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ネットにおける「嫌なら見るな」という反論ってどうなんだろう、みたいな話を以前ちらっと匂わすだけ匂わしてそのあとビタイチそんな話にゃ触れていないわけですが、ミュージックマシーンの、いや、元ミュージックマシーンの?タクヤさんが書いてることはひとつのヒントかもしれないと思った。

普通の雑誌はアタマからケツまで一定の意志のもとに編集されている。表紙があって、第一特集があって、第二特集があって……という具合。そこには優劣があるし、その優劣を決めるのは送り手の側だ。雑誌を手にとってそのページをめくるとき、読者にとってその瞬間、その雑誌が世界のすべてになる。でもウェブサイトはそうじゃない。どんなに丹念に作り上げたサイトも、ウェブという巨大な場のごく一部でしかなく、その境界線はひどくあいまいで、読み手はいつでもどこにでも行けるし、ウェブの世界ではその自由こそが重要なものなんだと思う。何を読むか/読まないかについての選択権、主導権は読者の側にある。例えばあなたが街角に立って、あっちに行けとかこっちを見ろとか言われたらイヤじゃん。世界中の好きなところを自由に訪れたいと思うでしょ。おれはウェブサイトを運営するときにはその感覚を尊重したいと思っていたし、今もそう思っている。
TAKUYAONLINE

今見たら(2)もUPされてた。

仮に自分にとって必要十分な情報が過不足なく提供されたとしたら、人はそこに物足りなさを感じてしまうはず。「もっとなんかあるんじゃないか」って不安になる。あふれる情報の中から自分にとって不要なものを排除して、必要なものだけを自分の意志で選びとったときに、やっとぜんぶを手に入れたという満足感を得ることができる。

すっげえ、実感ありすぎる。

さて、webにおいて管理者は何を読むか/読まないかについて読者を主導することはできない。やっぱり圧倒的に主導権は読者にあると私もおもう。もちろん、私が思っていたのは「気にくわないなら見ないでよねぷんすか」みたいな論に有効な言葉ってないんかなあみたいなレベルではあるんだけど、でも根本としてはタクヤさんの言っていることと外れていないのではないかなあ。
見られたくないんなら書くな、っていう直球な返しもあるんだろうけど、でもやっぱりその前提として、webでは「見る方」に圧倒的な自由があるんだぜってことなのかなと思ったり。

それにしてもこのタクヤさんのエントリは素晴らしいわけですが、ブクマでも書いているひといたけど「解題・ムーノーローカルの作り方」を彷彿とさせるし、それは「解題・発狂小町の作り方」を思い出させるってことでもある。いずれも素晴らしいテキスト。いろんなところで言っているのだけど、私も極小とはいえサイトをやっていて、そのうえで学んだのは、サイトをやっていく上でのルールは参加者にではなく自分に課されるべきであるということ。何をするか、何をしてはいけないか。誰かにしてほしいことを考えるのではなく、「自分が」しなければならない、してはいけないことを決めることでした。この「解題」シリーズは私のそういう思いに重なるところもあって、心に響くものがありました。