「中村勘九郎 中村七之助 春暁特別公演2023」

中村屋のご兄弟での春暁or錦秋公演、ここのところご無沙汰が続いておりましたが(大抵平日開催なので予定を合わせにくい)、今回久しぶりにお邪魔しました。今回は最初にご兄弟と鶴松さんによるトークコーナー、「元禄花見踊」に続いて勘九郎さんの「仲蔵狂乱」と七之助さん鶴松さんによる「相生獅子」という構成。

こうした公演に足を運ぶたびに「私はつくづく素のトークというものに興味がない」ことを思い知らされる(コロナでそうした配信が増えたけれどほぼ見ていないのもソレ)わけですが、今回は公演日が鶴松さんのお誕生日当日ということもあり、鶴松さんスペシャルという感じでしたね。質問も鶴松さんへのものが多く、何がってちゃんと演者の誕生日を把握しているファンの皆様が凄いと思った。ケーキのサプライズがあって鶴松さんが嬉しそうだったのと、過去の誕プレの話になったときに、小5?かなんかで勘九郎さんからもらったダーツセットを「なんで(ダーツにはまってもいないのに)くれたのか…」とコメントし、七之助さんが「なんかいいエピソードが来るのかと思ったのに急なディスり!」と勘九郎さんを慰めていたのが面白かったです。

勘九郎さんの仲蔵狂乱、ドラマで仲蔵をやった縁なんでしょうね~。めったにかからない演目ということで、しかも最前列だったので、これは目が合うやつやん(出た)と思いながら堪能しました。仲蔵を描いた作品ではなくて、小野小町の父の小野義実を描いた作品、なのに「仲蔵」の名前がついてしまう仲蔵のすごさったら。

今回拝見した中ではやっぱり相生獅子に圧倒的な満足感があった感じです。現存する最古の石橋物だそうですが、フォーマットは見慣れたものでありつつもあの女方の拵えのままの毛振りとかむしろ普段よりもスペクタクル感さえあったわ。あと七之助さんやっぱ華ある!

むずかしいものとはわかりつつ(スタッフの面とかさ)、一度この手の興行でトークコーナーをやらずに1時間ほどの芝居演目を見たいもんだよねと思うの巻。

「フェイブルマンズ」


スピルバーグの自伝的映画、監督もちろんスピルバーグ、脚本はトニー・クシュナースピルバーグ。早撮りで名高いスピルバーグ、いつも製作の第一報から完成までのタームが短すぎて驚きます。ハリウッド大作ってたいてい「今撮ってますよ」の2年後ぐらいに公開じゃない?まあCG含む編集の処理が多いものほどそうなんだろうけど。スピルバーグは「ペンタゴン・ペーパーズ」の時もそうだったけどほんといつの間にか完成してていつの間にか賞レースに顔出してる感すごい。

GG賞も受賞してたりしたけど、いやもうスピルバーグほど功成り名遂げた人の自伝…うーむ食指が動かない!と思ってたんですが、公開されるとそれなりに評判がよく(これもいつものパターン)、そんなに言うなら…と見に行ってきました。

ハリウッドで成功していくスピルバーグの成功譚ではなく、彼がいかにして「表現する人」になったか、といういわばオリジンストーリーで、かつ彼の家族がその表現の形成にいかに深くかかわっているか、ということを丹念に洗い出すような映画でした。

本当につくづく映画がうまいというのはこういうことか、という場面の連続で、大叔父との束の間の交流の中で「表現」から逃れられないことのしんどさを、転校してユダヤ系だという理由でいじめられていた学校で、記念日のムービーを撮ることで評価を得る一方で、「本当はそんな人間じゃない」という偶像化へのおそれを、これ以上ないぐらい最小限の台詞と場面で見せて伝えきるのがすごいっすよね。特にあのジョックの男の子が「どうして俺をあんなふうに見せたんだ」と泣くシーンは心に刺さるものがありました。家族同然だったベニーおじさんと母の浮気、母がとうとう家族と離れ私にはベニーが必要だと泣く、いわば修羅場のシーンで頭によぎる、その泣き崩れる母を回り込んでカメラで撮影する自分の姿…。あそこまでの監督になっても、いやなったからこそか、表現というものは諸刃の剣だということを身に沁みてるんだなって思いました。柄本明さんが「表現なんてしないですめばそれに越したことはない」って仰っていたのを思い出したな。

しかし、この映画の読後感…じゃないけど、後味を決めているのはなんといってもラストシーンじゃないでしょうか。仕事にはつながらないけど会っておくといい、と言って連れてこられた小部屋。いったい何のことだか全然事態がつかめないが、その部屋に貼られたポスターを見ているうちに気がつく。駅馬車わが谷は緑なりき、リバティ・バランスを射った男…。かの巨匠、ジョン・フォードとの一瞬の邂逅。そしてスタジオを歩いていく一人の青年の後ろ姿。カメラの位置は大丈夫?あー、あのラストショット、ほんとにおしゃれで粋、愛嬌があって、あれだけでこの映画を好きになってしまう力があったな。ほんとうにつくづく映画がうまい!

「エブリシング・エブリウェア・オール・アット・ワンス」


監督ダニエル・クワンダニエル・シャイナート。A24最大のヒット作、全米公開はずいぶん前だったので(つまり賞レース狙いの公開じゃハナからなかった)漏れ伝わる評判に公開を楽しみにしていました。そしてついに先日、アカデミー賞作品賞を受賞!!!おめでとうございます!!!

不思議な映画だったなーと思う。自分でも思いがけなく、終盤かなりの勢いで落涙してしまい、それも「なんかわからんが気がついたら泣いてた」という感じで、自分でも自分がそんなに泣いたことにビックリした。だからといって、誰でも捕まえて「なんでもいいから絶対見て!!!」みたいな感じではなく、「私は好きだけど~!」みたいな、俺はいいけどYAZAWAはなんて言うかな的な構文になってしまうのはなんでなんだろう。たぶん、あんなに壮大な世界を描いているようでも、実のところむちゃくちゃミニマムでパーソナルなものを手のひらに乗せるような作品だったからじゃないかって気がする。マルチバース、アルファ、数多の並行世界の自分、世界の終わり…そうした壮大なものと、確定申告を目の前にしたある家族の心のやりとり、それが同じ温度で語られていて、それってもう、ある意味ひとつの詩ですよね。

人生は選択の連続で、その選択によっていろんな世界が分岐して、それぞれの世界に自分がいる。映画の中でエヴリンはアルファ・ウェイモンドにこう言われる、全部の選択肢で失敗した方を引いたのが今のきみだ、と。
ギャーってなった。なんなんだそれ。それって…それってむちゃくちゃキッツいじゃないか。
でもエヴリンはそれを引き受ける。引き受けて、それがどこでも、どんな世界でも、自分が掴んでおきたいものは何なのか、そこから目をそらさない。
だからどこへでも行けるのだ。
キッツいけれど、でも、どっこい生きてるのだ。
エブリシング・エブリウェアって、強引に訳せば森羅万象ってことで、つまるところ私にとってエブリシング・エブリウェア・オール・アット・ワンスって、森羅万象乗り越えて、どっこい生きてる石の中って映画だったなとおもう。
そんで私はそういう、生きてることそのものへの肯定を語られることにものすごく弱いのだ。

ジョブ・トゥパキがエブリシングベーグルを指して、結局のところこの人生はクソで、本当に輝く瞬間なんてほんの一握り、というけれど、そしてジョイも同じことを言うけれど、エヴリンがだったらそれを大事に持ってるわ、っていうのが、完全に私の人生における「ばかばかしさの真っただ中で犬死にしないための方法序説」と一致していて、そのことにもすごく胸を打たれた。

マルチバースに存在する自分へのジャンプのきっかけが「くだらなければくだらないほど遠くに飛べる」っていうのもちょっと示唆に富んでるところあるよな、と思う。思うけど、ただ単にくだらなくて下品なことをやりたかっただけかもしれない。それでも全然いい。わざわざあんな下品な「きっかけ」にしなくてもいいのにって言われそうだけど(あんなのやろうと思えばいくらでもカッコよく作れる)、でもどこに創り手の魂が入ってるかなんて、我々にはわからないもんな。

ジョブ・トゥパキは母親からの抑圧によってジョイの中にうまれたもの、みたいな寓話的な見方ももちろんできるよね。ジョイのことを考えたら、そら世界なんざ滅べやぐらい考えたことも一度や二度じゃなかろうもん。あの祖父の前で恋人のことを「友達」と紹介しちゃう母親、絶対やったらアカンことをやってて、ただこれしんどいのが、言ったエヴリンもそのひどさをわかってる、ジョイはエヴリンが本当はわかってることをわかってる、わーー!しんどーー!!全然無理解でいわゆる毒親だった方がまだ切りやすいまである。だからジョイが離れようとするのも納得だし、でもあのエンドで私は嬉しかった。いられる余地があるのなら、居場所なんてあった方がいいもんね、ただでさえ世界は荒れ狂う波のようなんだから。

並行世界にいる「自分の特技」を引っ張ってくるの、並行世界インストールみたいで単純に面白かったし、「演技」ってそもそもそういうものかもしれないなっていう暗喩にも思えてくるのが面白い。たくさんある並行世界のなかでまさに女優となっているエヴリンがいて、それはミシェル・ヨーの姿と重なるって言うか、メタ構造的な面白さもあったな~。ミシェル・ヨー、本当にすみずみまで輝いてて、あのアクションのかっこよさも含めて、こんなにも彼女が成してきたことが年輪のように見えるキャラクターあるだろうかってホント、感動してしまいました。

衣装の変化もなにもなく、シームレスにアルファと「この世界」を行き来するキー・ホイ・クァン、素晴らしかったな~!彼自身の人生の紆余曲折も含めて見ちゃうところがどうしてもあって、だからこそあのみんな親切にって台詞むちゃくちゃ響いた。愛は負けても親切は勝つ。ウェイモンドってどの世界でもそういう人だったよな。タキシードのシーンの色気ぶんぶん丸っぷりったらなかったぜ。ステファニー・スー、鬱屈を抱え込んだジョイの陰影と、キマりにキマりまくったジョブ・トゥパキでのオールラウンダーぶり、どっちもむちゃくちゃかっこよかったです。監察官のジェイミー・リー・カーティス、彼女とエヴリンの他バースでのパートナーぶりもよかったけど、あのコインランドリーでエヴリンとひととき気持ちを分かち合う場面が何より好き。

いろんなことが鮮明に刻まれているような、同時にもうすでに曖昧模糊とした記憶になっているような、鑑賞してから1週間になるけどまだ不思議な感覚が抜けません。面白かったな。面白かったし、ヘンな映画だった。好悪も含めてこの映画の印象って本当ぜんぜん違いそうだし、それはとりもなおさず、この映画がきわめてパーソナルなものを核にしているからなのかなと思いました。いずれにしても、得難い映画体験だった!それに尽きる!!

「バンズ・ヴィジット」

  • シアタードラマシティ 14列17番
  • 原作 エラン・コリリン 台本 イタマール・モーゼス 演出 森新太郎

キャスト陣が実に手堅いのと、エジプトの警察音楽隊イスラエルの演奏会に招待されるが、降りるバス停を間違えてしまい、迷子になった彼らの一夜の物語を描くというあらすじに興味を惹かれて観に行ってきました。

イスラエルとエジプトという、緊張関係のある2か国の話というのもありますが、それ以上に「まれびと」の物語としての色合いが強いですよね。外部からの来訪者に食事や宿を提供して歓待する、ある種の物語の形。

「なにもない」ベト・ハティクヴァの街の人々は、皆どこかで何かを待っている。そこに現れる異国の音楽隊。彼らと過ごす一夜は、ほんの少しだけこの街の人々の居方を変える。もちろん彼らが去った後の街は昨日と同じはずなんだけど、彼らという風が吹き抜けたことでほんのすこし位相が変わっている。

ミュージカルとしては地味な作品だなと思うけれど、私はそもそもこうした形の物語に異様に弱いというのもあり、好きな作品でした。ローレンス・カスダンの「再会の時」とかもそうだけど、特別に思える一夜があって、でも朝が来たら何も変わっていなくて、けれどほんの少し昨日とは違う何かがある、っていうやつ、ツボなんですよねえ。

警察音楽隊を演じるキャストが実際に劇中で演奏するのもよかった。あの赤子をあやすところ、なんかしみじみと静謐な絵画のような趣があって抜群だったな。ディナとトゥフィークの二人の会話で、子どもの頃に見たテレビでの記憶がふたりを繋ぐのもいいシーン。

風間杜夫さんの達者さと濱田めぐみさんの輝きを中心にした座組の皆が好演ですみずみまで見応えがありました。新納さんはいわずもがな、永田崇人さんのパピ、矢崎広さんのイツィク、そしてこがけんさんの電話男!こがけんさんめちゃくちゃ歌い上げてましたね!あの電話を巡るささやかな攻防も面白かったな。

尺もミュージカルとしては破格(?)の約1時間45分で、そういう意味では音楽劇、といった感触の方が強かったかも。「特にどうということはなかった」って最初と最後に繰り返されて、でも最後のその台詞は額面通りの言葉ではなく、サブテキストに満ちた響きがあるという点も私の好みだったなーと思います。

「ドリームガールズ」

  • 梅田芸術劇場メインホール 1階20列43番
  • 脚本・作詞 トム・アイン 演出 眞鍋卓嗣

映画版の情報が中途半端に頭の中にあったせいで「デスチャをモデルにした話だったっけ…?」とぼんやりにもほどがある認識で見始めちゃいましたが、そんなわけなかった。時代が違うのよ。シュプリームスをモデルにした話だったそうだった。ビヨンセが映画版で主演してた情報をごっちゃにしてたよ!

この世の歌ウマ声量オバケを集めてこい、とキャスティングされたと言っても驚かないくらい、まあ冒頭から最後の最後まで歌の圧でぶん殴られ続ける2時間半でしたね。恋人同士のいちゃつきも痴話喧嘩もビジネスも家族愛もぜんぶ!歌でやります!しかも大音量で!って感じだった。歌をしっかり聞かせて尺を取る、というよりは、歌に乗せて物語をぐいぐい進めていくので、展開もスピーディになるのがうまい見せ方だなと思ったな~。

セットもすごくよかったですね。中央の盆は転換にも使われるしステージの「あちら側」「こちら側」の切り替えにも有効だし、レコードに見立てているようにも見えて印象的だった。あとカーティスが中古車販売業から成り上がるの、「エルヴィス」のパーカー大佐を彷彿とさせるし、このアメリカンドリームの裏で夢を作りだす側になろうとする者の人物像ってやっぱどこか似通るよな、と思ったりしました。

物語の中では一番有為転変があるのはエフィなので、彼女を軸にしたストーリーラインのように見えるんだけど、これステージで観る分にはやっぱりディーナがどれだけ光り輝けるか、ってことがこの作品の肝を握っているように思ったな。そういう意味でも絶妙なキャストバランスだった気がします。

私望海さんの舞台拝見するのたぶん2度目だと思うんですけど、なんつーか、オーラの出し入れが自由自在なんかい?メモリ単位で出力できるんかい?と言いたくなる!最初のシーンで3人が出てくるけど、正直誰が望海さんかぜんぜんわかんなかったんですよね(すいません)。で、中盤ディーナの美しさにカーティスが目を奪われるシーン、あるじゃないですか、白いドレスの。あそこでホント、今までと明らかに違うレベルでパッと輝く。でもうそのあとはオーラメモリをぐんぐん全開にしていくだけっていうね!すげえ。華とは!こう!!っていう馬力の違いを見せつけられた感。

spiくんのカーティス、押し出しの強さが全面に出ててナイスキャスティングだったな!劇中のナンバーの中でカーティスとCC、サンダー・アーリーが歌うSteppin' To The Bad Sideがむちゃくちゃ好みで、ワシはどうやってもこういうのに弱いね…と自分の好みを改めて自覚しましたの巻。

「桜姫東文章」木ノ下歌舞伎

木ノ下歌舞伎で桜姫東文章、成河さんと石橋静河さんをキャストに迎えて、と魅力的な顔合わせながら「絶対上演時間長いよな~」と二の足を踏んでいた私。で結局東京公演の評判を聞いてチケット取るっていう。じゃあ最初っから取っておきなさいよ。

今回チェルフィッチュ岡田利規さんが上演台本・演出を手掛けられるということで、観劇人生それなりに長いながらチェルフィッチュとの接近遭遇を果たしていない身としてはどんなもんかな~とおそるおそるな感じでしたが、自分の好みかというと残念ながら、というとこは正直ありましたね。でもあのスタイルは歌舞伎を底本にした作品との相性はいいんじゃないかなとも思いました。特にこの桜姫東文章みたいな作品を役者に自由にやらせちゃうと、絶対オーバーアクトの極みみたいなものが混ざってくるだろうし、そうなると観ている側にも少なからず拒否反応を引き起こしそう。歌舞伎での上演でもそうですが、あるひとつの「型」にこの愛憎劇を押し込めることで客に届きやすくなっていると思うので、それは今回の上演でも共通しているところだなと思いました。

歌舞伎では現行上演されていない押上植木屋の場と郡治兵衛内の場を観ることができて、これがとてもよかった。ドラマとしても面白いし、南北っぽさも強いし、あの傘に書いた短歌がフックになって繋がっていくのもすごくドラマチック。なんで上演されないのかな~。

成河さんはなにをどこでやらせても爪痕残すよねっていうか、多分見に行くと決めた最後の一押しは「成河さん出てるしな(だったら間違いない)」という信頼感ゆえなので、得難い役者さんだよと思いました。石橋静河さんも良かった、彼女の失われない品の良さが活きたね。あと粟津七郎をやってた森田真和さん、むちゃくちゃ声が魅力的ですね。岡田演出をして一層映える声のドラマティックさ。武谷公雄さんの長浦も好きだったな~~。

最後に桜姫が仇の子として実子を殺し、都鳥の一巻を取り戻すところは演目通りですが、それを迎えての大団円は描かず、さっと宙に放り投げて幕、というのがよかったです。愛憎と因縁に縛られた人しか出てこない作品の中で、あの場面だけが自由、というものを感じさせてくれました。

「カレーと村民」ニットキャップシアター

ニットキャップシアターで一昨年上演された作品ですが、コロナ禍で中止やら配信への切り替えやらの憂き目にあい、今回改めて東京と、舞台の地元である吹田での公演の運びとなったそうです。1905年9月1日、日露戦争における講和条約の内容について新聞報道された日の、吹田村の庄屋であった浜家のお屋敷を舞台にしています。

1905年なので、先日見た「日本文学盛衰史」の時代ともリンクしており、劇中にも正岡子規の名と、夏目漱石のエピソードでが出てきます。というか、この作品に足を運ぼうと思ったきっかけは、「日本文学盛衰史」の感想読みあさってたら、この「カレーと村民」の名を挙げている方をお見かけして、興味を持ったのがきっかけ。この作品自体、吹田市大阪大学の共同事業がきっかけで執筆されたというのも面白いなと思ったんですよね。

ご当地演劇というジャンルがあるかどうかわかりませんが、物語の舞台となっている、まさにその場所で観るっていうのはけっこう観る側の心情に及ぼす作用が大きいですよね。なんというか、劇場全体が「同じ風景を観ている」と感じさせる。共感力が高いというか。あの頃からあのビール工場はあって、その周辺の産業があって、というのも興味深いところでした。

いわゆる名家の生まれで、才能も有り容姿にも恵まれ、海外留学をしてなおのんしゃらんと生きる浜家の次男がある意味この物語の特異点でもあって、あの時代に日露戦争で息子や孫を喪い、だからこそ講和条約に納得できないと噴き上がる人々を、観客は次郎と同じ目線で観ている。なぜなら「戦争が終わり、戦争が始まる」というこの舞台のチラシに書かれた惹句のとおり、このあとに起こることを我々は知っているからだ。

なので、観客の視点のよりどころはどうしても次郎になってしまうのだが、最終盤にその視点が切り替わってしまうところがちょっと惜しいなと思う点でもあった。なんか突き放された感じになっちゃうよね。中盤の台詞や最後の展開を見ると、アキを次郎と並ぶぐらいにフォーカスしてもよかったのではとは思ったなあ。

戦後を描くというと、どうしても1945年以降がフォーカスされることが多いが、その前の日露戦争後の日本を舞台に選んでいるのはすごくよかったと思う。戦争というものへの温度差を描くという意味でも、その中に他国の領土を無邪気に欲しがる描写があるのも、よかった。あれが戦争というものなんだなあと思うし、その無邪気な空気は誰によって作り上げられたのか、を考えさせられる。

次郎を演じた門脇俊輔さん、むちゃくちゃ美声でしたね!いやビビった。座組全体が仕上がっていて、何気ないシーンでも芝居のテンポが保たれており心地よい観劇でした。楽しかったです。