「355」

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みんな大好き俺らのジェシカ・チャステインことチャス姐さんが制作に加わった女性スパイもの映画。監督はサイモン・キンバーグ。

なにしろジェシカ・チャステイン筆頭にルピタ・ニョンゴペネロペ・クルスダイアン・クルーガーファン・ビンビンと「おれの考えたさいきょうの女スパイ」といわんばかりの顔ぶれで、この5人がどうやって手を組んでいくのかというだけでも相当楽しめる。

というか、実のところ「この5人がどう手を組んでいくか」のストーリーラインの面白さ、手を変え品を変え感に比べて、全体的にはちと詰めが甘いなあ~と思う部分もあった。物語のなかでもっともシリアスな喪失(人質にとられて、殺される)が描かれるのが終盤に置かれすぎて、かつ必然性が薄く感じられてしまう。その前にいかにもな目くばせ(電話での何気ない会話)があるのもちょっとなという感じ。グラシエラの家族は殺されないけど、いやあそこまでやってて見逃しますかねってなるし、なんにせよあそこは時間の流れ的にもうまくいっていなかったなと思う。ルピタ・ニョンゴの演技力に助けられてるよなーと思った。

とはいえ!私が声を大にして言いたいのは!メイスとマリーのバディものを可及的速やかに作りなさいということです!綺羅星の如き5人のなかでもこの2人のケミストリーはピッカピカに輝くものがあった!ダイアン・クルーガーの演じたマリー、こういう「触るもの皆ブッ殺す」みたいなキャラクターが最高にはまっていたし、メイスと全然打ち解けない感じでいるのもむちゃくちゃいい。こういう二人にね~~~仲良くケンカしながらいろんなものをぶっ飛ばしてほしいんですよね~~~そういうやつ!そういうお気軽ポップコーンバディムービーをね!ぜひ!お願いします!!

ペネロペ・クルスファン・ビンビンも含め、5人全員キャラが立っていて、そこは本当に神経が行き届いてるなーと思いました。「初仕事」の武勇伝を女だけで語る場面とかね、全然普通だけど、でも家族のこともパートナーのことも触れないこういう会話ってほんとにありそうでなかったもののひとつだよなあ。

セバスタさんは、あの独特の口の端がむにゅっとあがった笑顔で、むちゃくちゃ人が良いようにも、逆に悪いようにも見えるという存在感を如何なく発揮しててさすがでした。ひどい目に遭ってもあまり可哀想に思えないところもスキ(笑)こういう作品でチャス姐さんからお声がかかるんだから、人間性を信頼されているんだなーと思うと嬉しいです。

「天日坊」

本当は千穐楽も観に行く予定だったのですが、あえなく夢と消えました。でもって、幸運なことに日程前半でいちど舞台は拝見できて、でもまず「観に行く」ことにすごいプレッシャーがかかる(無事上演されるのかも含め)状況だったので、なんとなくふわふわしたままの観劇になってしまい、千穐楽無事観られたらそれも含めて感想書こうかな…とか思ってたんですけど、やっぱあれだね。ポリシー変えるのよくない。どれだけリピートする予定であっても最初の感想は初見の1回だけで書く!というマイルールを貫くべきであった。そして感想は早いうちに書くべきであった。

10年ぶりの再演ということで、そういえば初演は今までコクーン歌舞伎のメインだった勘三郎さん、扇雀さん、芝翫さん(当時は橋之助さん)が不在の、初めての若い座組だけでのコクーン歌舞伎だったんだよなーということを思い出したり。そういう意味でも、あのときの座組にはとにかく疾走感があった。題材と、宮藤さんの手による巧みな脚色と、そして「力の足りない部分は、速度で補う」とでもいうような座組の意思が非常にマッチしていたのも初演の成功の大きな要因だったと思う。

今回はかなり刈り込んで上演時間の短縮に努めている感じがありましたが、しかしじゃあより疾走感が増したかというとそうではなく、むしろ速度は落として力で殴る、みたいな重みが出た作品になったなというのが私の第一印象でした。

折しも今年の大河ドラマは源平時代を題材にしており、時宜を得た再演だったなと思います。頼朝のご落胤なのか、義仲の子なのか、はたまた、その誰でもないのかという己と向き合う切なさ、ともすれば空虚に陥りそうな哀愁という部分は今回の再演のほうが色濃く出ていて、これは歳月というやつだなあと感じ入りました。

劇中の音楽、とくにトランペットを効果的に使った劇伴のすばらしさは初演と変わらず。あのお三婆さんの話に耳を傾けているうちに、まさに「悪魔が囁く」としかいいようのない一瞬に法策が襲われる、あのときの高く鳴るトランペットの音色と、瘧のように体を震わす勘九郎さんの芝居はまさに極上でしたね。

七之助さんのお六は、当代この手の役をやらせてこの人の右に出るものなしといっていいんじゃないかと思うほどハマり役だし、独特の間合いのうまさが笑いを生むところも能力たけえ~!と感服しちゃいました。亀蔵さんと獅童さんのやりとりとかも、こういうのほんっと好きなんすよねぇ~。ラストの立ち回りはキャストの身体能力の高さと演出のスピード感があまりにも好相性で、見ていてどうやっても胸が高鳴るやつ。

扇雀さんも、さすがコクーン歌舞伎のコアメンバー!と唸るような、ところどころできっちり印象に残る場面を作り上げていてよかったです。マイラブ小松さんのハートの強さが試される二幕冒頭の場面は正直、私得でしかなかった。ありがとうございます。あんなにゲラっていてもどこかで逸脱しない愛される職人芸と芝居のうまさ。ちゅき。

自分の出自の心許なさから「おれはだれだ」と自分のアイデンティティを希求する役を、歌舞伎役者というある意味血統がものを言う世界にいる歌舞伎役者がやる、ということが真逆のベクトルにあると見る向きもあると思うけど、個人的には歌舞伎役者ほど、つまり血の流れをいやがおうにも意識せざるを得ない人たちほど、この「おれはだれだ」という問いに向き合わなきゃいけない人たちなんじゃないかって気がするんですよね。勘九郎さんの法策にも、その出自と向き合うということの厳しさと、そこを足掛かりにした向こうにある空洞を感じさせて見事だったと思います。あのラストシーンの法策はなんというか、誰でもない、という空気があり、この芝居の「重さ」を感じさせる一瞬でした。

「だからビリーは東京で」モダンスイマーズ

開幕当初から聞こえてきた高評価に、ひー、好きそう。蓬莱さんだし。好きそう。でも1月は遠征の予定がない…この1本のために日帰りか…?と散々逡巡した挙句、日帰りで見てきました。たぶん私史上目的地滞在時間最短のタッチアンドゴーだったと思う。しかし、やはり長年の勘というか、こういう「好きそう」の予感は往々にして当たる。超強行軍の甲斐ある芝居でした。とてもよかったです。

たまたま友人の代打で観た「ビリー・エリオット」に感動した青年が、自分もなにかをはじめよう、はじめなければ、と手あたり次第に見つけた劇団に飛び込み、けれどその「なにかをはじめる」気持ちの先にこのコロナ禍が、不要不急の時代がやってきてしまったら…?という筋書きで、「ビリー・エリオット」の作品そのものがかなり大きな全体のモチーフになっています。

描かれる「ザ・小劇場」の劇団の世界、情熱だけはあるがそれ以外の大抵のものがなく、閉じた人間関係の中で色んなものが爛れていく世界、このダメさの煮こごりみたいな空気を痛烈に描きつつ、痛烈だからこそ思わず笑っちゃう部分もあって、いやー痛痒かったな。凛太朗だけじゃなく、「まみのり」ふたりのどこか共依存みたいな関係のいびつさも印象的。「のり」が一方的に搾取されているように最初は見えるけれど、その彼女が最終盤に見せるのは「まみ」への執着っぽいのがまた、キツくもあるし、面白くもある。

途中、「アングリーダンス」を思わせる場面もあるし、劇団員たちのそれぞれの感情がぶつかるラストでは、凛太朗が自分の思いを抱えきれずにElectricityを歌う、という場面もあるので、配信や再演やもろもろそうしたものが簡単にいかないだろうというのも、納得という感じであった。でも、あそこは、あの歌だよな、と思うし、加恵が抱きしめてくれるのに、1秒後に「それはそれ」という感じで自分の未来について語るのも、こんなにキツいのにこんなに面白い、という感覚が最後まで共存してたなーと思う。

しかし、私が唸ったのは、唸ったというか、してやられたというか、ともかくこの作品をひとつ高いところへ押し上げているのは、その先の場面だと思う。あっけない劇団の終焉に、座付き作家が「書きたいことができた」という。ぼくたちのこと、この劇団のことを書きたい。一度も舞台に立っていない彼に…凛太朗に、演劇を、知ってほしくて。誰に見せるためでもなく、自分たちのために。

蓬莱さんがポスターやフライヤーに「優しいものを創りたかった」と書いていて、このどこにも行き場がないようにみえる、不要不急の時代の小さな劇団が着地する優しさってどこなんだろう、と思っていたけれど、こういう優しさがあるんだなと思ったし、まさに蓬莱さんの真骨頂だし、何かをはじめよう、という決意だけが宙に浮いてしまったたくさんの人たちの、そのすべてに「語られるべき何か」があるんだよと言ってもらえることが、こんなにも胸に迫るなんて。何かを始めて、成し遂げたことだけが物語なのではない。その意思を持つことこそが物語なのだ。踊ることで自由を得たビリーのように。

そして舞台は、最初のシーンに戻る。劇団のオーディション。つまり私たちは今まで、その何かをはじめようという意思を持った若者の物語を…その作品を見ていたというわけだ。なんという見事な構図。

拝見したのは千穐楽でしたので、この御時勢にとにかく、無事に最後までやりきれた、というだけでも製作陣、キャスト陣は大きな安堵があったのではないでしょうか。現実と向き合いながらも、だからこそ「優しいものをつくりたい」という蓬莱さんの意思の結晶のような作品でした。観ることができて、よかったです。

「鷗外の怪談」二兎社

2014年の初演は拝見しておらず、今回初見です。木野花池田成志の顔合わせに弱いわたし。作家として精力的に活動する一方、陸軍軍医として政府中枢に属していた森鷗外の社会と家庭という二面性、さらには家庭の中での夫としての立場、子としての立場という二面性を描いた作品。

二面性、と書いたけれど、もちろん、実際の森鷗外がどんな人物だったかはわかりませんが、少なくともこの作品においては、殊更に「二つの顔」というような印象を持たなかった。二兎社のホームページの作品紹介の中に「言論・表現の自由を求める文学者でありながら、国家に忠誠を誓う軍人でもあるという、相反する立場を生きた鷗外」という部分があるのだけど、国家に忠誠を誓うことと言論と表現の自由を求める文学者って相反するんですかね、とおもう。

ただただ政府の面子と数合わせのように逮捕され起訴された大逆事件の被疑者のひとりについて、その人物の素晴らしさを涙ながらに語り、減刑を懇願する家政婦の手を取る一方で、その大逆事件の行き着く先を決めるその場に居合わせていたことを淡々と抱え続ける。確かに危うい二面性、と言ってもいいかもしれないが、でも、多かれ少なかれ、人間みんなこういう場面を経験したことがあるんじゃないですか。経験して、それはそれとして両方を飲み込んだまま、飲み込んでいないような顔をしてみんな生きている。人間とは多面体であって鯨を保護した同じ手で便所の壁に嫌いな女の電話番号書いて…というやつです(「キレイ」より、「ここにいないあなたが好き」。名曲ですね)。

少なくとも私は、あ、これ、わたしでもあるなあ…と思いながら見ていたし、劇中の「そういう鷗外」を断罪するような描き方をしていないところはさすが永井愛さんだなあと思いました。あと改めて台詞がうまい脚本家のホンはいいなあ、とも思ったね。どんな場面でも淀みがなく、むちゃくちゃ飲み込みやすいように描かれている。そのかわり、飲み込んだ後でいろんな味がしてくるのがまた、匠の技だぜ。

松尾貴史さんの鷗外、すごくよかったですね。まず声の良さ!そして軍人としての「森林太郎」も、作家としての「森鷗外」も、地続きの人間であることを感じさせるナチュラルで丁寧な芝居作り、見事な芯だったと思います。成志さんと木野花さんが間違いないのはいわずもがな。安心して芝居に没入できる座組で楽しめました。

「スパイダーマン:ノー・ウェイ・ホーム」

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トムホピーター最新作。監督トム・ワッツ。
ここまで読んでまだこの映画見てない人、情報開示できるのはここまでなので潔く回れ右して映画を見てからこの先をご覧ください。よろしくお願いします。

傑作、いやもう、傑作であった。日本は公開が遅れて年をまたいでしまったがゆえに、2022年ベスト級がど頭にくることになってしまった。2021年内に見てたら間違いなくこれがあらゆる年間ベストを差しきったであろうと思わせる、それぐらいの出来。単品として精度の高い脚本であるというだけでなく、それを幾層ものレイヤーを重ねて、なおかつ物語が美しい弧を描いて着地するという、いや製作者の頭の中どうなってん!?!?と腰を抜かすほかない。つかこれ、いつからこういう構想だったんですか?最初からこの着地点が見えてたの?ソニーに権利を売ったばかりにMCUが隆盛を極めてもすぐには参画出来なかったスパイディがとうとう帰ってくるぞ!となったあの時からここが見えていたのか?そうとしか思えないほど完ぺきすぎる。でも、リアルタイムであった紆余曲折を考えると必ずしもそうでなかったのもわかるし、いやー…奇跡。奇跡っすわ。

前作ラストでミステリオの罠により正体を明かされ、かつミステリオを害した嫌疑までかけられちゃうピーター、自分だけじゃなくてMJやネッドまで好奇の目にさらされ、その進路にまで影響が出てしまう。思い余ったピーターはドクター・スティーヴン・ストレンジに助けを求め、自分がスパイダーマンだという記憶を人々から消せないかと懇願する。

どこから書いていいかわかんないけど、とりあえず私は冒頭で出てきたピーター達の弁護士がマット・マードックだった時点でかるくしにました。全然予想してなかった…!ホークアイの方にキングピンが出てきて、そっか~、ということはチャーリー・コックスのデアデビルもどこかのドラマで出てきたりすんのかな~、ファイギが「出てくるなら彼にやらせる」言うてたしな~~、と思ってはいたものの、まさかソニピクのスパイダーマンの方で出てくるとか思いませんやん!やん!ちゃりこさん「出てないよ」言うてたやん!やん!いやそう言うしかないですけども。もう嬉しくて、嬉しすぎて、危うく立ち上がりかけたよ。なんかもっと長いシーンを撮ったという話も仄聞しましたが、どうにか見せてもらえんかその映像を…。

アンドリュー・ガーフィールドトビー・マグワイアという「2人のピーター」が出るのでは!?マルチバース展開がそれを可能にするのでは!?という噂は結構早くから出たり消えたりしていて、そして北米での封切りが先行したこともあってガーくんピーターが出るという決定的なバレを踏んでしまっていたので、出てくるときは「あ、ここだなあ」と思ってはいたんですよね。でも、初日のレイトで見たんですが、そのシーンで観客席がむちゃくちゃ沸いたんですよ。それはトビーピーターのときもそう。こういうのってやっぱり映画館で味わえてよかったって気持ちになります。あと、「出てくる」ってことはまあ、バレで知っていても「どういう出方をするか」ってことは全然知らなかった。だから、この3人の展開がこんな風に帰結するとは…!っていう、そのストーリーテリングのうまさに後半ほぼほぼ口を開けてみていたおれだよ。

2人のピーターがそれぞれの「スパイダーマン」の世界と地続きな存在としてそこにありつつ、末っ子MCUピーターを助けようとしてくれたこと、3人だからこその会話のやりとり、そして2人の抱えている「癒えない後悔」をここであらためてやり直させてくれるという神展開。なにがすごいって、そのためにストーリーをねじまげている、というような無理な部分がどこにもないんですよね。マジで完ぺきに美しいのよ。いやほんと、どうしたらこんなストーリーを考えられるんだ!?トビーピーターとドクター・オクタビアスの会話、「努力してます」のはにかみ、そしてMJを助けるガーくんピーターの、あの表情よ…!あれこそまさに、役を半透明に通して役者が見えてくる芝居そのものじゃないでしょうか。途中でネッドが「治療しまくるぞ!」というけど、ほんとに観客も治療しまくられちゃったね。ガーくんがパンをMJにぶつけられて、「ムズムズは!?」「パンは無害だから…」っていうところ、キュートすぎて悶え死にしそうになったし、青年牧師みたいって言われちゃうトビーの佇まい、まさに!でほほえましかったし、はースパイダーマン1・2・3愛おしすぎたな。

あと、「大いなる力には大いなる責任が伴う」。これはやっぱり絶対にやるんだな。トムホピーターは出発点にトニー・スタークという存在がいたので(そして彼と死別したので)、トニーがベンおじさんの役割なのでは、という声も少なからずあったけど、今にして思えばこの3作目がまさにトムホピーターの「スパイダーマン:オリジン」だったんだなっていう。マリサ・トメイをメイおばさんにもってきた慧眼よ。だから本当一体いつからこの展開が見えてたんですか。MCUケヴィン・ファイギおそろしすぎるのよ。

復活したヴィラン組の仕事がすばらしかったのも、本作を傑作に押し上げている大きな理由ですよね。アルフレッド・モリーナのドック・オクはもちろん、ウィレム・デフォー!!あんたはやっぱり嬉しい男だよ。何度も「これだよ~~これがヴィランだよ~~!!」と打ちすぎて痛い、膝が。あのコンドミニアムでの変貌からスパイダーマンとのバトルに至る所、馬乗りになったピーターに一発殴られる度に表情が黒い歓喜に歪むあの演技!!すごすぎたね。

最後にはトムホピーターは、世界の裂け目を閉じるために、自分を忘却させる魔法をストレンジに頼み、ストレンジはそれを叶える。大事な恋人、一番の親友、自分を信じ支えてくれたものすべてが「自分を認識しない」世界を、彼は選ぶ。すべてが終わった後、ひとりで部屋を借り、高卒認定をとるためのテキストを用意し、ひとりでスーツを縫って、かれはピーター・パーカーとスパイダーマンという二つの顔を引き受けて、親愛なる隣人として生きていくのである。

この結末。あまりにすごすぎて、いやもう感嘆のため息しか出ない。メタ的なことを言えば、これは「つぎのスパイダーマン」への完ぺきな橋渡しといってよく、トム・ホランド自信は今作でスパイディとしては最後、というようなことを口にしているようですが、その気持ちもわかる。3部作だけでなく、トビーピーターとアンドリューピーターも含めた過去の「スパイダーマン」作品の締めとしてこれ以上のものはちょっと考えられないからだ。とはいえ、ここまで大ヒットしたので、そうそう放っておいてくれないだろうという気もしますが。

今作でのピーターの決断は、今までの彼を見てきたものとしてはあまりもやるせなく、さびしさがつのるものではある。どうにかなんないんですかね、そう思いもする。でも、この作品のラストのピーター・パーカーは、孤独ではあるが、哀れではない。この先に彼と、MJと、ネッドの人生が再び交錯することがあるのか、それぞれがまた別の大切なひとを見つけるのか、それはわからない。でも、あの世界の誰もが知らなくても、ピーター・パーカーはそこにいて、今日も親愛なる隣人としての役目を忘れていない。誰も知らなくても、観客である我々だけは、そのことを知っているのである。

そしてエンディングがDe La Soulの「The Magic Number」って!!!どこまでキメてくるん!!!Three is a magic number、3は魔法の数字だよね…うううう。

トムホピーターがこれで最後でも、最後でなくても、シビルウォーでのキュートな登場から、トニーとの関係から、恋から友情から、世界の孫とまで言われてみんなに愛されたあなたのスパイディをリアルタイムで見られたこと、本当に大いなる楽しみでした。たかが映画、されど映画。たかがエンタメ、されどエンタメ。大袈裟でなく自分の人生も引き受けていこうぜ、と思えたし、そういうエンターテイメントに触れられることが自分には必要だということがよくわかった夜でした。スパイダーマン最高!!!

2021年のベスト

例によって年もすっかり明けましたが2021年の振り返りエントリやっておきたいと思います!今年は芝居と映画!

観劇編

総観劇本数36本(リピート含まず)。後半わりと固め打ちしたのでこの本数、前半はかなり抑えめでしたね。昨年よりは10本超増えてるので、2022年もできればこれくらいのペースはがんばりたい。ということで、よかった芝居3本(観劇順)。

  • 劇団チョコレートケーキ「帰還不能点」
  • NODA MAP「フェイクスピア」
  • 「パ・ラパパンパン」

いやまあ3本挙げておいてなんですけど、今年はもう「帰還不能点」がぶっちぎりベスト1です。脚本のクオリティの高さに唸りましたし、「総力戦研究所」という題材を選んだ時点である意味一本、勝負あった、というぐらい「花見の場所取りのうまさ」が際立っていたと思います。たぶん遠からず再演するんじゃないかな?してくれるといいなー。

「ファイクスピア」はね、ここに野田さんの作品選ぶの、自分でもマタカヨーと思わないではないんですけど、大阪で見た時の観劇体験が、あまりにも自分の観劇好きの原点を揺さぶられるような感覚があり、これは選ばざるを得ない…という感じ。「パ・ラパパンパン」は見た時期もよかったし、今日の気分だったらこれだなーというぐらいで、他の作品でもいいんですけど、とはいえ高いクオリティの脚本と熟練した演出がタッグを組むとこんなに幸福な作品ができるんだな~!という意味でもベストにあげたくなる作品でした。

映画編

総鑑賞本数25本。こちらは例年とあまり変わらずか。複数回見た作品はなし。こちらも良かった作品3本(鑑賞順)。

いや!わかってる。皆まで言うな。3本のうち1本は監督の演出を介しているとはいえ舞台を映像化した作品、もう1本は舞台の録画であってもう、これは映画ではないやんと言われればそうですねとしか言いようがない。しかしこの2本のどちらも外すことはできん!というぐらい突出してた。なんならナショナル・シアター・ライヴからもう1本「フォリーズ」を入れようか迷ったぐらいだ。あとDUNEも入れようか迷った。そういう意味では「アメリカン・ユートピア」と「リーマン・トリロジー」が図抜けていた年だったとも言える。

アメリカン・ユートピア」は自分の周囲での絶賛がなかったら絶対に足を運んでいなかったと思うので(なにしろトーキング・ヘッズ未履修)、SNS万歳ありがとう、という気持ち。自分が今いる立ち位置を見失うことなくその先を見ること、という精神が貫かれていて、見た時期も相俟ってむちゃくちゃ胸に残った作品でした。あとなにしろカッコいいんだ舞台上のみんなが!「フリー・ガイ」はこの原作ものシリーズもの全盛の時代にオリジナル脚本で勝負してきて、しかもそのクオリティがシッカリ高いこと、ゲーム世界のモブたち、って視点のよさ、台詞のよさ、主演の人脈を生かしまくったサプライズ!ともてなし、もてなされ感がすごくて、いい気持ちで映画館をあとにできたな~と。

そして「リーマン・トリロジー」ですよ。いやあすごかったね。大抵の皆さまはもう2020年中にご覧になっていると思われるので、周回遅れも甚だしいが、周回遅れだろうがなんだろうが見た以上ベストに入れざるを得ない。それぐらい圧倒的でした。あんなに長尺なのに、「もう一度見たい」って人が続出するのも頷ける。演劇を観ることの喜びが麻薬のように濃縮還元された映像だったなと思います。

2022年の興行界どうなるのか、今の状態は創作側には相当負担を強いている状態だろうなと思いつつ、それでも芝居が打てない、映画が公開できないよりはましと走り続けていくのか、それができるのか、まったくわかりません。自分自身もどこまで劇場に足を運べるかわからないしね。

でもまあ、2021年通して、自分は芝居や映画を配信で見ることに向いてないこともしみじみ実感した年でした。お金を払って、役者さんたちが喋ってるのを聴く、みたいなものにもほとんど食指が動かないし、配信に使ったお金の少なさよ!という感じです。なんだろうね。観劇って2時間客を椅子に座らせて立つな喋るな動くな食うな飲むなと、ある意味暴力的な拘束力を発揮するわけだけど、そういう拘束力がないとだめな人間なのかなわし、と思ったりします。なのでできるだけ物事が良い方に向かって、劇場に足を運ぶという楽しみが日常と共にある世界が戻ってきて、それが当たり前になってくれればいいなと願うだけです。

「THE BEE」NODA MAP番外公演

  • ナレッジシアター J列11番
  • 作・演出 野田秀樹

日本版としては再再演になるんですかね。キャストを入れ替えての上演ですが、今回はまず野田さんが出演せずに井戸を阿部サダヲに振ったというのが一番の眼目かな。

初演の時から最高級に完成されていた舞台だと思うので、今回演出的にどうこう、というよりも、この根源的な戯曲が上演されるたびに「今」をより意識しちゃうということを改めて実感しました。

過去にこの芝居を見たことがある人皆が口をそろえてうわごとのように「えんぴつ…」「えんぴつが…」と魘される病に罹ってしまうわけですけど、この恐怖の見立て、そこにあるのは鉛筆であり、割りばしであるのに、見立てによって何よりも観客自身が鉛筆を指にしてしまうあの感覚。ほんと、上演されたら観に行きたいけどそのあとズドンとしんどくなるのがわかってる、なのに観に行っちゃうって…シアターゴアーって、マゾなんでしょうか。

私個人はこの芝居のいちばんしんどい瞬間はとうとう自ら指を差し出すあの瞬間ですね。演出も、そこをエポックのように見せていると感じました。奪い奪われることへの慣れ。搾取し搾取されることへの慣れ。それがまんま自分に跳ね返ってくる、あの瞬間。

しかし、阿部サダヲすさまじいな。いやこれもう何度も言ってますけど、何度でも感嘆するほかない。中盤のある長台詞で、野田秀樹の軌道をなぞるような台詞回しになった瞬間があって、それが寄せようとか似せようとしてそうなっているんじゃなくて、戯曲の生理に則って読んだら正解これです、みたいな憑依っぷりだった。長澤まさみさんとサダヲちゃんはどちらも芝居がウェットになりすぎないという点でいい組合せだったと思う。

大阪の千秋楽で、大千穐楽でもあったというのもあってか、カーテンコールの拍手がなかなかやまず、個人的にはいやもうええやん、と若干辟易してしまいましたが(長いカーテンコール苦手マン)、最後の最後、サダヲちゃんが去り際舞台にひとり残り、拳銃を客席に向けて一発、二発とあのビー玉のような眼で発砲した(ちゃんと火薬が鳴った)のが、ちょっと地続きなようでぞっとし、かと思えばすぐにほにゃっとした顔にもどって手を振りながらハケていくのがなんつーか…やはり、阿部サダヲ、おそろしい子!