「ロスト・キング 500年越しの運命」


監督スティーヴン・フリアーズウィリアム・シェイクスピアの傑作戯曲「リチャード三世」によって後世に至るまで「邪知暴虐の王」のイメージが付きまとうリチャード三世について、歴史的観点から再評価しよう、という試みは昔からあって、そういったリカーディアンたちの流れを汲むものの中にジョセフィン・テイの傑作「時の娘」という作品があるわけなんですが、何を隠そう(隠してない)私はこの「時の娘」が大大大好きなんですよ!なので、そのリチャード三世の遺骨を500年の時を超えて探し当てた実話をベースにした映画ときちゃ、観に行かないでいられますかってなもんなんですよ!

リチャード三世自身が実際どのような人間だったのか…なんて、そんなのわかるわけないんだけど、でももしシェイクスピアがこの人物を描いてなかったら、描いていたとしてもこれほどまでの傑作でなかったら、こんなにも人物像が必要以上に懲り固められたまま後世に伝わることもなかったのではないかと思うと、沙翁大先生罪深いですぜ…と思わないでもない。この映画でも、フィリッパはリチャード三世を観劇したことをきっかけに(そして自身の持病による周囲の色眼鏡に辟易していたことが重なり)、彼は不当な評価をされているのではないか?と疑問を持つんですよね。

実際にはリチャード三世の遺骨が眠るのが「あの駐車場」であるという説はフィリッパ以前にも唱えたひとはいたようなのですが、歴史的資料と、「そうした祭祀の場所は後世になっても空き地であることが多い」という仮説からあの駐車場に辿り着くところ、そこであの「R」の文字を見つけるドラマティックさは思わず胸が高鳴るものがありました。

フィリッパが幻影とわかりつつ、自分だけに見えるリチャードと会話するのも、必要以上にファンタジックにならない演出で好きでした。あのボズワースでリチャードを見送るところ、よかった。ああいう場所だったんだなあ。こういう風景を見られるのも映画の良さだよなあ。

「元」夫と子供たちが、口論はあってもすごくフィリッパの理解者であろうとしてくれててよかった。レスター大学はあんなに鳶に油揚げの諺まんまの立ち居振る舞いで描かれて大丈夫だったんでしょうか。そうそう、ひとつ面白い話があって、イングランドプレミアリーグのサッカーチーム、レスターシティは2015-16シーズンに奇跡の優勝を成し遂げ、「ミラクル・レスター」と呼ばれているんですが、このレスターが破竹の快進撃を開始したのが、リチャード三世の遺骨がレスター大聖堂に再埋葬された2015年4月から始まったんですよね。前年降格争いをしていたチームが残り9戦を7勝して残留し、翌シーズンにリーグ優勝。しかもスタジアムの名が「キング・パワー」!これはもう、リチャード三世の遺骨発見と再埋葬の御加護にちがいない!という説が出るのももっともな気がします。