「兎、波を走る」NODA MAP

野田地図新作。東京公演開幕して1週間ぐらい?のタイミングで拝見して、先日大阪公演も観劇してきました。野田さんの新作、大阪公演まで待ってもいいんだけど、ネタバレを観ずに初見の感触を味わいたいなというのがいつもあって、ここんとここういうパターンが続いています。というわけで、以下は完全に作品の具体的な展開に触れていますので、このあとご覧になる予定の方はお気をつけください。

個人的に感想が難しい作品だなというところがまずあって、もしこれが野田秀樹の作品でなかったら、その着想や描き方の品性、台詞の巧みさに唸らされただろうなと思うし、今作のような題材を選ぶこと自体もポジティブにとらえただろうなという部分がある。どんどん風化され、過去に過ぎ去っていくように我々には思えても、今まだ現実に娘を待つ母の手があるんだということをこうした、演劇という形で示すこと自体が簡単ではないし、さすが野田秀樹だなと思う部分も、もちろんある。

冒頭の高橋一生の台詞、それを「わからない」と混ぜっ返すヤネフスマヤ、その台詞が最後にもう一度繰り返される頃には、「不条理」という言葉の意味を痛いほどこちらにわからせる作劇の巧みさとか、唸るしかない。拉致問題をめぐってさまざまな検証がなされてきていても、あのナイロン製の頭陀袋を引きずるさま、おかあさん、おかあさんと呼ぶあの声をこうして聴くことは、どんな検証よりもインパクトがある。あの声を聴いて、あれが自分の子なら、きょうだいなら、友人なら…と思わずにいられるひとは少ないだろうと思う。

一方で、「フェイクスピア」に続き、私の年代にとっては「今」の出来事すぎて、うまく距離をとれないという部分もあったように思う。このあたりは見る人の年代によっても感想がわかれそうなところではある。

というような、作品自体の感想とは別に、ラスト近くのシーンで野田秀樹演じる第二の作家(ブレ「ル」ヒト)が第一の作家と交わす台詞の中で、「もはや新しいものは生み出せない」「歴史の自動書記」という言葉が出てきたのが、個人的には印象に残った。作家が書く「作家の台詞」に意味がないわけがないし、この「歴史の自動書記」というのが私が近年の野田さんの作品にうっすら抱いているものを言い当てているような気がしたからです。

野田さんの新作は、元をたどれば「オイル」に始まったように思える、「歴史」を語り直す、というような作業、作品が続いていて、ひとつひとつの作品自体は傑作、名作と語られるにふさわしいものなんだけれど、でも「そもそも野田秀樹はこういう作家だったのか?」という疑念…というか、諦めというか、そういう気持ちが私の心の底にあることは否定できないし、それはこの5~6年でより強く感じられていたことだった。

ことに今作は、「小指の思い出」の「妄想の一族」、「三代目、りちゃあど」の「孟宗竹」でも繰り返した、「もう、そうするより仕方がない」という言葉遊び、加えてお得意のアナグラムもあって、野田さんが意図的に過去の再生産をしているかのように思えたのも、私のこの作品に対する感想を難しくしている部分があるのかもしれない。

あと、これはまあご愛敬というところだけど、AI、アバター、仮想空間、そういったものに対する野田さんの解像度の低さも気になったところではあった。

キャストは皆すばらしく、松たか子の強さ、高橋一生の切なさが終盤になるにつれ匂い立つようで絶品であった。あと大鶴佐助さんよかったですね。あの特徴ある声とパワー、うまさだけでなく力で押して参る、みたいなわけのわからない魅力も感じられて好きでした。

来年にも書き下ろし新作が予定されているとのことで、これだけのスパンで新作を書き続けるバイタリティには心底頭が下がります。これだけ長い間新作を劇場で観続けていられること自体が得難いことだなあと思いつつ。