「ジェントルメン」

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ガイ・リッチー監督新作!マシュー・マコノヒーチャーリー・ハナムコリン・ファレルヒュー・グラントヘンリー・ゴールディング…と、あっどうもありがとうございます!な色気と娑婆っ気あふれるメンズの切った張った物語です。つまるところガイ・リッチーが大好きで大得意なやつです。

学生時代からその商才をアンダーな方向で開花させ、大麻ビジネスで名を成したミッキー・ピアソンは、その巨大ビジネスをそっくり売り渡し、裏社会からの引退を目論む。ミッキーに恨みを持つもの、恨まれるといやなので先手を打つもの、自分が最も強いオスだと誇示したいもの、それらの欲望をかすめ取ろうとするもの…という具合に各人の思惑と欲望が入り乱れるわけですが、映画の構成がそれらを追いかけてすべてを知っている(ふうを装う)記者フレッチャーと、ミッキーの右腕レイモンドとの会話を軸に進んでいくんですよね。全面にガイ・リッチーのサインが入りすぎてておもしろかった。

自分がだれよりも賢いつもりなやつほど見事に裏をかかれていく中で、レイになんか、夢が詰まりすぎてるけども!みたいな気持ちに何度かなりました。チャリハナさんのひげを蓄えたお顔好きだわあ。ヒュー・グラント演じるくせ者記者フレッチャーとのやりとり、なべて良かった。フレッチャーのペースに乗せられているようで…なところ、おいしい。おいしいですね。何気に登場人物の中で最強なのでは感のあるコリン・ファレルもよかったですね。コーチ何者なんだよコーチ。マシュー・マコノヒーのミッキー・ピアソン、獅子のごとく獰猛で油断なく、レイモンドとの並びがこの…うん…SUKI…ってならざるを得ない。なんかくやしいけど!

筋立てとか、えっ、そっちに転がる?とか、ちょっと強引だなあ、と思うところがあっても最終的に「楽しく見てしまったぜ…」って頭をかきながら映画館を出てきてしまう感じ、結局のところガイ・リッチーの手のひらで踊らされたってことかな!きらいじゃないぜ!むしろ好きだぜ!

「外の道」イキウメ

  • シアタートラム C列9番
  • 作・演出 前川知大

イキウメ新作。本来は昨年同時期に予定されていた公演ですが、緊急事態宣言により全公演中止。しかし、「来年、同じメンバーでやります」といち早く打って出たこと覚えてますよ。この1年間で「金輪町」をめぐるあれこれをwebで展開したり、配信込みの公演を打ったり、イキウメ、ほんとプロデューサーが有能だなと思う。それもそのはず、だって中島隆裕さんだからーー!!!(贔屓を引き倒す)まさか再トライの今年、またもや緊急事態宣言下での上演になろうとは予測してなかったかもしれないけれど、あらゆるものをかいくぐってなんとか…いけそう?じゃない?いやはやよかったよかった。

椅子と机がならぶ空間にどことなく寄る辺ない風情で集まる男女。出入り口のドアはひとつ。その中のひとりが声をかける。二人はどうやら同級生らしい。これまでの来し方行く末をぽつぽつと喋るふたりだが、次第に「自分が経験したある不思議なできごと」を語りはじめる。

舞台装置は出ハケのためのドアがひとつしかない空間で、最初に全キャストが登場し、そこから最後までノンストップというのが、これは演じてる方もなかなかに過酷だぞ…と思いながら見ておりました。なかでも、今回は安井順平さんと池谷のぶえさんの「語り」によって構成されている(他の人物は、彼らの語りの中の登場人物)わけで、改めてこのおふたりの力量ハンパねえな…と感心しきり。

今まで信じていたもの、当然にそうなると思っていた秩序、それが少しずつ、少しずつ、ずれていく、それていく、こわれていく。どうして宅配便は正しい住所に届けなきゃいけない?物質は本当に固い?住民票に書いてあることは真実?いつも見ていた妻の顔は、本当にそんな顔だったのか…?続々と立てられる問いに足もとが揺らぐところにやってくる「真の闇」。ああ、こわい。どこからきて、どこへいくのか。

最前列だったんですが、2度目の「闇」のとき、足もとにフワッと「なにか」が押し寄せた感じがして(たぶんただの風)、マジでヒュッと息を呑んじゃったね…。劇場という、まあシアターゴアーにとっては揺りかごのような場所で、寄る辺ない場所に放り出されるこわさを体験してしまった感。しかし、ある種善光寺のお戒壇巡りのような感覚というか、寄る辺なさの向こうにあるものを感じさせるラストでもあったな。正直なところ個人的な好みからはちょっとはずれてるんだけど、劇場で味わう劇的体験としてのそれで十分満たされましたという感じ。逆に地方の大きめのハコでどうなるのかっていうのは気になるところでもある。

イキウメのキャスト陣、相変わらず盤石。そして安田・池谷両氏の語る力、声の力よ。暗闇に包まれていても観客を惹きつけて離さない。堪能させていただきました。

「六月大歌舞伎第二部 桜姫東文章 下の巻」

人の皮がめくれるところを見てしまった。
とか言うとなんかホラーっぽいですがそんな話ではありません。四月の上の巻に続いて仁左玉コンビによる「桜姫東文章 下の巻」見て参りました。無事幕が開いたことにとりあえず安堵。

下の巻は岩淵庵室の場から大詰まで。上の巻以上に仁左衛門玉三郎ご両人の芸をこれでもか!と堪能できるすばらしい2時間でした。私がとくに感じ入ったのは岩淵庵室の場での清玄と桜姫が争うところ、清玄の喉に出刃が刺さり息絶えたあと、戻ってきた権助(この切り替わりの鮮やかさ!早替えとかそういうテクニカルなことではなく、マジで纏った空気から違う人間が出てきた!という驚き)と桜姫の去り際。権助の顔に浮かぶ清玄と同じ痣、自分を取り巻く因業因果をまざまざと思い知らされた桜姫が「毒喰わば」と叫ぶあの一瞬、一皮むける、という慣用句がありますが、あの瞬間まさに桜姫という人間の皮がめりめりと裂けて、その芯にあるものが出てくるような凄まじさを感じてふるえました。こういう瞬間に立ち会いたくて劇場に足を運んでいるんだなと思わせてくれる。

しかし今回、望みうる現代最高の布陣での南北作品を見て、南北の作品のある種の極端さ、倒錯性、フェティッシュともいうべき癖の数々、そういうものはこの磨きあげられた芸、もっといえば磨きあげられた「美」と両輪になっていてこそなんだなということを実感しました。単にそのエッセンスを現代に移してしまうとただ露悪的に陥ってしまいがちなのはそういうことなのかなと。美というのは単に容姿のことではなく、人間が人間らしくあろうとして見せる品のようなものでもあるし、虚飾と裏表の豪奢な設えでもあるし、なにより歌舞伎という芸能においては、その型がみせる一幅の絵のような完成された様式美でもある。そしてそれらがあるからこそ、南北が描いたその裏側に蠢く「にんげん」というものが、どうしようもなく魅力的に見えてくるんだなと。

岩淵庵室の場での経文を挟んでのキマリの素晴らしさ、権助住居の場で店子たちをあしらう権助の魅力、そこに戻ってくる風鈴お姫とのじゃらつきの絵になるさま、歌舞伎を見た!!とすみずみまで心が満足する2時間でした。仁左衛門さまも玉三郎さまもすごすぎる。そしてすばらしすぎる。そうそう、最後おふたりの「今日はこれぎり」を聞けたのも嬉しかった。上演すること、それ自体が有形無形のプレッシャーにさらされるこのご時世にこの作品をふたたび手掛けて下さったことに感謝しかありません。

「夏祭浪花鑑」

上演が決定したときに「2000年代の私の観劇の中心にあったのは間違いなく夏祭浪花鑑だった」というエントリをあげたのだけれど、その「これを見届けずしてしねない」みたいな演目が緊急事態宣言で初日が延期。甦る、去年の明治座「桜姫」の悪夢。しかしなんとか、12日から幕が開くことになりました。私は3枚取っていたチケットのうち2枚が消えましたが、前楽のチケットが生き残ってくれました。

コクーン歌舞伎としては13年ぶり、勘九郎さんの団七としては2011年の博多座以来10年ぶりの、中村屋の「夏祭浪花鑑」。えらいもんで、10年以上時間が経っても、あれだけ繰り返し観た演目だとさすがに台詞覚えてますね。私が。

コクーン歌舞伎は客席を巻き込んだ演出がお得意ですが、コロナ禍ということもありそこは趣向を変え、かつ休憩時間を挟まなくてもいいように演出をところどころで変更。発端~お鯛茶屋の場面は超ショートバージョン。台詞のテンポもかなり速かったですね。しかしこれは今回に限ったことというよりは、中村座や松竹座でやるときと比べてコクーンはいつもちょっと巻きがちではあった気がします。それにしても、発端で一瞬出てくる弁慶格子の勘九郎さん、男前が過ぎる。過ぎる案件。

博多座のときはもともと勘三郎さんがおやりになる予定だったところを勘九郎さんが代役として入られたので、周囲のキャストは「お馴染みの」面々ばかりでしたが、今回はキャストも大幅に変わりました。でも演出も見直さざるを得ないこの状況で、座組がフレッシュな顔ぶれになるというのはいいタイミングだったかもしれないですね。

勘九郎さんは役者としては長距離走者のタイプだよなあと私は常々思っているんですけど(不思議なことに舞踊ではあまりそれを感じない)、後半になればなるほど、気持ちが積みあがっていけばいくほど花がどんどん開いていく感じになるのが面白い。今回すごくいいなと思ったのは九郎兵衛内の場。長町裏からの地続き感がすごい。もう、出の所作からすごい。お梶が感じているであろう「ただならぬ空気」が舞台の照明としては不自然な、けれど西日の落ちる夏の夕暮れとしては自然なあの独特の明かりの中にたちこめていることがわかる、あの濃密さ!たまらないですね。松也さんの徳兵衛とはっしとにらみ合い、みごと聞いたりもろたりせえよ!と切る啖呵のかっこよさ、その裏側にある悲痛さがぐいぐい伝わってくる。いやはや堪能。

演出としてはわりと駆け足でも、この九郎兵衛内をじっくりやったのはよかった。長町裏の演出も基本的に過去の上演を踏襲してますが、泥場はあれがギリギリなんだろうなー。「こりゃこれ男の生き面を」からの、はっしとにらみ合い、スーッ、スーッと荒く吐かれる呼吸の音が響くところすごく好き。キマリ、キマリが本当に浮世絵みたいで、人が人を殺すという場面をこうまで「絵として高める」歌舞伎のすごさよ…としみじみ実感しちゃいますね。だからこそ最後の「悪い人でも舅は親、おやじどーん、ゆるしてくだんせ」で、その命をめぐる興奮から一気に観客の感情を反転させるわけで、ここはもう一息!と欲張りたいところ。その凄惨な現場に鉦の音と共に日常というか、現実がどっとなだれこんでくるところも、このコクーン歌舞伎で生み出された妙というか、あの世とこの世の端境みたいなあやうさがあって好きな場面です。個人的にはストップモーションにならず、そのまま押し流されていく演出の方が好みかな。

七之助さん、てっきりお辰かと思ったらお梶を初役でしたけど、なんかいつにない貫禄のある佇まいだったですよね。釣船三婦の亀蔵さんも今回が初。なんだろう、侠客っぽさというか、切った張ったの世界に片足を突っ込んでいる名残のある三婦で、彌十郎さんとはまた違う人物像ですごくよかった。お辰は松也さんが初役で、そして徳兵衛も松也さん。団七とお辰を兼ねるのは勘三郎さんがやってらしたけど、徳兵衛と兼ねるの初めて見たわあ。ていうかこの演目でお辰の役が一番色んなキャストで見ている気がする(福助さん、勘三郎さん、勘七兄弟、そして松也さん)。松也さんのお辰、独特のむっちり色っぺえ感じがすごくて新鮮だったなー。もし、頼まれたくて言うのじゃないが…から、「立たぬぞえ、立ちませぬぞえ、もし、三婦さん」にいたるところがお辰は難しいところだね、ここでの引きを鉄弓を手にしてからの爆発にどうつなげるかなんやな…と改めて思ったり。

徳兵衛は松也さんご自身が「勘九郎さんの団七で徳兵衛をやりたい」と念願してらしたそうで、なんてありがたい。そういえば博多座での勘九郎さんの初役のときも、松也さんは磯之丞で出ていらして、あの労苦を共にしてらしたのだなあと思うと、そのお気持ちに涙が出そうになりますよ。ふたりとも男前だけど、並んで見るとタイプが違って、だからこそあの稚気溢れる鳥居前でのやりとりもはまってたし、これからも末永くお付き合いお願いします…という気持ち(誰目線)。でもって松也さんが徳兵衛になったことで九郎兵衛内のお梶との場面がなんか色気とエロマシマシでおねがいしまーす!みたいになってていやはや、えらいもんです。

屋根の場の立ち回りも過去演出を踏襲してますが、この演出(特にミニチュアが出てくるくだり)は、ミニチュアの梯子がハケて、それが大きな梯子になって出てきて、その梯子を登って見得、というくだりの前段のような趣向だと思うので、肝の部分の演出が出来ないことも踏まえてもうちょっと見直してもよかったかも。あの梯子のところはね、ほんと何度見ても、何度見ても、最高に胸が熱くなるところなので、ここはいつかきっとリベンジしてほしい!

串田演出の夏祭浪花鑑はそのラストの演出が毎回話題になりますが、今回の、搬入口までたどりつくが、開かず、いったん絶望したふたりが客席に駆け戻ってくる…というのは博多座のときとほぼ同じですね。違うのは、ストップモーションにならず映像で見せたことくらいかなー。このラストは、かつて搬入口を開けて「どこへでもいける」という趣向(時間的にも、空間的にも)を見せたところから、「どこへもいけない」の見せ方に転化しつつあり、それはそれで劇的で毎回楽しませてもらっていますが、そろそろ原点の「どこへでもいける」という鮮やかな幕切れをまた見たいような気もしています。

勘九郎さんは団七初役のときは2011年3月で、そして満を持してのコクーン歌舞伎はコロナ禍で…と、なんというか浮世の荒波がどしゃめしゃに降りかかっていますが、贔屓として思う勘九郎さんのいちばん素晴らしいところは、それらがふりかかってなお輝く肉体の説得力なんじゃないかと思っています。10年前に拝見したときは、次に見るのが10年あとだなんてまったく想像していなかったなア。願わくば、次はもう少し近い未来でありますように。願わくば、そのときには満場の客席の興奮と拍手が劇場を包みますように。願わくばそれまで、わたしもあなたもこの世界を生き残っていけますように。

「フェイクスピア」 NODA MAP

野田地図新作。フェイク+シェイクスピアのタイトルからして何かこう、仕掛けがあることは間違いない雰囲気ぷんぷんでしたし、「フェイク」という単語を入れ込んでいるところから見ても、昨今のSNS、ネットにおける「ことば」の使い方を刺す方向でくるんじゃないのかなー?という予想をしておりましたが、個人的にはいい意味で予想が裏切られたという感じ。

例によって、以下は完全に物語の具体的な展開(いわゆるネタバレ)が含まれますので、これからご覧になる予定の方はお気を付けください。

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「月影花之丞大逆転」

コロナ禍でできるだけ密を避ける製作・作品をということでyellow新感線と銘を打った新作。上演時間も短く、出演者も最小限。新感線はもう長いこと、色んな意味でファットな作品作りに舵を切ってきたし、そうせざるを得ないような環境もあったりした中で、なんだかちょっと原点回帰ぽい雰囲気を感じてしまいますね。

東京公演期間中にライブビューイングがあったので、この先なにがあるかわからんし一応ここで見ておくか…とライビュ先、観劇あと、という珍しいパターン。いや、観るとわかってたらやっぱり実際の観劇を優先させたいって気持ちあるよね。いやな予感は当たるというのか、私の見る予定だった週末に緊急事態宣言再々発令、ギリギリ24日に駆け込みました。

ライブビューイングで見た時にも、あのオープニング映像で思わず声出して笑いそうになってしまって、いやマジで節操ない、国内外の名作傑作流行りもの、なんでもシャレのめし笑いのめしてネタにしまくる、NO!節操!それでこそ新感線!

月影花之丞率いる劇団に所属する、保険の高額契約をエサに釣られた男、共演者キラーと呼ばれ業界を干された女、そこに絡む訳ありの男…実はこの男は凄腕の殺し屋だった!その情報を掴んだインターポール極東支部は劇団に潜入捜査員を送り込むが…!ってそんなあらすじはもはやこの際どうでもいい。いやどうでもよくはないけど基本的にこのあらすじはやりたいことをやるためのお膳立てです。やりたいことはなにかというと「木野花演じる月影花之丞がでっかい声で言いたいことを言う」、そのための舞台装置です。

木野花さんの演出家としての行き過ぎエピソードは枚挙にいとまがないほどあって、もともとの「花の紅天狗」が生まれたのもその木野さんのキャラクターありきだったわけだけれど、御年70歳を超えて今なお意気軒高な行き過ぎた演劇愛を思う存分に浴びれる2時間という感じでした。すごすぎるよ。ときどき猛烈にグダグダになるところも含めてすごすぎるよ。

緊急事態宣言によって、私の観た時点では明日以降の舞台がどうなるかわからないという状況であったことと決して無関係ではないと思うけれど、月影先生の言葉のひとつひとつ、「あなたの怒りはわかります」「優れた役者が舞台に立てないなどあってはならない」「劇団をなめるな」「舞台がなければ作ればいい!」いやもう、刺さる刺さる。こんな芝居なのに、こんな芝居だからこそ、こんな芝居がちゃんと存在できる世界じゃないとだめじゃんね、と心の底から思いました。あとさ、演劇をなめるな、じゃなくて劇団をなめるな、っていうのがね、作家の想いを感じたりしてね、そこもすごくぐっときた。

古田新太阿部サダヲが全編にわたって芝居を引っ張ってくれるので、すごく安心感あったな。少人数芝居ならではのメリットとも言えるし、カナコさんたちの隙間をぐいぐい埋めていく力も沢山堪能できてよかった。カーテンコールの時とか、あれっ観ているときに感じてたよりもキャスト少ない、ってなったのはやっぱ劇団の力だなって思いました。

それにしても、古田とサダヲ、どっちも捨之介経験者だよね!ってことで用意されたあのアルプスの傭兵じいじのクライマックス、あれこそずっちーな!!!ですよ。あんなの喜ばないわけないじゃないの。いろんなものをネタにして、最後は自分たちの文字通り代表作をもパロるその精神や良し。あの名乗りが始まった瞬間の高揚は劇団と長く付き合ってきたものへのご褒美みたいなものだよね。最後にヤギがならんで2人と5匹のシルエットになるの、まあ笑ったし嬉しいしちょっと泣けるしでえらいことだった。

新感線が大きくなって、だからこそ用意される舞台は大きなものにならざるを得なくて、それはそれで進んできた道だからそれを否定はしないのだけど、でもこうして心底おバカでくだらなくて劇場出たらなんの話だったか忘れちゃうような、でも無駄に熱い演劇魂は確実に胸に残るような、そういう新感線の魂みたいな作品だったなと思います。月影先生の名セリフ、「舞台の上に過去はない、あるのは次の台詞だけ」。次の舞台を楽しみにしています!!

「パークビューライフ」

岡田惠和さんが脚本で風間俊介くんが出る、しかも上演時間1時間30分の会話劇というのでチケットを取ってみました。観に行く予定にしていたのは25日だったんですが、緊急事態宣言の発令が25日からと発表され、25日やれるかもしれないという一部情報もあるにはあったんですが、もう先に見ておくしかないと23日金曜日の当日引換券をまさに当日の昼に購入して足を運んできました。

新宿御苑を望む一等地にあるマンションの最上階で、だけど家族もなく友人もなく誰ともかかわることなく絵だけを描いて暮らしてきたひきこもりの男の家のルーフトップバルコニーに、女性3人組が屋上庭園と勘違いしてやってくる。聞くともなしに不法侵入3人組の話を聞いていると、どうやら彼女らは地方からこの東京に出てきて、今日が東京最後の夜らしいということがわかる。男は思い切って彼女らに自分の家に住むことを提案する。

ある意味現代のおとぎ話というか、ファンタジーだなあ…という側面が強い感じがあったかなー。あまり、洋にも望にも香苗にも玉枝にも生々しさを感じなかった。もちろんそういうふうに作ってあるんだと思う、あえて。洋が最初は自分を同性愛者だと偽り、その偽りが苦しくなって告白するときの一連のせりふがこの芝居においてはいちばんのキモなのだと思うのだけど、しかし「男とか女とかそういうのを越えて」っていう台詞を女がすんなり飲み込むには、その人間関係にそれなりの積み重ねがないとね…と思うし、まあそれを言ってしまうと自分らが不法侵入した家の男に誘われてそのまま居ついちゃうっていう筋書き自体がファンタジーだもんな…ということになっちゃう。男女1対1だったらまた違った見え方だろうけども。

望たちが洋に見つかってから居直る展開がうぎゃーと思うほど苦手で、いやさっさと謝れよ…と思ってしまった。なんでしょうね、ああいう展開見てて楽しめないんだよね。

かざぽんはこの布陣では頭一つ抜けたところがあるというか、ファンタジーをぎりぎりリアルに見せることに成功しているのは彼の腕によるところが大きいような感じがありました。独白も聞かせる力がすごい。あと前田亜季さんもよかったなー。このおふたりはなんというか、重力が感じられる役作りで、それがこの舞台においては大いに力を発揮していたと思います。