2020年のベスト

2020年皆さまお疲れさまでした!実家に帰らずテレビをザッピングしながらこれを書いております(打っております)。もろもろまとめて2020年ふり返ってみまっしょい!

2020年の演劇

劇場での総観劇本数26本。リピートした作品は無し。昨年が48本でしたので、だいたい半分くらい。ちなみに、すでにチケットを買っていて中止・払戻しになった公演が17本ありました。
例年ベスト5とか、特に本数にこだわらず「特によかった」ものを振り返りでピックアップしていましたが、今年は本数も少ないしということでこの2本になりました。

「いきしたい」五反田団
十二月大歌舞伎第三部「傾城反魂香」

「いきしたい」はツイッターでフォローさせて頂いているtroookieさんのこのツイートに刺激されて、歌舞伎座遠征に抱き合わせました。


上演時間1時間、コロナ禍の真っただ中の9月でした。上演前に主宰の前説があり、感染症対策について丁寧な説明がありました。舞台ツラから客席までの距離、換気の仕組み、戯曲を購入した場合のお釣りの渡し方まで、コロナ禍以降に足を運んだ観劇作品で、これほど不安を感じずに見られた芝居はなかったかもしれません。
コロナとは関係のない個人的な出来事を書く、という言葉通り、きわめてパーソナルで、だからこそ普遍的な物語でした。今年、誰もが多かれ少なかれうっすらとした絶望を味わったと思いますが、その絶望の貌を覗かせるような、それでいて、そこから脱け出すための灯りを見るような、本当に素晴らしい一本でした。ぜひ、今度は満席のアゴラ劇場で再演していただきたいと願っています。

十二月大歌舞伎の傾城反魂香は、演目自体はわりと何度も拝見しているもので、だからこそ演者によって味わいが違ってくるものですが、今回は2008年の浅草歌舞伎で拝見した時と同じ勘九郎さんと猿之助さんの顔合わせでした。もしかしたら、このコロナ禍がなければ実現しなかった舞台なのかもしれません。おふたりの充実度が伝わるような、ぎゅっと詰まった充実感のある舞台でした。決められた型通りに演じながらそれでも溢れてくる何かが、劇場を埋め尽くすあの瞬間を味わうことができて、劇場に来てよかったと心から思えました。

2020年の演劇番外編

ありとあらゆる劇場公演が中止になり、配信やリモート演劇が盛んになりましたが、これも今のところビジネスモデルとして安定供給に至るにはまだ途上、という感じもあります。なかなか劇場に足を運べない層からの歓迎姿勢がある一方、劇場に行ける、行けないにかかわらず配信にはなかなか食指が動かないという声もありました。自分自身でも、配信で見た作品(有料のもの)は非常に限られていたので、やはり自分が劇場で求めている体験と、配信で得られる体験には乖離があるというところなのかなと思います。
その中でも2020年でどうしても忘れられない「リモート演劇」はやはり、緊急事態宣言下で行われた「12人の優しい日本人」でした。
peat.hatenablog.com
東京サンシャインボーイズのメンバーがほぼ全員打ち揃い、かつての劇団の代表作をリモートで演じる。戯曲がzoomでの読み合わせスタイルでもじゅうぶんに成立する構成であり、かつまぎれもない傑作であること、この戯曲を知り尽くした役者陣がそれを演じること、ちゃんと若手の演出の目を入れた作品にしていること、どれをとっても素晴らしいの一語に尽きますし、あの先がまったく見えなかった5月に、この作品に心が動いた、動かされたことは他では代えがたい経験でした。あのメンバーが揃って「12人の優しい日本人」を舞台で演じることはほとんどあり得ないと言ってよく、そういう意味でも「この時だからこそ」の体験でした。

2020年の映画

映画館での総鑑賞本数20本。一時期、映画と観劇の本数がぴったり並んでいたこともありましたが、最終的にこの本数に。楽しみにしていた新作がことごとく延期になった年でしたね。そうこうしているうちにハリウッドでは配信と劇場同時リリースなんてビジネスモデルもスタートして、映画産業界も大揺れ、この先どうなるんでしょうか。本当にまったく読めません。現場主義としては、2021年、無事にあれもこれも上映がかなうことを祈るしかできませんが。
さて、演劇に続き映画も劇場で見た作品から特によかった2本を選びました。

ジョジョ・ラビット
シカゴ7裁判

今年はもう、ジョジョ・ラビットの年でした。鑑賞した時点でもちろん最高に心震えましたが、それ以上にその後のありとあらゆる場面で、この映画のラストシーンを思い出しましたし、2020年のベストフレーズを選ぶとすれば、「踊るの。踊るって、自由な人がすることだから」に尽きるような気がしています。あのリルケの詩を思い返したのも一度や二度ではなかったです。まるでここから始まる1年を象徴するような詩でしたね、今思えば。「すべてを経験せよ 美も恐怖も 生き続けよ 絶望が最後ではない」。

シカゴ7裁判はNetflix配給ですが、もともとパラマウントが劇場用に製作していて、もっといえばこの企画自体はかなり昔から動いていたもので、その配給が2020年になり、コロナによってパラマウントNetflixに売却し…と紆余曲折ありすぎましたね。私はもう、マイフェイバリット脚本家であるところのアーロン・ソーキン脚本というだけで尻尾を振るオタクですから、1週間の限定劇場公開期間中にいそいそと足を運びました。ソーキン節をこれでもか!と堪能出来たこと、大統領選のこの年に公開されたこと、あのラストシーン。劇場で見られてよかったです。

2020年の本

今年は例年に比べて本をたくさん読みました。っていうか今まで読まなさすぎた!昔と比べるとその読書量の貧しさにうなだれるしかありませんが、「どこにも出かけられない」となったときに私が選んだエンタメが音楽でもなく映像でもなく読書だったのが三つ子の魂なんとやらという気もします。通勤途中に大きな図書館があるので、ばんばん借りまくりましたし、予約が多くて借りれないとなったらばんばん買いました。場所とるから…なんてことはこの際気にしないことを自分にゆるしました。しかし、本はね、記録を残してないんです。読んだ端からどんどん忘れる(忘れるんかい)。とはいえ、これだけは!という1冊をあげるとするとこれです。

フィフティ・ピープル となりの国のものがたり

これ、ブログにも勢い余って書きましたね。だから今更何を言うこともないんですけど、本当に素晴らしい一冊でしたし、この勢いで韓国文学作品を定期的に読むようになった(し、どれも面白い!)のも自分の視界を開かせてくれたなー感があります。刊行自体はもっと前なので、今年の本というわけではないんですけど、私が出会ったのが今年なので今年でいいんです。よかったらぜひ読んでみてください。本当に最高の一冊です。

2020年はいろんなことがありすぎましたが、たぶん自分という個よりも世界が揺れた年で、その世界の揺れが与える影響が本当に人によって千差万別なんだということを実感もしました。個と世界と、どっちもバランスが保たれてはじめていろんなものを、特にエンタメを味わえるのだなということを改めて考えさせられた1年でした。

毎年この振り返りエントリはほぼ同じ言葉で〆ていますが、今年ほど実感をもってそう祈る年はないかもしれません。
来年も劇場で、たくさんの良き芝居と出会いたいです!

「ビルとテッドの時空旅行 音楽で世界を救え!」

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ビルとテッドの大冒険ビルとテッドの地獄旅行も見てないんですけど、なんかこうパーっとしたものを摂取したくなって、上映時間も91分とコンパクトだしというのでふらっと見に行ってきました。監督はディーン・パリソット。

かつて一世を風靡したバンドが売れなくなってもろもろ方向転換して、いったい今やってることはなんなんだ…?と自問自答するところまではまあ割とよくある話なんですが、そこからぐいっと話が飛んで宇宙から使者がやってきて、世界を一つにする楽曲を77分後までに作らないと時空が歪んで人類が滅亡する…!っていう、大らかすぎる展開。

しかしこのビルとテッドのふたりがですね、まったく湿ったところがなくお互いが大好き、それと全く同じテンションで奥さんと娘が大好き、奥さん同士と娘同士も大好き同士で、基本的にそこが揺らぐシーンがない。未来を見に行って不吉な予言されて慌てるところはあっても、ビルとテッドの「絵にかいたような善良さ」は一貫してるわけです。そこを揺らがせた方がドラマは起きやすいんだろうけど、そういうのはこの映画、求めてないんで!という感じですがすがしい。

ローガン/プレストンのふたりが世界をひとつにする楽曲を作る、という映画の中で与えられた課題の意味がわかるところ、予想はついてもその描き方がまさに「今」だし、ちゃんとアップデートされた映画だなー!と思いました。

しかし、いちばん感動したのはエンドロールかもしれない。世界中のいろんなひとが楽器を手にして歌う、踊る。シモン・ボリバル・ユース・オーケストラ・オブ・ベネズエラエル・システマじゃないけど、歌うことや踊ることが人にもたらすものをむちゃくちゃ衒いなく現しているようでぐっときた。「ジョジョ・ラビット」の台詞を思い出した。踊るって、自由な人がすることだから。

柄にもなく、あんなふうにみんなが「自由に」踊れる日が一日でも早くきますようにと祈るような気持ちになりました。

「ワンダーウーマン1984」

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大ヒットした前作に引き続き監督はパティ・ジェンキンス、主演はもちろんガル・ガドット!もともとは夏映画として公開予定でしたが、公開が延びに延び、最終的にはアメリカでは劇場公開と同時に配信スタートとなりました。劇場公開の道を残してくれただけでも御の字ととるべきか、難しいところですな。

タイトルの通り舞台は1984年で、ダイアナはスミソニアン博物館で仕事しながらワシントンで暮らしている(住んでたのがどう見てもウォーターゲートビル!)。強盗の被害に遭った宝石店が盗品を扱っているおそれがあるとしてFBIから博物館に鑑定の依頼が来るが、その中に不思議な石の遺物があり、そこには「一つだけ願いを叶える」と書かれていた。

製作の早い段階でクリス・パインが再び登場することが告げられていて、どうやって?スティーブ・トレバーとして?それともドッペルゲンガー的な?と思っていましたが、こうきたかー!となりました。あの再会の場面、「僕は今日を救う、君は世界を救え」ってあの最高の台詞をいま言っちゃうのお!?とも思いましたが(合言葉みたいに片方ずつ言ってもよかったのにー)、まさかの「中身はあの人」方式とは。とはいえ、ダイアナとスティーブのふたりにはなんつーかこう、ちゃんとケミストリーがあって、ふたりが並んでいるシーンを見ているだけで心躍るものがある。デートの定番お着替えセレクション、今回はクリパさんがほんなこつめんこかったね。

しかし、全体としては大味だなあという印象の方が強く残ったかも。願いを叶えるというアイテムそのものがまあ大味と言えばそうなんだけど、願いを叶えるためのタスクというか、リスクが明確じゃないうえに、その願いの取り消しにもなんの縛りもかけていない(石を手にしたうえで唱えなければならない、とか)ので、雑に手あたり次第願いを叶え、雑にキャンセルを受けつけるという展開になってしまった。

これは邪推の域とは思うけれど、この「石」が産むドラマは、かつて愛した人の心(スティーブがそっくりそのまま出てくるのではなく中身だけ甦ったのは、ダイアナがスティーブの心の復活を願ったからなのかな)を望む、それ以外のものはすべてを手にしているダイアナとスティーブのロマンスと別れにのみ最高に効力を発揮していて、このふたりの別れの在り様を書きたいがための装置、という感じがしてしまったなー。いや、そんなこと言いつつもほろっときたけどね!ダイアナとスティーブ大好きだからさ!

ペドロ・パスカルはめっちゃよかった、最高にイッちゃっててどんな末路をたどるのかと思ったけど真の願いを叶えて終わったのでそういう意味ではクリスマスっぺー話でもあるなと思った。クリステン・ウィグは最初のドジっ子ぶりから一皮ずつめくれるようにあか抜けていくさまが見事。アクション勝負はもっとがっつり見たかったな~、場面が暗いとどうしても物足りなさが残る。あとゴールドアーマー、あんな鳴り物入りで登場したのに「え!終わり!?」感が否めず。最後のマックスとの対決で「みんなに語りかけてる」つって言葉で人の善性を呼び覚ます場面も、しかしそれだけのパンチのある「言葉」ではないように感じて個人的にはノれなかったところでした。

「迷子の時間-語る室2020-」

亀梨くんが出るってことはチケット取るのも難しそうだし時期的にも難しいかもだしうーんうーんと悩んでいるうちに当然のごとくチケット入手のチャンスを逃し、まあしょうがないなーと思っていたら、東京公演中に「大阪公演の見切れ席販売」の案内があって、まあどれぐらい見切れかわかんないけど申し込んでみっか!どうせ当たらない!と思ったらこれが当たってしかも1階の3列目(の端っこ)だった。おいおいここで3列目が出るってことは相当見切れなんじゃないの…舞台の奥半分ぐらい見えないとか…?と戦々恐々としながら劇場に向かったら普通にぜんぜん見切れてなかった。むちゃくちゃいい席で拝見することができて(つーかブリーゼ何度も来てるけどこんな前方に座ったの初めてよ)ありがたさしかない。

本当に自分でもどうかと思うんですけど、始まって10分?20分?ぐらいで「…これ、知ってる話だな?」ってそこで初めて気がついたのマジでひどい。そうだよね!語る室2020だもんね!迷子の時間のタイトルのほうに引っ張られてたね!5年前に見たイキウメの「語る室」も覚えてるところとそうでないところがあるけど、後半につれ「そうそうこういう話だった…」と記憶が甦ってきたような感じだったな。

この「語る室」がお話としてちょっと異質というか、前川さんならではだなと思うところは、居心地のいい大団円をまったく用意しないところ。あの母親は自分が乗せたヒッチハイクの若者が時間を遡行した自分の子どもであると知ることはないし、父親の免許証を手にした彼が元の世界に戻れる保証もない。弟を待ち続けた兄はその弟がすでにこの世におらず、目の前にいる若者がその弟に育てられたことを知らない。物語の冒頭で示された状態から、彼らは何一つわかりやすい解決を手に入れていない。

にもかかわらず、見終わった後にはどこか明るさが残る。初演の時には、特にあの母親の苦しみに引っ張られた記憶が強く残ってるんだけど、今回観てこれは受容の物語なんだなと思った。物事を解決する、あるべき場所に戻すのではなく、受け入れるための物語。

亀梨くん、こんなカッコいい人がこんな田舎の交番にいたらそりゃもう町は大騒ぎになるのではというメタなことを考えなかったといえばうそになりますが、あまり派手さのない役柄を恬淡とした佇まいで演じていてよかった。忍成さんと演技の相性が合っている感じがあったなあ。貫地谷さん、この中ではいちばんウェットな役柄で、芝居もわりと入り込み型なので、イキウメの世界をぐっとリアリティのあるものにしていて際立ってました。浅利くんも相変わらずうまい。前川さんのホンのテイストにすごく合ってますよね彼。

東京公演・大阪公演と無事完走、本当によかった。もうこればっかりは運だなとも思いつつ、しかし運の良さを引き当てるには毎日の積み重ねしかないわけで、演者・スタッフの皆さまになによりおつかれさまでしたと言いたいです。

「十二月大歌舞伎 第三部」

「傾城反魂香」。勘九郎さん又平、猿之助さんおとくの顔合わせ。2008年の新春浅草で、当時勘太郎亀治郎だったおふたりが双方とも初役でおやりになってからもう12年(ほぼ13年)!それから勘九郎さんは複数回又平をやっておられますし、演目自体も別の方の顔合わせで(それこそ仁左衛門さんと勘三郎さんとか)拝見したりしておりますが、いやー今回の吃又はよかった。それが12年前のおふたりを思いながら見たからなのかはわからないけれど、すごく安直な言葉を使えば、この芝居には確かに舞台の魔法ともいうべき何かがあった気がする。

勘九郎さんの又平、回数を重ねるごとに装飾がシンプルになるというか、初役のときに「ちょっと写実によりすぎでは」と思ったところがなくなって、でも客席に伝える力は倍掛けで大きくなっている感じがした。猿之助さんのおとく、いや実際初役のときから「初役でこの完成度…!」って思ったけど、こちらもさらにその情愛の濃さ、それを「伝える」力の強さがいや増しに増していてすごかった。望みは絶たれた、という場面の、抑えていた感情がどっとあふれるさま、又平の手を取り撫でさするその動きのひとつひとつ、いやーもう気がついたらぼろぼろ涙が出てきちゃって参った。

今回、修理之助を鶴松くんがやっていて、これがまたむちゃくちゃよかったんです!!鶴松くん、思えばもともと芝居心がありすぎる人だった。それを思い出させるというか、あの又平に修理さま…と縋られるところ、又平を見る表情、思い切って刀の鞘を向けるときの動き、決意のさま、それを受ける勘九郎さんの芝居…と、あの一瞬に見応え要素が詰まりすぎてたよ実際。

ほんっとにいいもの見させてもらいました。同じ役を演じるのでも、こうして時を経て変化していく、それを12年という長いスパンで経験させてもらえるって歌舞伎ならではの楽しみだなあと思います。またいつか、というその日がくることも、心の片隅で祈っております。

「十二月大歌舞伎 第二部」

「心中月夜星野屋」。今月は第二部星野屋に七之助さん、第三部傾城反魂香に勘九郎さんなので、昨年春のこんぴらを思わせる流れ。七之助さんおたか、照蔵に中車さんの顔合わせはそのまま、今回は母お熊に猿弥さんという、もう顔ぶれからして間違いないと太鼓判を押したくなる。

3度目?の上演ということもあって、すっかり手の内に入ったという感じの安心感、そこに猿弥さんのどんどん笑いを上乗せしてくる縦横無尽ぶりが加わって、気持ちよくワハハワハハと笑って終われるのがすばらしい。おたかとお熊がしたたかであることは間違いないけど、それを言ったら最初に女の心を試そうとひと芝居うつ旦那もしたたかなわけで、この狐と狸の化かし合いぶりが楽しいし、最後にどっちもちょっとだけ痛い目を見るというオチ(落語が元ネタだから、ここはサゲと言うべきか)も個人的には好きなところ。

中車さん、去り際に「death!」をやってくれたんだけど、そのときの客席の沸きようたるや。出のときの期待感といい、歌舞伎座でもしっかり「客を連れてくる役者」になったなあとしみじみしました。

「23階の笑い」

三谷幸喜さんが再びニール・サイモン戯曲の演出に。上演時間をなんと1時間45分でまとめて、グッとギュッと濃縮した時間で見られるのが最高。短くて面白い芝居最高。いや冗談抜きで三谷さんのこの柔軟性というか、時節に合わせる、という姿勢はもっと多くの人が見習ってもいいのでは。

米国三大ネットワークのひとつ、NBCで看板コント番組を持つマックスとその放送作家集団を描いた物語。予算!リストラ!時代の波!政治的圧力!そういったいつの時代も起こることに振り回されながらも、職業として「面白いこと、笑えること」にこだわり続ける人間たちが登場人物で、ニール・サイモンの自伝的作品とも言われているらしい。三谷さんもかつて放送作家、ドラマ脚本家としてさまざまな軋轢を経験している人だし、あの作家部屋の雰囲気も含めすごくストレートに演出しているなという印象でした。ああやってどんなことも洒落のめしていく作家たちに、すごく愛情があるというか。

最初は、これは「藪の中」じゃないけどマックス自身は出てこなくて、作家たちがマックスを語っていくタイプの戯曲か…?と思っていたら、あっさり登場したのでちょっとびっくり。最初に不在のマックスのことをすごく大きく語るので、登場したら矮小化しちゃうやつではと思ったけど、小手伸也さん獅子奮迅の快演で観客があっという間にマックスという人物に馴染んじゃったのはさすが。

舞台となっている時代はアメリカに赤狩りマッカーシズムが吹き荒れた時代でもあって、その「何かがどんどんダメになっていくような空気」っていうのは、今客席のこちら側にいる私たちも如実に感じるところがあるわけで、その中で「面白いものを作ろう」と奮闘する姿に、時代は違えど一種のシンパシーをもって見てしまうところがありました。

放送作家たちがまた個性的な人物ばかりで、それを端から端まで豪華なキャストが演じるのが楽しかったなー。みんなうまいからもう、安心感しかない。浅野さん、常にビシッと決めた細身スーツのお衣装で、最後にはタキシードまで着て下さるもんだから、いや最高か…?もうずっと浅野さんだけを眺めていたい…と思うほどでしたよ。吉原光夫さんの尋常じゃない声の良さ(と声量)、白スーツのくだりは三谷幸喜のコメディ感満載でよかった。小手さんの存在感はいわずもがな。

初日に拝見したんですけど、ラストのモノローグで瀬戸康史くんがむちゃくちゃ感極まって涙ぐんでしまっていて、それが役のキャラクターにも不思議とマッチしていて、いやーなんかいい瞬間だったな。物語で描かれた放送作家たちのように、この座組にも今日この日に辿り着くまでの有形無形のプレッシャーがあったと思うし、そういう現実と物語が一瞬シンクロしたような時間だったなと思います。

世田谷パブリックシアター感染症対策で客席との間に仕切りをつけているんだけど、前方の視界には影響なく、左右の視界が制限されることで集中力が削がれず、実際の効果はわからないけれど安心感あるなあ…と思いました。そういえばカーテンコールのときに初日だから?ブラボーだか何だか叫んだ客がいたけど、まじやめろし。本当、客席での発声(開演前のおしゃべりもふくめ)気をつけたいし、もっと注意喚起してもいいぐらいだぞーと思いました。