「四月大歌舞伎 第一部」

「猿翁十種の内 小鍛冶」。初見です!猿之助さんが童子実は稲荷明神、中車さんが三条小鍛冶宗近。いやー楽しかったな。猿之助さんのこういう「常ならぬもの」な雰囲気をまとったお役大好き。稲荷明神のお姿がまた神々しさとキュートさが綯交ぜになってて目が離せませんでした。

勧進帳」。幸四郎さんの弁慶、松也さんの富樫。連獅子とか勧進帳とかって、最初に見た時よりも回数を重ねて観るごとにどんどん面白さが増すというか、山伏問答のところとか今はもうワクワクして見ちゃう。古典の力ってことなんですかね。

幸四郎さんの弁慶、拝見するの2度目かな。お声が太く、大きくなって、安定感が増して、最初に拝見したときとはまた違うフェーズに行かれてるんだな~というのがよくわかる弁慶だと思いました。同時に、やっぱりその時にしか観られないものってあるよなというのを改めて実感したところもありますね。松也さんの富樫も、この初役の今だからこそのものって絶対にあるんだろうな。すっきりと清新な空気があって、松也さんの富樫もこれから拝見する機会が増えそうですね。

花道に近いとちり席という最高のポジションで稲荷明神な猿之助さんと弁慶な幸四郎さんを拝見できて、なんだか鬱々とした気持ちだったり、目に見えないけれどなにかこう、自分にまとわりついている悪い「気」のようなものを祓っていただいたような気持ちになりましたよ。

「四月大歌舞伎第三部 桜姫東文章 上の巻」

演劇ファンというのは誰しも自分の中に「届いた伝説」と「届かなかった伝説」を飼っているものですが、ものですがってこれ私が勝手に言ってるだけですが、いやでも飼ってるでしょ?演劇ヲタクほど「伝説」好きな人種はいないと私はおもってます。そんな中でもこれは飛び切りの伝説であったと言ってよいのではないでしょうか。仁左衛門玉三郎による「桜姫東文章」。私にとってはもちろん、心の中に飼っていた「届かなかった伝説」のひとつです。それがなんと36年ぶりに歌舞伎座で上演されるっていうんだから…いうんだから!

今月は「上の巻」ということで三囲の場まで。改めて物語の筋を追うと「いやすげえ話だな」ってなるし、玉さま仁左さまにフォーカスしても「いやすげえ芸の力だな」ってなるし、全方位にすげえすげえ感嘆しっぱなしの約2時間でした。出家を一心にのぞむ良家のお姫さまが、自分を手籠めにした男を忘れられず、その男に再会したとたん触れなば落ちんといった風情を漂わせる、さらにその姫に執着して高僧が堕落していく話までかぶせるんだから、もう、南北、癖がすごい。文字通り性癖の癖が。でもって、それを120%「アリだ!」と思わせてしまう玉三郎さまと仁左衛門さまのすごさよ。だってもう、70歳を超えてらっしゃるのよ?そんなの微塵も感じさせない。そもそも白菊丸と清玄で出てきたときから「このお二人の前には…時間って…無力?」と思ってしまうほどフレッシュで、初手から脱帽でしたもん。

桜谷草庵の場のおふたり、あの刺青をあらわすときの腕の見せ方から、足でぐりぐりから、腰を抱かれてぐっと反る桜姫の身体の線から、帯をぐるぐるから、いやもう「これは…やってますわ…」という空気しかなくてすごかった。あんなに色事の空気しかしない場面ってあります!?マジで息を呑んだし客席全体息を呑んでました。でもっておふたりが美しすぎんのよ。なんでしょうねこれ。倫理とかすっ飛ばして「美しい!ヨシ!」ってなってしまうこの心ってほんとどこからくるんでしょう。

しかもそこに残月(歌六さま~~!)と長浦の爛れに爛れた男女の様子を差し挟んでくるからほんと鶴屋南北の筆たるや。このドラマを遥か昔の市井の人たちも見ていて、きっと今の私たちと変わらない興奮をもってみていたんだろうなと思うと、なんだか無性に心強くなりますね。

下の巻は6月に上演決定。震えて待つ!

「パーム・スプリングス」

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予告編見た時に「ループものじゃん!おもしろそう!公開されたら見に行こう!」って思って、これそのまま忘れるパターンかもなって思ったんですけど今回忘れなかった偉い。監督はマックス・バーバコウ。何と本作が初監督作品とのこと!

恋人の部屋で目を覚ますナイルズ。朝からとりあえずコトに及ぼうとするが未遂のまま。どうやら2人はうまくいっていないらしい。恋人がブライズメイドを務める知り合いの結婚式にアロハシャツで参列し、妙に場慣れした空気感を醸すナイルズと、花嫁の姉として浮かない顔で結婚式に参列するサラ。ナイルズはサラを誘い、ふたりは会場を抜け出し、さあこれから…というところでなぜかボウガンの矢がナイルズに突き刺さる!

ループする世界にいる男とそこに引っ張り込まれた女が「明日に行けない」世界で繰り広げるロマンティックコメディ。面白かったです。ナイルズは何回あの11月9日を繰り返したんだろうな。その前に自分が何をしていたか忘れたというのが口から出まかせなのか、それとも本当にそうなりつつあるのか。その世界を分かち合うサラがいて、このまま、あしたもきょうと同じ一日の繰り返し、どこにも行けないけれど、けっして回復不能なまでに傷つくことのない世界でいたほうがいいのではないか…っていうナイルズの気持ちわからんでもない…と言いたいところだけど、いやいやわかんない、わかんないよ。そりゃ一歩踏み出せばそこで回復不能な悲劇が襲い掛かるかもしれんけど、そして先が見えない世界はこわいけど、でもわかってる世界よりはぜんぜんいいでしょ。

そう考えると、こわさって生きてるってことの裏返しでもあるんだなと思ったな。ナイルズの世界にはこわいものがないものね。なかった。サラがくるまでは。サラがきてから、サラがいなくなることがこわくなった。

サラはできることなら11月8日からやり直したかったかもね。もしもう一度チャンスがあったら2度とあんなことしない、というような最悪な日の朝じゃないですか、サラの11月9日って。でもだからこそ、あの朝を永遠に繰り返すなんてまっぴらごめんだと思えたのかも。何にも蓄積されないが、唯一自分の中にだけは経験を蓄積していける、ってことを最大限生かすサラ、むちゃかっこいい。演じているクリスティン・ミリオティはあれだね、モダン・ラブの第1話の彼女だね!ちょうキュートだった~

J.K.シモンズがまたいい味だしてて、あの家でロイとナイルズが話すシーンよかった。アンディ・サムバーグ、魅力爆発してたな。いや、それにしてもこの物語さ、なんか「あれ?あの人も『繰り返している人』なのでは…?」みたいな演出がなかった?あと!あの恐竜のシーン…!あれをちょっと解釈しかねてて、いやむちゃくちゃ好きなファクターなんだけど、あの恐竜もループをしてたってこと?なのかな?いやとにかくあの夜の砂漠のシーンはむちゃくちゃよかった。最後の見せ方もすごくスマートですばらしい。楽しかったです!

「ファルコン&ウィンター・ソルジャー」第3話までの感想メモ

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ついこの間始まったのにもう3話まで放送が終わって、全6話なのでもう半分!半分じゃん!ってなってますこんばんは。みなさんバキ翼見てますか?えっ?ディズニープラス入るのめんどくさい?わかる!そうだよね!そういえばいちおうサーバーの増強してくれたのか、今のところ配信開始日(金曜日)に落ちてる!見られない!って感じにはなってないです。

毎週金曜日はいそいそ帰ってきてとりあえずひたすら画面に集中して、毎回終わるたびにいやもう情緒ぐちゃぐちゃにしてくるやん…?ってなってるんだけど、しかしこうした毎週配信のドラマはどの程度感想を直截に書いていいものかはかりかねるし、配信初日にツイッターでゴリゴリ書いちゃうのも他の人の興を削ぐかもしれないし、とはいえ何にも書かないでおくと時間が経ったら自分の感想も忘れるようなタマなので、とりあえず折り返し地点で自分の感想を残しておこうと思った次第。各話ごとにまとめるのが難しそうなので(これドラマの宿命ともいえるけど、「次」の展開を見たあとではその前話のフレッシュな感想を書くのがむずくなる)、各キャラクターごとにいきます。

バッキー・バーンズ/ウィンター・ソルジャー

たぶん1話だけで3回くらい「地獄かよ…」つったと思う。そういう地獄みは1話までで2話からはサムと連携して仲良くケンカすんのかな!と思いきや2話もまだまだ地獄だった。何が地獄って、3話でスティーブがかつて「今の世界を知るためのメモ」が今やバッキーの手にあるってことが明かされたわけだけど、そのメモに「償わせるリスト」と「償うリスト」を書いているこの、この、バッキーの現実…。生活感のない部屋で目覚めて、受けたくないカウンセリングを受けることを引き換えに自由な行動を手にし(あそこでメモを取られるのを極端に嫌がるのはかつての洗脳のフックを思い出すから?)、ウィンターソルジャー時代の悪夢を見る。なんの関係もない一般人を巻き添えに殺したことをおぼえていて、その父親の孤独を少しでも和らげようと近づいて、でも癒えないその傷の深さに慄いてさらに自分が傷つくループ。もしスティーブだったら、言うんだろうな。でもバッキーは言えないの、言えないのよ。それは弱さとかじゃなくて、いや弱さなんだけど、それはブルックリン時代のバッキー・バーンズ像から変わってないんじゃないかと思う。
言っても詮無いし、私個人的にはスティーブが自分の幸せをあの「タイムトラベル」後に選択したことも納得するけれど、いやしかしここまで現代のバッキーが地獄だと、いやスティーブ…ちょっとでも近くにいてやってくれよ…とか思ってしまうじゃん。
そんで2話であの、膝小僧抱えて(抱えてなかった?私の幻視か?)ニューキャプテンアメリカをテレビで見るあのシチュエーション!マジ地獄。脚本家はサドなのか。バッキーとサムが一緒に行動するようになるのはサムきっかけかなと想像してたけど、まさかのバッキー押しかけだったというね。しかし、取り繕うというか、表面上だけでもうまくやる、みたいな姿勢を一切見せないのがまた、意外であり面白かった。スティーブの前でだけはかつてのブルックリン時代の、気のいい、気さくなバッキーでいたかったのかなと思うほど、このドラマにおけるバッキーの「オブラートのなさ」って新鮮。「私はきれいなんかじゃない。きれいなふりをしてたのよ。あなたの前ではきれいな人間でいたかったの」(出典は内田善美さんの星の時計のLiddel)って台詞が脳内に浮かびっぱなしになったっつー。サムに「バック」って呼ばれて「バックって呼ぶな」「スティーブは呼んでた」「あいつは付き合いが長いしプランがあった」ってやりとり、「うん これ 見た(二次創作で)」感すごかったね!
血清と盾が何を人にもたらすのか、その強い光の裏には当然濃い影があって、それを知ったサムが「壊してしまうべきだった」っていうのもわかるし、でもそこで「だったらおれがいただく」っていうのがねー!ほんとバッキーだった。スティーブがお前に渡したからお前を尊重してるんだぞっていう。いやはやスティーブ・ロジャースの存在の大きさよ。
しかし、サムの、ファルコンがたどりつくべき場所っていうのはあらかじめ示されていると思うけど、じゃあバッキーのたどりつくべき場所ってどこなんでしょうね。それが後半すこしでも示されるのかな。あの償いリストを、忘れないけど、でもあれにとらわれない人生が少しでも待ってたりするのかな。いやーほんと、ちょっとでもこの世界で自分の居場所を見つけてほしいよ…。

サム・ウィルソン/ファルコン

1話冒頭でいきなり「今までのうっぷん(なんの)、ここで晴らします!」と言わんばかりの最高にかっこいいアクションのつるべ打ち、いやー堪能堪能。しかも!!ここで出てくるのがバトロックだなんて聞いてない!ローディが出てくるのはちらっと予告されてたけど、まさかまたお目にかかれるとは!だよ。むちゃくちゃ興奮したし嬉しかったしなんなら画面に向かって「お久しぶりですーー!!」言うてたわ。バトロックを配している点から見ても冒頭のアクションシークエンスはキャプテン・アメリカ/ウィンター・ソルジャーの構成をなぞってるよねーと思いました。地上部隊の彼とも仲良しそうで良き良き。
しかし、そのあとの襲い掛かる現実がもう苦いどころじゃないアレ。ヒーローの理想と現実と言ってしまえば簡単だが、そこに上乗せされる「指パッチンで消えた5年」の重さよ。いや実際こういうドラマの常として、残された側にフォーカスが当たるし、実際我々はエンドゲームでその残された側と心情的に共闘していたわけだけど、そして消えた面々が帰ってきてめでたしめでたし…にならない!MCUどこまでえげつないのか。親が残していった家族の象徴たる船をめぐる姉とのやりとり、時間が止まっていたサムには「そんな早計な」って映るし、5年を耐えてきた姉からすれば「こちとらもうそんなフェーズじゃない」って感じでどっちもわかるだけにさ…!っていう。
銀行の融資をとりつけるための交渉の場面、第2話で口論するサムとバッキーに対して警官がバッキーにだけ敬語で「何かトラブルですか」と言い、サムに身分証を見せろという場面(ここでバッキーが身分証を見せたらいいだろという仕草をするの、いやーこれが無意識ってやつか…っておもう)、いずれもサムが「アベンジャーズ」だとわかるとへつらい、へつらうがそれだけでは現状は打破されない…いやそりゃ地に足もめり込みますってば。バッキーとふたりのカウンセリング場面で、「おまえにもスティーブにもわからない」って言うのはもちろん彼自身が黒人であるということと無関係じゃないわけで、だとするとこのドラマはサムがどうやって変化していくか(盾を受け入れていくか)ってことがキモになるんだろうなと。MCUの覚悟もすごいが演じるアンソニー・マッキーの覚悟もすごいものがあるのではと推察します。
個人的には後半戦でレッドウィング復活してほしいし、なんならバッキーとレッドウイングとでやいやいやってほしいし、これでもか!という爽快なアクションシークエンスが見られることを期待したいです。3話で座席のくだりやってくれたのシビルウォーの逆再現で喜んじゃった。バッキーともっと仲良く喧嘩してくれてもいいのよ!

ジョン・ウォーカー

1話の最後で誰もが「おいおいおいおいおいおいおーーーーーい!ウィンク!すな!!!」と叫んだであろうと思われる、ニュー・キャプテンアメリカことジョン・ウォーカーさん。いやー感服仕りました。なにがって、おい!と言わずにいられない登場から、2話冒頭でジョン・ウォーカーという人を見せていく構成!なにがすげえって、名誉勲章3回ですよ。この間「ラスト・フル・メジャー」見たばっかだから余計に「あの名誉勲章を…3回ィ!」と思ってしまうわ。つまるところ彼は、まさに心技体に秀で、勇気と秩序を重んじ、アメリカという国を信じる、本当にこれ以上ない愛国者アメリカの理想とするアメリカなんだなっていうのがすごくよくわかる。その心情をアメフトのロッカールームでさせるのも心憎いわ。ほんとジョックの象徴じゃんね。このジョン・ウォーカーを、一見して露悪的な人物に描かなかったのはさすがとしか言いようがない。
しかし!しかしですよ。いみじくもバッキーが「その盾を持てばキャプテンアメリカになれるわけじゃないぞ」って言った通り(あそこで手りゅう弾に身体を投げ出したことは?って聞くの、俺の魂がぎゅん!ってなりましたよ)、見ている視聴者全員にわかっているわけです、「彼はキャプテン・アメリカにはなれない」ってことが!あのスティーブ・ロジャースを見てきた我々にはそれがわかる。ウォーカーはもしかしたらスティーブよりすぐれた「兵士」になれるかもしれない、でもそう、ウォーカーはたとえ100回生まれ変わってもムジョルニアを持つことは絶対にできないと思わせる。こゆるぎすらさせられないだろう。それがわかる。ウォーカーを極端に卑下せずに、でもそれが「わかる」キャラクター作りにしているのがね、ほんとうにえらいなと思いました。しかし、あの2話のトラックの上でのファイトシーンのあと、荷台で一緒に運ばれるサムとバッキーたち4人のシーンはい~い感じにヒリヒリしてて最高だったな。たぶんみんなバッキーの目つきに同化していたのでは?

ヘルムート・ジモ

第2話のクリフハンガーでチラ見せ、第3話でこれでもか!と魅力爆発。いやしかし、私てっきりシビルウォーのあのジモの独白の場面、なんかつましくも幸福な我が家…みたいなの想像してたよ。あの留守電繰り返し聞く姿からあんなド級の金持ちが出てくると思わんやん。いや男爵(バロン)だけどね!そうなんだけどね!
ジモが第3話で光り輝いてる理由は、このF&Wで初めて出てくる、というかフェーズ4で初めて出てくる、海千山千の、色男、金も力もありますが何か?な大人だからじゃないかと思う。きわめて劇画的人物というか。そういう人物ばっかりだったらリアリティがしぬけど、ここまで地に足がつくどころかめり込むようなひとにフォーカスが当たってたからさー。でもって、ジモが根っからの強化人間嫌いだってのもよくわかりました。ウィンターソルジャー計画を悪用せずに潰したのも納得です。マジで血清を憎んどる。しかしそれにしてはバッキーに対してはなんか、情があるよね。なんであそこで顎むにむにしたの?バッキーとの対面であのキーワードをのっけからカマしてくるのも期待通りって感じでよかったです。てっきりすぐに離反するのかと思いきや、けっこう付き合ってくれてる。「トラブル・マン」のサントラを「あれにはすべてがある」と評して、サムが「こいつは嫌いだけど今ゆってることは評価すんぞ」みたいなやりとりよかったな。あの流れでバッキーのメモ帳がスティーブのものだってわかったのもありがとう、い~い薬ですって感じだった。このまま後半戦もバキ翼コンビニ付き合うのだろうか?どこかで手ひどいしっぺ返しがくるのだろうか?間違いなくこのドラマ最大のトリックスターで、この先も視聴者を翻弄してくれそう!

シャロン・カーター

バッキーが「うわーあ、イヤな女になったー」って棒読みで言ったとこ、爆笑しました。シャロンどうしたシャロン。ちょうやさぐれて暗黒街でのし上がってましたけど。またこれがカッコイイので参るわ~!男どもが博士を囲んでヤイヤイやってる間ひとりで刺客を片付けまくるの最高だった。駄菓子菓子!これ絶対「国賊扱いされてそのまますべてに背を向けて触るもの皆傷つけた」って顛末とはどうしても思えない自分がいるんですけど。最後の「まずいことになった」っていうのも自分の商売的なことじゃなくて、隠密同心的な意味なのでは!?絶対なにか託されてますよね彼女。だってもともとフューリーの子飼いだったじゃないの。そんな1枚舌のわけないとか思っちゃう。みんな言ってるけどバッキーですら恩赦をもらってシャロンがそのままなわけないと思うしさー!いやまあシャロンがそのまま(国賊扱い)だっていうのもそのまま鵜呑みにしてるサムどうなんとも思いますけど。私は裏が(というか表が)あると思ってます!

フラッグスマッシャーズ

正直よくわかんないとこが多い。指パッチン後の、半数の人間が消えた世界のほうが良かった、あの頃はみんなが助け合ってた、世界が美しかった…というカルトなのかと思いきや、やってることが難民キャンプに物資を運ぶという行為なので(金も盗むけど)、それをやるのに血清は盗む、強化人間になってヒャッハーする、言っちゃなんだけど君らのテーマって…何かね?みたいな気になってくる。世界の半数が消えるということはすべての国の国力が下がるということなので(それをこのコロナ・パンデミックで身をもって知っている我々である)、当然助け合わなきゃいけないし、その連帯を経験した、傷を乗り越えた人たちと「そうでない人たち」との埋められない溝があるというのはもっともで、そこに切り込むのさすがだなーと思うけど、その着眼点の面白さと比して今のところそこまで物語を牽引するパワーがこの集団に感じられないっつー感じかな~。
ぜんぜん関係ないけど、この間日本の各音楽フェスが連名で声明を出していて、その昔「そっちのステージ出るならこっちのメインには出さん」みたいな噂がまことしやかに聞こえてきたりしたのに、パンデミックになれば互助せざるを得ないってこういうことか…と思いました。卑近なたとえだしほんとにぜんぜん関係ない!

3話のクリフハンガーはブラパン組からアヨのご登場だったわけだけど、これ毎回なんかあんスかね。もう正直息も絶え絶えだしどこかで話を収束させていかないといけないのでは~!ってなってますがどうなんだろう。最終的にフェーズ4の各映画に続く!とかなんのかな。そういえばマドリプールでサムたちが賞金首になるとこ、ジョン・ウィックやん!!と思ったら脚本家同じ人だった。きっとその人のサビなんだろな。とりあえずあと3週、ギャイギャイ言いながら楽しみたいと思いまっす!

「フォリーズ」

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ナショナルシアターライブアンコールで上映。最初にラインナップに入った時、なんとなくあらすじ読んで「好きそうなやつ…」と思ってたんだけど、その時は居住地的に気軽にナショナルシアターライブを見に行ける環境じゃなかったので、思っただけで詳細が記憶の彼方にすっ飛び「なんか…観たいと思ってたやつあったけど…それが何か思い出せん!」みたいなことに。今回のアンコール上映、これを逃すとあとがない!ということで最終日に駆け込みで見てきました。いやー行ってよかった!やっぱり長年の観劇で培われた「これ おれ 好きそう」の感は侮るべからずでした。

間もなく取り壊される劇場に、かつてそこで繰り広げられたレビュー「ワイズマン・フォリーズ」の面々の同窓会が行われる。続々と集まってくる美しき「ワイズマン・ガールズ」たち…というのが物語の背景ですが、実際この作品、最初の紹介でソンドハイム自身が言うように「プロットなんて、なくていいんだ!」なので、物語がここからどう展開するか、というような話ではないんですよね。物語のあらすじとしてはほぼ、この2行で終わり。付け加えるとしたら、そこに4人の男女がいて…というところだけど、これもプロットとしてはそこまで。

この作品のもっともすぐれたところは、「現在」のワイズマンガールズとそれを取り巻く男たち、と「かつての」彼ら彼女らが舞台の上に一緒に存在しているという、その見せ方につきるという気がします。「途轍もなく長い時間を同時に手のひらに乗せると、そこに切なさが立ち上がる」というまさにその通りで、かつての彼・彼女らの幻影が合わせ鏡のようにそこにいることで、なんでもないシーンがものすごく立体的に輝いてくる。

とくに白眉だったのがWho's That Woman?のナンバー!円形の回り舞台でかつてのガールズたちがタップダンスを踊る中、合わせ鏡のように半円のむこうでかつてのガールズたちが踊る、それがないまぜになりクライマックスに向かっていくあの高揚感!歌詞の鏡よ鏡、あの女は誰?(あの女はわたし!)の絶妙な切なさ!心の中でブラボー!連発したし、がんばって見にきてよかった…!!!って思いました。

そのあとのI'm Still Hereもめちゃくちゃよかった…人生は一筋縄ではいかないが、それでもまだ私はここにいる!という力強さ、歌の力でこちらの魂もグッと引っ張られるような、そんな感覚。

恋人たち4人のそれぞれの空虚さ(誰かに愛されたいと言いながら誰も愛せない男、愛している男の空虚さに心が冷えた女、自分を愛しているものから逃げ出さずにいられない男、失ったかつての恋の幻想に取りつかれた女)と、その愚かさ(follies)を見せていくシーンも、美術のうまさ(女性陣ふたりのドレスがあのモスグリーンのトーンのセットと馴染む瞬間たるや)と各シーンの楽しさはあるんだけど、ああやって4人順繰りに見せられるとなんかこう、自分が「待ち」の姿勢になってしまうんだよね(4人分終わるまで次の展開がないな…となり、集中力がなくなる。ほかの作品でもよくこういう状態になる、私が)。とはいえ、サリーのLosing My Mindはすばらしかった。イメルダ・スタウントンが完全に演技力で殴りに来た感じがあった。フィリスはその前のCould I Leave You?の方がパンチがあって好きだったなー。

舞台美術も衣装もほんとすばらしくて、あのかつてのワイズマン・ガールズたちひとりひとりの意匠を凝らしたドレス、美しかったです。心の中が美しさと音楽と、そして少しの切なさで満たされた2時間45分でした!!!

「ラスト・フル・メジャー」

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トッド・ロビンソン監督。セバスチャン・スタン初主演作!え!?そうなの!?ベトナム戦争において英雄的な行動をとった空軍兵士への叙勲をめぐる物語で、実話がベースとなっています。エンドロールで関係者ご本人映像あり。

何しろキャストが文字通り、綺羅星のごとくというやつで、クリストファー・プラマーウィリアム・ハートエド・ハリスピーター・フォンダサミュエル・L・ジャクソンてもう、容赦なくぶっ込んできたな!という感じである。しかも全員が、ベトナム戦争のなかに心のどこかを置いてきた、壊されたキャラクターであるので、その彼らが自分自身と向き合っていく最終盤はもうほぼ演技力の殴り合いという感じであった。

しかし!あくまでもまったく個人的に腰が浮くほど興奮したのは主人公ハフマン(セバスタ)のペンタゴンの同僚にジョシュが、いやジョシュじゃなくてブラッドリー・ウィットフォードなんやけど、もうジョシュって呼ばせて!ジョシュがいたことである!しかも!セバスタと並んでペンタゴンの長い廊下を話しながら歩いてくる、それを正面から撮り続けるカメラ、ほ、ほ、ホワイトハウスを彷彿とさせすぎやろがい!ってなったし、しかもセバスタとバスケ…バスケをするシーン…(ザ・ホワイトハウスでもあるんですよジョシュらが大統領とバスケをするシーンが…)もう、セバスタとジョシュが並んでるってだけで(しかも結構絡む役なんよこれが!)ひえ~~~~見にきてヨカッタァ~~~~となったのもむべなるかなである。

事実は小説より奇なりとは言うけれど、逆にむりやり「奇」を盛り込むことも当然できないわけで、そしてピッツェンバーガーの行動に照らせば、その話が日の当たるところに一度出れば名誉勲章授与を妨害するほうが国にとっても政治家にとってもマイナスだったろうと思うんですよね。だから告発以降のドラマが薄くなるのはもっともなれど、しかし物語としては食い足りない部分が残ったのも事実。あとベトナムに移住した退役軍人を訪ねていくところ、いやそんなアヴァロンとか言われましても…現地住民からしたら勝手に美化してんじゃねーよってならんか…?という部分は残りましたな…。

セバスタ、若くして国防総省の中枢にぐいぐい食い込む野心家、という役どころなんだけど、野心家というには雰囲気柔らかくて、奥さん役がファンタビのクイニー(アリソン・スドル)だったので、ご夫婦のシーンがいずれもかわいい&かわいいだった。エド・ハリスが手紙を渡すシーンが個人的にはいちばんぐっときたところ。マスクが涙で濡れました。

「帰還不能点」劇団チョコレートケーキ

  • AI・HALL H列15番
  • 脚本 古川健 演出 日澤雄介

劇団チョコレートケーキの新作。いやー傑作でした。観ながら、もちろん舞台に集中しているんだけど、これは自分はいまめちゃくちゃ突出した演劇作品を見ているな…と自覚できちゃうようなところがありましたね。

大日本帝国下において実在した「総力戦研究所」の同窓生が、戦後亡くなった同窓生を偲んで旧交を温めつつ、「あのとき」を振り返る…という構造をとっていて、この視点がまず慧眼の極みとしかいいようがない。総力戦研究所という題材のピックアップはもちろん、その時代にいる彼らを描くのではなく、戦後という視点から振り返る、かつあくまでも「酒場の余興」といったテイで過去のなぞらえが進んでいくというのがむちゃくちゃ効いてましたね。こうすることで、観客はある意味彼らと同じ視点で振り返れるんですよ。その時代の彼ら、を描くと結果を知っているのは観客側だけになり、ともすれば登場人物が過剰に狂信的な人物にみえるきらいがあるけれど、この構図では最初から現実と一線が引かれているのがまずよかった。

さらに「酒場の余興」という構図だから、その「日本が戦争に流れ込んだ」時代の振り返りを役者陣が入れ替わり立ち替わり演じていくのもすばらしいアイデア三国同盟独ソ不可侵条約あたりの顛末を漫才風にやってみせるところ、いや面白すぎてふるえがきたわ。そう、今回何が素晴らしいって、この相当に重い題材を重いままで手渡すのではなく、演劇として、エンタメとして、そうすることで届く高みが、渡せる重さがあるはずだ、という志で貫かれていることだとおもう。劇団メンバーだけでなく客演陣も皆みごとというほかなく、言ってみれば間断なく劇中劇が繰り広げられる展開であっても観る側に混乱をいっさい生じさせなかった。

もちろん、相当に単純化した描き方であるとはいえ、歴史とは作用と反作用である(私の高校時代の恩師の言葉)ということを、そしてこの国がついこの間(歴史においては80年、100年というのはついこの間でしょう)、その作用反作用のなかでいかに戻れないある河を渡ったのか、がきちんと整理されて提示されるのもすごいとしか言いようがない。

冗談抜きで、これを教育現場での題材にしてもいいのでは?と思ったなあ。過去を知ることでしか得られないものって絶対あるけど、それには手渡し方も重要で、この作品は(最終盤までは)ある意味過去に対する批判的視点で描かれているので、見る側の拒絶反応を引き起こしにくい。手渡すことに成功すれば、そのあとの自問は受け取った側の人数だけあって、その深さも角度もそれは千差万別だろうけど、「考える」ってところに到達させるにはこういう作品が入り口になってもいいんじゃないかって思います。

個人的には山崎とその妻をフックにしなくても描ける作品ではないかという気はしました。『聞き手』はべつに女性に限らなくてもいいし、岡田の慚愧の念は山崎を通して仮託しなくてもじゅうぶんに伝わるところなので、そのほうがシンプルになったかもしれない。市井のひととして誰かを出すなら、もう少し痛烈な台詞があってもよかったかも。とはいえ、作品として相当に傑出したものであることは言うまでもなく、ぐっと集中した客席で2時間、観劇の醍醐味を存分に味わわせてもらいました。次回公演も楽しみです。