020年夏の公開のはずだった。しかしそこに襲い掛かるコロナウイルスパンデミック、ありとあらゆる劇場が閉鎖になりブロックバスタームービーが軒並み公開延期か配信へ切り替えになり…。トップガンマーヴェリックも、当初2020年夏の予定が冬になり、翌2021年夏になり、さらに冬に再延期され、そしてまた再度2022年夏に延期…。この間に劇場公開に踏み切るか、それとも配信で製作費をペイさせるか、いろんな選択肢があったと思うけれど、トム・クルーズは劇場での公開のみを選び、しかも観客が映画館に安心して戻ってこれるようになるまで待った。

そもそも、オリジナルのトップガンというのは、私は直撃ど真ん中世代でもあって、いやマジで本当に売れていた。社会現象といって差し支えなかった。何しろこの映画を見に行かない(当時は)私が観に行ったほどなのである。そして映画の興行収入はもちろんだが、なによりサウンドトラックが売れに売れた。私と同世代であのトップガンアンセム、お馴染みのテーマ曲を耳にしたことがない人はいないのではないか。デンジャーゾーン、愛は吐息のように、mighty wings…。思えば、あの頃のブロックバスタームービーにはこうした「ヒット曲のMTV」みたいな側面が少なからずあった。フットルースしかり、ゴーストバスターズしかり。トップガントム・クルーズを一躍スターダムに押し上げ、海軍パイロットのファッションを流行らせ、街中どこでもあのサントラが流れているというような、そうしたアイコニックな映画であったことは間違いないし、もっと言えば「時代と寝た」映画だったから、今改めてオリジナルのトップガンを見た時に古さや受け入れられなさが先に立つひとも沢山いるだろうなとも思う。

柳の下の泥鰌は二匹どころか5匹6匹当たり前、というハリウッドにあって、しかしトップガンはここまで続編が作られてこなかった。あそこまで売れに売れた映画だから、もし続編が作られていたなら今頃「トップガンⅤ~新たなる旅立ち~」とかできてても全然おかしくない。しかしとむくる先輩はそれを良しとしなかったのである。逆にいうと、ここまで作らないでいて、今あえてトップガンの続編?と思った人も少なからずいたのではないだろうか。もはやオリジナルトップガンを劇場で見たことない人達が増えている今あえて、なぜ?

実は私はこの続編のニュースを聞いたときから完成を心待ちにしていたひとりであった。それはもちろんオリジナル直撃世代ということもあるし、なにより今のアップデートされたトム・クルーズがあの80年代ハリウッドムービーの煮凝りみたいなトップガンをどう生まれ変わらせるのか、というところにものすごく期待していたからでもある。

最近のトム・クルーズの主演映画を見ているひとには何をいまさらではあるが、とむくる先輩は映画の中における女性の描き方や関係性、主人公(自分)の押し出し方において、実に見事に紋切り型から脱却してるよな、と新作を見るたびに感心しているのです。ジャック・リーチャーのシリーズ(アウトロー、ネバーゴーバック)とか特にそう。MIのシリーズでも、もちろん超人イーサンを主軸に据えてはいるんだけど、シリーズ1作目2作目と比べると如実に変化してる。でもって、それは多分とむくる先輩が「何が観客に受け入れられるか」「または受け入れられないか」ということにむちゃくちゃ高いアンテナを立てているからじゃないかと思うんですよ。同時に、無敵の主人公ではありつつも、加齢とともに実に巧妙に「負け」を取り込んで見せてきている。それがあのトップガンでどうなるのか?という興味。

37年ぶりの新作、コロナ禍による2年の延期に加え、こうした期待値をもって初日の映画館に駆けつけたわたし。試写での感触などは上々の雰囲気だったので、すごく期待していたし、いやーでもぜんぜんアレだったらこれだけ待った分きちいな!?とかも思いつつ。1作目の音楽はどの程度残してくるんだろう、まさかあのアンセムを出し惜しみするとかあるのかな…と思っていたところに。

パラマウントのロゴが出た瞬間に鳴り響くトップガン・アンセムの鐘。
惜しみねえ~~~~!!!
ぜんぜん出し惜しみする気がねえ~~~~~!!!
そこから立て続けにあのフォントで説明される「トップガン」の成り立ち、その組織の名は\ドーン!/で出てくるタイトル、うわまじでオープニングからオールドファンころしてくるじゃん…と思ったところでかかるデンジャーゾーン。
ありがとうございます。
もうこれだけで5億点でございます。
しかしあの発艦シーンの演出・編集のすばらしさ。現時点で都合4回鑑賞したんだけど、4回とも「これが1時間続くんでもいいけどな」と思わせるかっこよさじゃないですか。ジョセフ・コシンスキー監督がオープニングの構成について「我々も皆さんと同じようにトップガンが大好きだ。信用してくれてよい」と伝えるため、とインタビューで語っていらっしゃるが、完全に奏功しているのよ監督!好き!

観終わった後、最高に面白かった、こんなに待ちに待った映画がこんなに最高に面白くて最高だ、これを劇場でかけることにこだわり続けてくれて本当にありがとうトム・クルーズ…!と大袈裟じゃなく祈る気持ちになったし、売れてくれ~~~!!客いっぱい入ってくれ~~~!!とも思ったし、また見たいなって思ったし、とにかく、映画を見る楽しみ、が結晶のように美しく輝いている時間だったんですよね。そんで、人生においてそういう瞬間って、そう何度も訪れるものじゃないんですよね。それはオリジナルトップガンを見た10代の頃にはわからなかったことでもあるんですよ。

映画の冒頭で、マッハ10の限界に挑んだトム・クルーズ…いや、マーヴェリックに、エド・ハリス演じるケイン少将がこう投げかける。戦闘機はいずれ君らを必要としなくなる。寝て食って排泄する、そして命令に違反するコスパの悪い人間はお払い箱になり、無人機の時代がやってくる、と。マーヴェリックはこう返す。だとしても、それは今日ではありません。

コロナ禍により、映画の世界にもストリーミング全盛といっていい時代がやってきた。雨後の筍のように乱立するサブスクに、毎週更新される新作の数々。劇場公開を予定していた数多の映画も、苦し紛れの配信と劇場同時公開だったり、配信オンリーに切り替えたり、劇場公開しても45日後には配信でリリースされる契約だったりとその両立に四苦八苦している。今までは興行収入が上がれば上がるほど契約によってボーナスが与えられたが、サブスクにおいてはそんな話は起こりっこない。映画という産業も、配信にとって代わられ、いずれ映画館そのものを必要としなくなる。

だとしても、それは今日ではありません。

2年間公開が延期されたことによって、タイミングが合ってしまったというか、この映画にはまるで滅びゆく巨大な映画産業をマーヴェリックの形を借りてまだ死なない、と語っているようなサブテキストを読みたくなってしまう力がある。もちろん、撮影された当時はまだコロナ禍前だったわけだから、これは現在の状況と観客の文法で勝手に読んでいるに過ぎないわけだけど。

2020年の夏、本来ならトップガンマーヴェリックが公開されるはずだった夏、トム・クルーズが制作映画会社も違えば自分が何ひとつかかわっていないクリストファー・ノーランの「TENET」を映画館に観に行く動画をわざわざアップして、映画館のすばらしさを讃えていたことを思い出す。配信を拒否したノーランへのエールだったんだろうなあとおもう。そこから2年、よくぞここまで、とおもう。どうして折れずにいられたのか、とおもう。その賭けに彼はこれ以上ないくらい完ぺきな形で勝った。映画は評判を呼び、映画館に観客が戻ってきた。スクリーンで観たい映画だよね、と皆が口々に讃える。興行収入は上昇を続け、トム・クルーズのキャリアハイを更新している。

どんな映画?と聞かれたら、何よりも、映画館で映画を見るって最高に面白いな!って思わせてくれる映画だよって私は言うと思う。この娯楽がいつかは時代の波に飲まれるとしても、でも、まだ、今日じゃない。今日はまだ、トップガンマーヴェリックが、映画館で観られる日なんだから。

「メリー・ポピンズ」

自分の守備範囲外に位置付けていたので初演も見てないしチケットも取ってなかったんですけど、観劇仲間のこのツイート


見て、「いのちの…かがやき…」ってうわごと言いながら気がついたら手がホリプロチケットのページ開いてポチっとやっちゃってました。
なんだろう、たぶん疲れすぎて思考する能力がゼロになってたんでしょうね。でもある意味本能的に「これは見ておけということではないか」というシグナルが鳴ったということでもあって、そして往々にしてこういう場合の予感は外れない。シアターゴアーの本能ナメたらアカン。
いやー素晴らしかったです。
こんなにも「素晴らしい」の言い甲斐のある舞台もそうそうない。なにしろ出てくるものすべてがハイクオリティ。演者はもとより、舞台美術、照明、演出、この2時間半の間、我々はあなた(観客)に夢の世界を、日常から飛翔した世界をお見せします、という気概に満ち溢れているのだから、ここまでくると自分の観劇の趣味嗜好とかもはや超えて圧倒されるほかない。

メリーポピンズの物語自体は、私はかの有名なジュリー・アンドリュースの映画ではなくて(最初に見たのは映画だったと思うけど)、小説版のほうに圧倒的に馴染みがあります。むちゃくちゃ好きだった。ぜんぜん優しくなくてズケズケものを言う、でも読んでいたら好きにならずにいられないメアリー・ポピンズに夢中になりましたね。ロンドンには「シティ」って場所があるんだなとかね、街の描写とかそういうのもふくめて、なんというか自分にとっての原体験に近い愛読書です。

今回の舞台版のメリー・ポピンズのキャラクターがまず、映画版と小説版の真ん中というか、小説版の佇まいを彷彿とさせるところがあったのがすっごくよかった。あのキリっとした背筋の伸びた立ち姿、言いたいことずんずん言っちゃうとこ!もちろん、あの鞄からどんどんいろんなものが出てくるところも、そうそう~!それそれ~!という楽しさ満載。映画版が好きでも、小説版が好きでも「自分の知ってる、自分の好きな」メリー・ポピンズに会えた!という喜びがあるんじゃないかなと思いました。

楽曲の良さはむろん折り紙つきで、それを実力派キャストでこれでもか!と観られる、いやマジで何度も言うけど趣味嗜好抜きにひれ伏すほかない。圧倒されます。スーパーカリフラジリスティックエクスピアリドーシャス、あの歌!ダンス!あれで高揚しないでいられる人おる!?いやむり!!!高揚しすぎてなんかもう、わりと最後の方だばだば涙をこぼしながら見ていた私ですよ。

濱田めぐみさんと山路和弘さんの回を見たいなって思って、ちょうど行けそうなのが平日しかなくて、いやもうちょっと仕事は詰むかもしれんけどこういうことを楽しみたいために働いとるんじゃー!つって強行突破して、その期待に舞台が満額回答くれたときのこの喜びを俺は何にたとえよう、そんな気分にもなろうってもんです。濱めぐさま…本当に最高だった…山路さんの可愛げも炸裂してた…ほんとに「魂のガソリン満タン入りました~!」みたいな充足感がね、観劇後の私を包んでいましたよ。こういう夜のために生きているのよ。

おすすめしてくださったお友達に大大大感謝だし(しかもすごく良い席で観られた~)、しばらく大型ミュージカルは積極的に控えていた(消極的と言え)けれど、出会いがあったらためらったらいかんし、ほんとシアターゴアーの「これは!」な勘は貫きとおすべきだなと改めて思いました。ほんっとに最高だったーーー!!ありがとうメリーポピンズーーー!!ありがとうキャスト・スタッフのみなさ~~~ん!!!!

「ドクター・ストレンジ/マルチバース・オブ・マッドネス」


ストレンジ先生2作目!監督はサム・ライミ。公開前に監督インタビューで「けっこうちゃんとホラーに作ったから怖がられないかしんぱい」的なことを仰っていたので、ホラー苦手な私は若干ビビりながらの鑑賞でしたけど、結果「あっ、こういうのなら大丈夫!」と最後まで満喫させていただけましたよ。

私はディズニープラスのドラマシリーズも追ってはいるので、「ワンダ&ヴィジョン」も「What If…?」も視聴済みなんですが、「ワンダ&ヴィジョン」はまさにドラマエンドからそのままつながるという感じで、これドラマ追ってない人にはどうとらえられるんだろと若干不安にもなりつつ。とはいえ今回監督色の際立った作品にしたことが奏功して、一本の映画としてはMCUファンムービー的な色合い薄めではあったと思う。

ストレンジはマルチバースの世界で、守っていた少女の信頼を裏切りそのパワーを奪うことで「大義」を叶えようとするが、返り打ちにあって死亡する…という夢を見る。かつての恋人の結婚式に参列し、自分の中にある彼女への未練とうまく向きあうことのできないストレンジだが、そこに夢の中だったはずの少女と怪物が現れて…というのが物語の発端。

この結婚式でストレンジが言われる「自分でメスを握らないと気が済まない」という言葉は割とこの映画の大きな背骨で、すごくざっくりくくるとこれはストレンジがいかにそこから脱却するか、という話でもあるなあと思った。フェーズ4では「マルチバース」が大きなキー項目になり(これまではインフィニティストーンがキー項目だった)、ますますストレンジの役割が大きくなるけど、これを見越して(?)カンバーバッチをストレンジに選んだファイギはほんと見る目がありすぎる。

予告でも出ていたワンダとストレンジの会話から一気にワンダの計画が暴かれていくところ、そうきたか~~~ってなったし、今までの作品では常に「迷う」立ち位置に置かれ続けていた彼女が、ここにきてとうとう「迷わない」思いを手に入れて、ただその方向性はいろんなものを捻じ曲げてしまうものだったというのがなんともつらい。しかし、迷わないワンダはこんなにも敵なしなのか…!ともなったね。思えば最初に家族を奪われ弟と生きてきたのにその弟も奪われ、愛する人を世界のために手にかけ、やっと得た(と信じた)幸福も砂上の楼閣のように消える…って確かにこう並べるだけでもハードモードすぎる。闇落ちと安易に言いたくない気持ちにもなろうってもんです。

敵が強大かつ容赦がないので、そういう意味でも過去作に関係なくストーリーラインを楽しめた感ありますね。アクションのアイデアも豊富で、個人的にあの音符のところむちゃくちゃ好きだったし、ドリームウォークを「どの世界のストレンジにやらせるか?」ってなってから出てくるアイデアがまさに監督の真骨頂って感じだった。あのラストバトル、クライマックスを主演にあの恰好でやらせるの、これが監督カラーでなくてなんのかという感じ。憑りついてくる悪霊どもを従えてマントにしちゃうところとか、なんかむしょうに滾ってしまったじゃないか。

そうそう、イルミナティのシーンは「うおー!(雄叫び)」と「うわぁ…(ドン引き)」が交互に訪れるツートンカラーの縞模様の波という感じでした。キャプテンの名セリフが出て歓喜したし、チャールズが出たのもそりゃもちろんプロフェッサーー!!ってなったんだけど、あんな…あんな最期…ううう…いやまあそれだけワンダ最強だからしょうがないかもなんだけど…しかしその人を使っておいてその仕打ち…とか思っちゃう私…。

これまでの自分の人生はもちろん、世界の趨勢が決まる状況でも、「最後の決断」を自分がしてきたストレンジ。それはものすごい重圧でもあるけれど、裏返せば自分の運命を他者に委ねられない、ということでもあった。けれどあのワンダとの対決の中で、アメリカ・チャベスからそのパワーを奪うことをせず、自らの運命を託す。彼がそういう選択を最後にとる、ということが、ちゃんと一本の映画の中で描かれているところ、観客がそれを信じられるところがこの映画でいちばんよかったところでした。最後にね、ウォンに一礼するのもいい。ソーサラースプリームへの敬意ある礼。ウォンは今作とにかく最高だったなーー、ストレンジ先生とのバディ感めっちゃいいよね。

これでワンダは退場してしまうのかな。あのチャールズが読み取った、閉じ込められたワンダのシーン切なかったな。あのすべてをコントロールする驚異のパワーを手に、迷いのない彼女が還ってくる姿をまた見たい気持ちもあるけども。でもって、ストレンジに最後話しかけた女性は何!?シャーリーズ・セロンだよね!?彼女もMCU参戦なの!?はーあまだまだお楽しみが続きますなMCU

「カモン カモン」


マイク・ミルズ監督、ホアキン・フェニックス主演。またモノクロ!「ベルファスト」の感想でも書いたけどモノクロに苦手意識があるんです私!でも予告編がむちゃくちゃ魅力的だったのでこれは見たいなと思い足を運んできました。

ラジオ局に勤めるジャーナリストのジョニーは子どもたちに対して今の自分や両親のこと、自分の、世界の将来について集中的にインタビューする企画を手掛けている。母の命日にふと思い立って妹のヴィヴに電話をすると、彼女の夫がトラブルを抱えており、一人息子のジェシーを預かってもらえないかと打診される。

しみじみと良い映画だったし、何が一番印象に残ったかって「人との距離感」ということについてすごく丁寧に丁寧に描写されていたところなんですよね。ジョニーとヴィヴは晩年の母の介護を巡って確執があったことが描写されていて、かつそれ以外にも兄妹の距離を遠ざける要因があったこともわかるんですが、でもなんつーか…血のつながりがあるからってそこを言い訳にするんじゃなく、一歩一歩確かめてお互いの今の距離を測ろうとする。あの最後のね、電話のところ、リアルだったし、胸に深く残るものがありました。

ジョニーとジェニーの関係性もまさにそうで、面倒見る側と見られる側、大人と子供、のステレオタイプな距離感に落とし込まず、探り探りお互いがお互いの距離をはかるようなエピソードを丁寧に積み上げていたなあと思います。ジョニーが教本のとおりにジェニーに謝罪するところ、素晴らしかったですよね。あそこでジェニーが「ぼくもおとうさんみたいになるのかな?」って自分の生存の不安みたいなものをこぼすのも、ここでようやく信頼関係が構築されたんだなという感じがしてとてもよかった。

眠る前のリラックス(足を休めて、手を休めて…っていうアレ)、すごくよさそうだった。ああいう睡眠導入音声あってもいいとおもうぐらい。

何を隠そう、私は「手紙」というアイテムのもつ一種独特の切なさが大の好物なんですけど、本作では文字ではなく「音」がその役割を果たすの、うまい~~と思ったし、こういうのに弱いんやおれは~~ともなった。ジョニーがきみはこの日々のことをおぼえていられなくなるだろう、でも僕は忘れない、というとこもむちゃくちゃぐっときまくった。

差し挟まれる子どもたちへのインタビューのリアリティも相俟って、どこかドキュメンタリのような手触りのする映画だったなと思います。ホアキン・フェニックスはこういう役の方が個人的にはツボ。良き映画でした!

「広島ジャンゴ」

先に観劇した友人らの「きつい」「しんどい」評に、そ、そうなの?どうやら思てたんと違うらしい…とおっかなびっくり見てきました。先に心構えができててよかった。確かにしんどい。確かにマッドマックス。いや主演天海さんで鈴木亮平が馬でって言われたらそこにおポンチの香りをかぎとってもしょうがないと思うのよ。でも蓬莱さんだからね!そういう方向にいくわけなかったね!

最初に描かれる「現実」のシーンのしんどさ、そのえぐみがあまりにも濃く、「これ2時間ずっとだったらマジで心折れる」と暗澹たる気持ちになるほど。最悪な意味での「家族のような職場」、休日にクソみたいな上司につきあわされ、野球の話を振られ…あああいやだ。マジであの職場、秒でやめる。

その職場で上司の腰巾着というか米つきバッタといおうか、とにかく事なかれ主義を絵に描いたような鈴木亮平演じる木村は、勧善懲悪ものの西部劇を繰り返し観ることで心のバランスを保っているが、ある日目覚めるとその西部劇の世界に入り込んでいて、しかも自分は馬だった!という筋書き。

自分は馬だった!というのは、あの世界での無力感を描く(現実での無力さと繋がってる)ための装置なんだけど、こちとら新感線で産湯を使っている人間なので、「ヒトが馬…おもろいに決まってるやん!」みたいな、オモロ装置としてとらえちゃうところに超えられない壁があったという感じか。

西部劇世界においては町長が町民の生命線であるところの「水」を抑えて暴利の限りを尽くすという、お前はどこのイモ―タン・ジョーだよという感じだし、その町長の舌先三寸に言いくるめられる民衆のしんどさも容赦ないのだが、しかし蓬莱さんの筆はやっぱり現実世界の「しんどさ」の方により細かく書き込みされているという感じなんですよね。木村の姉が出てくる場面、あの「20分の昼休み」の描写はまさに蓬莱さんの真骨頂というほかなく、この場面があるから西部劇世界でのディカプリオの大暴れにつながり、それがさらに現実世界での、絶対的なボスへの反抗につながるという。

20分の昼休みすら持つことのできなかった自分の姉との対話を経て、今自分の目の前にある「そうなるかもしれないし、そうじゃないかもしれない」人との対話につなげていくところはさすがだなという感じ。

逆に言うと西部劇世界はそれとは真逆のはっちゃけぶりがあってもよかったなと思う。もう少しケレン味多めでお願いしますー!と言いたくなるのは、芯に天海祐希を持ってきているメリットをもっと活かそうぜえ!!というシアターゴアー心ですね。

天海さんは何をやらせても声の良さが際立つというか、カッコよくキメようとしなくてももう、存在から匂い立つカッコよさがすごい。最初のシーンで必死にオーラ消してますけどもれてますよ感あった。鈴木亮平さんももちろんよかったが、役者のタイプ的にはこういう無力感にのたうちまわる役よりも、それこそ暴君タイプの方で見てみたかった気も。池津さんも宮下さんも声の存在感が群を抜いていてさすがでした。

「愛に関するいくつかの断片」五反田団

  • アトリエヘリコプター 全席自由
  • 作・演出 前田司郎

一昨年拝見した五反田団の「いきしたい」が素晴らしかったので、今回の新作も是非拝見したいなと思い足を運んできました。アトリエヘリコプターちょう久しぶり。観劇後にツイッターで検索するまで、劇場で客入れをされていた方が歌人枡野浩一さんだと知らなくてビックリしました。2020年に上演予定だった作品がコロナ禍で中止(前田さん曰く、『稽古2日目に自分が発熱し、もうダメだと思った』)、今回満を持しての上演とのこと。

男女の関係を巡るやりとり、対話がベースですが、これが相手も場所もシームレスに展開していくのがすごく演劇的でよかった。「愛」というひとりの人物をめぐる描写と、「愛」という形にないものを語る描写が絶妙に交錯したりしなかったりしながら会話は続いていく。終盤はまさにその「愛」のゆくえをめぐっての駆け引きめいたサスペンス風味もあり、90分間があっという間。

俺はまだ愛を知らないから、愛を殺したの?全部、愛のせいにしたんですね…。「いきしたい」でもそうだったけど、ひとつの言葉がふたつのことを指しているように聞こえたり、それがまたひとつのものに収束したりというその押し引きの巧みさがすごい。こういうの、ただダブルミーニングを匂わせるだけでは観客の集中力が持ってかれるだけだと思うんだけど、興味を惹いたまま話はぐいぐい推進させ、これは、今のは、と観客がさっとそのものに触れる感触だけはしっかり与えてくれるという、プロの仕事やわあ…と感心しきり。これは上演台本読みたくなっちゃうやつですね。

中盤ぐらいで外の天気が豪雨となり、その雨の音がもろに会場に響いていたんだけど、これがまた絶妙な効果音というか。憲治が森田の家を訪ねた時の「雨だぜ」という台詞はアドリブだったのだろうか。

加奈を演じた鮎川桃果さんの佇まいというか、表情、しぐさ、すべてが「いる…」「知ってる…」というほどに実在感がすごく、マジで喫茶店で隣り合わせたOLの会話を小耳に挟んでいるようなリアルさがあったなー。夏子の「幸せになってほしいだけ」と言いながらすべての「愛」を否定するかのように、ものごとが壊れるように動いてしまうさまも、底知れなさと同時になんともリアルで印象に残りました。憲治と加奈が沈黙の我慢比べをする場面とかも、なんかこうすべてが「あるわ」「いるわ」の連打で、でもぜんぜん陳腐なやりとりになってない。会話の見せ方が終始工夫されててそこで笑いが出ることも多く、満席の劇場の雰囲気、降りしきる雨の音も相俟って豊かな観劇、豊かな時間だったなーと思います。