「世界は笑う」

ケラさん×コクーン新作。上演時間が出た時に「4時間キタ…」とがっくりきていたのですが、長い芝居がきらいと言いながらどうして毎回足を運んでしまうのか!しょうがないじゃない面白いんだから!

「もはや戦後ではない」と言われた、高度成長期の東京で笑いを生業にしていた人間たちを描く群像劇。いつもながらキャストがすみずみまで豪華!そして例によってキャストをちゃんと覚えないで見に行っているので、オープニングのキャスト紹介、かっこいいと同時に助かる!

京都公演の初日で、ちょっと客席の雰囲気もふくめいつもより固めだったかなーという印象はありました。もっとウケていいのになと思う場面も結構あったり。でも不思議なものでウケが大きい=観客の満足にはならないのが面白いところ。最初に書いた通り休憩時間含め約4時間、1幕125分、2幕80分という尺ながら、ただ、ただ、登場人物たちの会話だけでこの長さをぐいぐい引っ張る。すごいのは、見ている間「ぐいぐい引っ張られてる」という意識すらないのに時間が経ってる。どういう魔法だ。個人的に今回は舞台そのもののドラマもさりながら、一見淡々と進んでいくのに客を掴んで離さないその作劇術に改めて感動したところが大きい。

舞台は大きく分けて4場で構成され、最後はほぼエピローグなので、それぞれが1時間弱の長さがある計算になるんだけど、どの場もキャストの出入りが激しく(どの場面にもおそらく全員の出ハケがある)、1場1時間ひたすら会話会話会話なのに、視点がフラフラせず集中して見ていられるのマジですげえなって思います。

印象に残った場面は、トーキーさんとネジ子ちゃんが、地方公演の定宿の旅館で、思い出に浸るところ。正確には思い出に浸っているのはネジ子ちゃんなんだけど、あそこで旅館の職員に「いちばんおもしろかった」と言われたひと言の思い出が、あの掛け軸に直結してるんだろうなと思えたし、あのあとふたりは何度もこの話をしたんだろうなと思った。本当にひとは「一瞬のハッピーがあればまた走れる」、あのYAZAWAもそう言っています。

そしてその一瞬のハッピーこそがヒロポンよりもひとを中毒にさせるのかなとも。ヒロポンはやめられても、笑いはやめられない。

あと是也がイワシと笑いの話をするところ。「こうしてただそこにあるってことが本当はいちばんおかしい」。あの明石家さんまさんが西加奈子さんと番組での対談で「お笑いはつきつめればひとつ、そこまでいったらあまり考えないようにしてる、考え過ぎたら死んでしまう」と言っていた話を思い出した。あの思いをわかるよってイワシに肯定されたことは、是也の救いになったんだろうか。そののちも、書き続けるための「一瞬のハッピー」になったんだろうか、なんてことを考えてしまったな。

そういえば途中に「人間の死亡率100%」って台詞があって、カラフルメリィでオハヨだー!とちょっとうれしくなっちゃいました。

デリカシーのない男をやらせたら天下一品の温水さん、銀粉蝶さんのかっこよさ(だからこそ最後の変容が切ない)、緒川たまきさんは今回みたいにどこか突き抜けた明るさのある役やらせると本当に輝くよねー!もう大好き!と思いながら見てました。松雪さんは薄幸の美女似合いすぎるね。瀬戸康史千葉雄大の兄弟はなんかもう途中、「あ、あざとい…!」って思いましたけど(どの場面か言わなくてもわかるよな!キャラメルだよ!)(言ってる)、瀬戸くんの舞台での自由度の高さがすごく活きてて、いいコンビだったなーと思います。

あとやっぱりね、イヌコさん大倉くん廣川さんの仕事師ぶりというか、さすがよね…と思う場面沢山あったなー。大倉くんの今回のカッコよさis何!?聞いてませんけど!?って思うほどカッコよさに全振りしてて盆と正月だった。目が。

出てくるキャスト全員がうまくてきっちり仕事を果たし、そのキャストの演技を支えるスタッフワークも相変わらずすばらしい。戯曲と演出が一級品なのはもう散々言及したので言いません。4時間の舞台だったけど、なにか大泣きするとか、大興奮大感動したとかいうのではないんだけど、4時間の間に最近忙殺されてしんでた情緒がもりもりと甦ってくるのを実感して、豊かな時間ってこういうことだよなと思えた観劇でした。

「八月納涼歌舞伎 第二部」

安政奇聞佃夜嵐」。初めて見る演目です。幸四郎さんの青木貞次郎に勘九郎さんの神谷玄蔵という配役…の筈でしたが、こちらもコロナの影響で幸四郎さんの代役になんと!猿之助さんが立たれるということに。この代役は結果的に私の観た21日と、前日20日の2回のみということになり、ある意味貴重なものを観たといってもいいかも。

佃島の人足寄場に罪人として追放されている青木と神谷は、さらなる悪事の露見をおそれて島抜けを決行するが、実は青木が長年探している親の仇というのは実は神谷だった…という筋書き。

猿之助さん勘九郎さんの、いかにも世慣れたワルぶりを全編にわたって堪能でき、かつ島抜けの場面ではなんともユーモラスなドタバタ風もあり、クライマックスでは大立ち回りありとものすごくファンにとってありがたみのある演目でしたね。単純に見ていて楽しいやつ。私は勘九郎さんは絵にかいたような好青年よりも、こうしたあくどい役の方がツボなので、いやー無事に観られてよかった、ありがとうごぜえます…と拝む気持ち。

中1日で主役の代役を務める猿之助さん、2列目のどセンで見ていましたがプロンプまったく必要としてなかったですね。台詞に詰まるような場面もほぼなかったのでは。しかし、台詞もそうだが、最後のあの手数の多い立ち回りをビシッと決めてるのがおそろしすぎた。単に神谷とやり合うだけならともかく、捕手が入って三つ巴の立ち回りなので、相当複雑だろうと思うけど、本役としか思えない完成度。

これも、幸四郎さんの青木だと結構温度感の違う感じになっていただろうなというか、もっとエモに寄っただろうという気がしましたね、特に義兵衛、おさよとの場面とか。幸四郎さんって、独特のエモさがある人で、そのエモを媒介にしてパワーを生み出すところがあるけど、猿之助さんはまず爆発的なパワーがあって、そのパワーの強大さにエモさを感じてしまうというような、大きな芝居をするときでも違う方法論のあるおふたりという気がします。そういう意味でも幸四郎さんの青木も観てみたかったなぁ~。

おさよの米吉さん、義兵衛の彌十郎さんともによかった。三つ巴の立ち回りのあと青木と神谷がともに捕らえられて縄につき、その状態で悪態つきながら花道をはけていくっていうのも斬新。青木に仇…討たせねえんだ!っていう。笛吹川の雪の中での渡し船っていうのもすごく風情のある場面で、印象に残りました。

浮世風呂」。猿之助さんと團子くんの舞踊、のはずでしたがこちらも代役となり、笑野さんのなめくじと猿之助さんの三助。猿之助さん働きすぎィ!しかし、なめくじと三助の色模様って、マジで歌舞伎自由だな…って感を新たにします。猿之助さんらしい軽快で楽しい踊りで、愛嬌が活きるよなあ~と思いながら見ていました。

「八月納涼歌舞伎 第一部」

新選組」。手塚治虫原作漫画を新作歌舞伎にという試み。歌之助くん福之助くんを主役に据えて、勘九郎さんたちが脇で支える…という公演でしたが、新型コロナウイルス感染症の陽性者が出たということで一部公演中止、再開は代役でということになり、急遽七之助さんと勘九郎さんが主役コンビを演じることになるという。そしてその代役回にばっちり当たってしまう我。運がいいんだか悪いんだか。贔屓がたくさん観られるという意味ではラッキーでもあり、本役で見たかったなァという気持ちもあり。

歌舞伎はもとの型というか、基盤がしっかりしているから、漫画原作であっても漫画に寄せようとというよりエッセンスを取り入れよう、という形になるのが見やすく思える部分なのかなと。書き割りを手塚漫画のコマにしていたり、ところどころお遊びはあっても、原作も骨格がしっかりしているので歌舞伎との相性はかなり良いと感じた。お友達も書いていたけど、同じく基盤がしっかりしている宝塚もこれは作品として持っていけそう。

親の仇を追ううちに自分も仇として追われる身になりその連鎖の空しさを知る丘十郎を七之助さんが熱演。勘九郎さんの大作は正直むちゃくちゃ御馳走でしたね。陽のキャラでありながら後ろ暗さがどこかにあり、剣の腕がめっぽう立つ…ハイありがとうございます!!!という感じ。あの丘十郎と切り結ぶ前の構え、「おまえが蝦夷の族長で、おれが坂上家の男なら、こうなるしかないだろ」っていう私の萌えドンズバな台詞のシーンを思い出したし、かつての友が袂を分かって命のやりとりをするパターン大好き族こんなんなんぼあってもいいですからね科の人間としてはありがたく押し頂くしかないっていう。

とはいえ、主人公たちのいわゆる「青さ」は歌福コンビがまさにニンであったろうとも思えるし、何かの折にでも本役パターンも拝んでみたいものでございます。虎之介くんの沖田すごくよかったな。そうそう、七之助さんが扇雀さんのことを2度ばかし、思いっきり「近藤さん」と呼んでしまい、シリアスな場面だけにまぜっかえすこともできず、観客席にも一瞬大きく「?」の文字が浮かんでいたような。でもわかる!扇雀さん確かに近藤勇の風格あるよね(笑)

「闇梅百物語」。中村屋さん総出の楽しい舞踊劇。いろんな「お化け」が入れ替わり立ち代わり、見せ方の工夫もたくさんあって楽しめました。骸骨の手足がバラバラになるところ、古典的な手法だけどうまく見せるなあ~とか。でも勘九郎さん贔屓としては、もっと!ガッツリ!ゴッリゴリに!踊って頂いても差し支えないが!?と思ってしまうオタク心。

「ひとつオノレのツルハシで」

本当は歌舞伎座の三部のチケットを取っていたのですが、前日に中止が決定してしまい、マジか…代わりに何見る…(見ないって選択肢ないのか)と右往左往した結果、たまたま鈴木裕美さんがツイートされてるのを見つけて、作家の方存じ上げないけれど、裕美ねえなら間違いないか!ということで当日券で拝見してきました。

登場人物は3人、夏目漱石とその妻鏡子、そしてそこにやってくる一人の男。実は劇作上は「漱石」の名前ではないのですが、作品名はそのままなので、はっきりと漱石をモデルにしています。

脚本のくるみざわしんさんは精神科医でもあるということで、なるほどと膝を打つ思い。いわゆる小劇場ど真ん中な公演形態ながら、作品が落ち着いているというか、おれの言いたいことをとにかく言う、というものではなくて問いかけ(疑問)、その反応、解釈、というふうにベクトルが内へ向かっているのが面白いなと。漱石はなぜ「こころ」を書くに至ったのか?という心の動きを追おうとするっていうのはなかなかない着眼点ですよね。

第一幕ではいかにも世慣れた男として現れた常が、その後田中正造に感化され、足尾銅山の問題と向き合い、その田中正造を喪ったあとに漱石を訪ねてくるのが第二幕。ここでの常から漱石への問いかけというのは、実のところ作家(広く言えば芸術)はどれだけ社会とコミットすべきなのか、コミットしていない芸術に価値はあるのか、というような大きな命題で、「世間知らずのうらなりしか書かない」「一度谷中村に足を運んだらいい」と突きつけられるわけだけど、漱石がそこでうろたえず現実と自分が書くべきものの距離を見失っていないのがよかったな。

最後の加々見と常の対話もすばらしかった。「女のおまえにできるわけねえ」「女だからできるんです」。谷中村に戻れと諭す加々見に「おれに死ねって言ってるのか」「そうなるわね」と返すシーン、よかった。彼女もまた抑圧された者であって、だからこそ「ここもまた敵地」という正造の臨終の言葉を受け止めることが出来たんだろうなと思う。

ザムザ阿佐ヶ谷、お名前はかねがねという劇場ですが初めて来ました。最前列の端っこだったので、ちょっと舞台袖の効果をやる人が見切れちゃってたのもま、ご愛敬かなと。鈴木裕美さんの演出も手堅く、その中にもあのペンが動くところや最後の紫の炎など、おっ!っと思わせるワンダーを仕込んでくるのがさすが。90分の上演時間でなかなかに噛み応えのある作品、見て良かったです。

「坂東玉三郎 特別公演」

東海道四谷怪談」。南座東海道四谷怪談、玉さまのお岩さんが観られるということで出かけてきましたよっと。昨年9月に仁左玉コンビで拝見しましたけども、関西で玉三郎さまがお岩さんをおやりになるのは相当久しぶりとのこと。今回の伊右衛門愛之助さん。

もちろんいつも通り丁寧な演じぶりだし、明確にどこが、というわけではないのだが、それでも座組の色が違えば当然にというか、なんとなく柔らかい印象を受ける芝居だったなと思う、玉さまの芝居が。等身大…というのとも違うけど、歌舞伎座で拝見したときの型の威力とは違うものを感じたな~。芝居としてはこちらのほうが見やすい、という人も結構いそうだなと思ったり。

とはいえ、あの宅悦とのやりとり、「顔が…どうしましたえ」の部分の観客への植え付けかたの見事さ、薬を飲む時の所作のひとつひとつ、髪梳きの場面での観客の息をのませる芝居のうまさはどこからみても一級品。

民谷伊右衛門は不思議なもので、かなり演じ手によって客に与える印象が違うのが面白いところ。愛之助さんの伊右衛門、極悪ぶりというよりも流され悪、もうどうにでもなーれななげやり悪のだらしなさがあって面白かったな。色悪として結構キャラの確立した役に思えるのに、こうもキャラクターそのものの印象が変わってくるってのは面白いなあ。

「元禄花見踊」。華やかで美しい玉さまを思う存分愛でられてウハウハなのだが、さっきのお岩さまの余韻が抜けきらず、わりと良い席で拝見していたので、これ以上目が合うと(合ってない)石になる!という緊張感があったのはいいのか悪いのか。いやだって玉さま「目…合ってるよね?」って勘違いさせる名手なんだもん…罪なひと…。

「2020」

高橋一生さんのひとり芝居。演出は白井晃さんで、上田岳弘さんの書き下ろし。一生くんがひとり芝居をパルコでやろうというときに、自ら作家に声をかけ、過去にタッグを組んだ演出家を巻き込み、ウェルメイドとは真逆の方向に全振りした作品を指向するというのがすごく面白いなと。ほんと硬派な人ですよね。

この世界を構成する分子のひとつにすぎず、それでいて世界の全体である、というような視点からの語りが続くので、相当に観念的だし、それでひとり芝居なので、挑むハードルの高さよ…と思いました。観客もそうそうに自分の立ち位置決めないといろいろ掴みそこねるやつ。最後まで理をもって食らいつくか、目の前の事象を受け入れて感性の海に漂うか…。個人的には、大錬金ぐらいまではなんとか波に乗れていたんだけど、その途中で振り落とされちゃいましたね!わははは。

一生くんはさすがに達者というか、うまいなと思わせるのはもちろんなんだけど、こうしてひとりで場を持たせる形になると、この人けっこうけれん味の強い芝居をするんだなっていうのが発見でしたね。新感線どうだ?(すぐ新感線に誘うのやめなさい)あと舞台表現というものについて、まず身体表現であるっていう信念というか、憧れがあるんだろうなと思わせるステージングで、そこもよかった。どれだけ人気者になってもこうした舞台に出てくれる一生くん推せるぜ。

舞台床面と背面のプロジェクションマッピングの出来がすばらしく、これ映像上田大樹さん?と思って後で確認したらやっぱりそうだった。安心と信頼の上田大先生。床面のは特に2階から見ているからこその面白さもあった気がします。

「ジュラシック・ワールド/新たなる支配者」


ジュラワシリーズ3作目、ジュラシック・パークから数えて6作、堂々の完結編の触れ込みで、ジュラシック・パークオリジナルキャストのローラ・ダーンサム・ニールジェフ・ゴールドブラムが顔を揃える話題作。主演はもちろんクリス・プラット、監督はコリン・トレヴォロウ。

いやーなんか、散漫な映画だった。公開直後にあんまりあからさまにブーブー言いたくないけど、しかしこれはあんまりでは…という感がすごい。こうした大作が大味になることはままあって、でも大味だって味じゃん!!と思うし、そういうのが見たい時ももちろんあるんだけど、もはや大味ですらないという。ちょっと前作の記憶も薄れ気味ではあるんだけど、なんか恐竜たちが世界に解き放たれて、さあどうする!からだった気がするので、どうにでも持っていけそうな気がするのに、逆にむちゃくちゃ映画の中の世界が狭く感じてしまったな。

オーウェンとクレアとメイジーの疑似親子組と、旧作3博士のトリオとのそれぞれのエピソードがまったく有機的につながっていなくて、人間たちの物語にほぼカタルシスがないというのも痛いんだけど、それでも恐竜が圧倒的な力を見せて暴れ回ってくれたらまあまだその部分は満足できた気がするのに、肝心のそこが手薄なのがほんと残念だった。偶発的に出会って偶発的に戦うだけだもんなあ。人間たちが恐竜をコントロールしようとしても、それを超えるXファクターが恐竜側にあって、そこから生まれる危地をどう脱するのか、というテンプレさえもガタガタだったし、そもそも今回そのXファクターが巨大イナゴに全振りされてるんですよね。いや昆虫パニックもの映画見に来たんじゃないんですってば。

なんかこう、登場人物側を「良き行いをするひと」に落とし込もうとするあまり物語がいびつになっていた感じがすごくありましたね。ドジスンの最後もなんだかなだったしね…。あとジュラワ第1作でミーム化したオーウェンがラプトルを制するときのあれ、いつでもどこでもなんにでも連打してて「またそれ?」という気になっちゃったよ。人間のコントロールできないものが自然界にはあって、恐竜ももちろんそのひとつなのだ、という部分が好きなので、あんな唐突に共存共存!言われても、その横で走ってる馬そのうち喰われるよ、ということしか考えられないんだけどもっていう。

よかったのは新キャラのケイラ周りで、すごく魅力的だったよね。彼女が絡んだアクションシーンはなべて面白かった。マルタでの追っかけっこから飛行機に飛び乗るまでのシークエンスと、制御装置が外されて大型翼竜に襲われてからの不時着、氷の上でのアクションとかは見ごたえあったなーと思います。あ、あとメイジーが首長竜を見かけるところ、あれちょっとブラッドベリの「霧笛」ぽいよね。あそこは好きだった。

サム・ニールローラ・ダーンジェフ・ゴールドブラムも、キャラクターとしての魅力は全然失ってなくて、つーか倍掛けで渋くカッコよくなってるのさすがすぎた。だからこそもっと脚本がなー!という気がしてならない。ヒットした映画の続編を高クオリティで作ることっていうのがどれだけ難しいことなのかってのを改めて実感しました。